烏鷺光一の「囲碁と歴史」

2013年06月 | ARCHIVE-SELECT | 2013年08月

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不忍池

 上野恩賜公園の中にある「不忍池」は周囲約2km、約11万m2の都心最大の天然の池で、江戸時代以前は現在の三倍もの広さがあったといいます。
 夏には池に浮かぶ蓮の花が咲き誇りますが、江戸時代から名所として知られていたそうです。江戸時代はレンコンの料理屋が立ち並び、不忍池のレンコンは将軍家にも献上されていました。
 池の中央には弁才天を祀る弁天島(中之島)が配されていますが、これは天海僧正が寛永寺を造営した際に不忍池を琵琶湖に見立て竹生島を模したと伝えられています。
                      



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不忍池



            



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不忍池碑



              



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弁天堂



| 江戸時代 | 21:19 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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了翁禅師塔碑

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了翁禅師像



              



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了翁禅師塔碑



                  



 上野の寛永寺根本中堂の境内に「了翁禅師塔碑」と像があります。根本中堂についてブログ掲載したときに触れていませんでしたので今回紹介させていただきます。
 了翁道覚禅師は、江戸時代前期の黄檗宗(おうばくしゅう)の僧侶です。出羽国雄勝郡に生まれ、幼い頃に仏門に入ります。了翁は諸国を巡るうちに、夢枕に立った僧侶に妙薬「錦袋円(きんたいえん)」の製法を教わります。錦袋円は、上野の不忍池のほとりで甥の大助が販売したところ、評判を呼び3000両の資産を築いたといいます。
 了翁は、その資産をもとに難民救済や寛永寺に図書館を設置するなど社会事業に貢献しました。
 現在、残されている碑は了翁の功績を顕彰するために生前に造られたものだそうですが、元はどこにあったかなど、詳細は分かっていません。



| 東京散歩 | 12:13 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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博士王仁碑

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 上野公園の彰義隊の墓の近くに博士王仁碑が二基建立されています。
 「古事記」や「日本書紀」に登場する、王仁(わに)博士は古墳時代前半に百済国から渡来し、「論語」「千字文」(子供に漢字を教えるために千文字で作られた漢詩)を伝えた学者で、その後、日本に帰化しています。子孫も朝廷に仕えたとされています。
 上野公園にある碑は昭和15年と16年に顕彰のために建立されたものだそうです。



| 東京散歩 | 17:14 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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天海僧正毛髪塔

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天海僧正毛髪塔




 上野公園で、以前紹介した「西郷隆盛像」や「彰義隊の墓」の近くに「天海僧正毛髪塔」があります。
 上野寛永寺は江戸城の鬼門の方向にあり江戸の守護として天海により建立されました。
 南光坊天海は徳川家康の政治的ブレインとして表舞台に登場するまでの事はよく分かっていません。中には「本能寺の変」で織田信長を討取った明智光秀がその正体であるという説まであります。して
 徳川家康が「日光東照宮」に「東照大権現」と祀られる事になった際も、主導的役割をはたしています。家康、秀忠、家光と三代の将軍に仕え、寛永20年(1643)に亡くなりますが、この時の年齢は108歳であったと言われています。
 遺言により日光へ葬られましたが、上野には遺髪が埋葬され「毛髪塔」が建立されました。



| 江戸時代 | 11:07 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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上野東照宮

 徳川将軍家の菩提寺・寛永寺のある上野には、当然と言えるかもしれませんが初代家康を祀る東照宮があります。
 元和2年(1616)に、危篤の家康を駿府に見舞った藤堂高虎と天海僧正は、家康に自分の魂が末永く鎮まる所を作ってほしいと遺言されます。そして、藤堂高虎の屋敷であった上野の山に建立されたのが上野東照宮です。元々、寛永寺の一部でしたが明治以降、独立しています。現在は家康の他に吉宗、慶喜が祀られています。
 現在の社殿は慶安4年(1651)に徳川家光が改築したものですが、2009年修復工事が行われていて現在は拝むことが出来ません。工事は今年度までの予定のため、間もなく修復された姿を見ることが出来るでしょう。
 境内には諸大名が建立した灯篭が多数あります。中でも全長6メートルにも達する石灯籠は「お化け灯篭」と呼ばれ異彩をはなっています。



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上野東照宮参道



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社殿(現在工事中で幕で覆われて見ることが出来ません。)
               



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五重塔



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お化け灯篭




台東区上野公園9-88



| 江戸時代 | 22:24 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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ボードワン博士像 上野公園

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 上野公園中央噴水広場の西側に「ボードワン博士像」と刻まれた外国人の胸像がありました。オランダの一等軍医ボードワン博士は、上野公園の生みの親と言われています。
 彰義隊による上野戦争により荒れ果てた上野の山に明治新政府は病院の建設を決めます。そこで、長崎医学校教官でオランダ人医師であったボードワン博士が派遣されます。
 しかし、博士は上野の山の自然を目の当りにし、ここに病院を建てるより公園を整備すべきだと政府に強く働きかけ、明治6年に、ついに我が国初の公園「上野恩賜公園」が生まれました。
 ところで、博士の偉業を讃え上野公園内に建立された胸像にはとんでもない逸話があります。昭和47年に、上野公園開園百年を記念して建立された胸像ですが、その姿は髭を蓄えた今とは全く別人の姿だったそうです。これは像を製作するにあたり取り寄せた写真が間違えて弟の写真だったそうで、永らく別人の胸像が公園に設置されていました。ようやく像が作り直されたのは平成18年になってからの事です。
 余談ですがボードワン博士は上野公園以外にも日本に足跡を残しています。株式会社太田胃散の主力商品「太田胃散」は初代・太田信義が博士から作り方を教わった胃腸薬がベースとなっているそうです。



| 明治・大正時代 | 06:22 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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徳川綱吉霊廟勅額門

 寛永寺は徳川家康のブレインであった天海により江戸城の鬼門の方向に建てられた徳川将軍家の菩提寺です。歴代将軍は日光へ葬られた家康と家光以外は芝増上寺か上野寛永寺のどちらかに葬られています。
 五代将軍徳川綱吉は、延宝8年(1680)に将軍に就任し宝永6年(1709)に63歳で亡くなります。
 当初は「天和の治」と呼ばれた善政を行いますが、その後、「生類憐みの令」の施行など人々を苦しめる政治も行っています。また、在任中の元禄年間は「元禄文化」と呼ばれる町人文化が花開き、江戸時代最も輝いていた時代でした。
 寛永寺については、綱吉の命により元禄11年(1698)に根本中堂が建立されます。柳沢吉保が普請奉行を務め、資材調達は、紀伊国屋文左衛門や奈良屋茂左衛門が行いました。
 綱吉の廟所は宝永6年に完成しますが、明治に入り一部解体。また戦災で一部焼失しています。勅額門は残された貴重な遺構で重要文化財に指定されています。寛永寺の徳川家廟所は基本的には非公開(団体予約で見学可)ですが、廟所の入口付近にある勅額門だけは何時でも見学ができます。




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 台東区上野桜木1丁目16



| 江戸時代 | 06:25 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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尾形乾山の墓碑

上野寛永寺の根本中堂の境内に尾形乾山の墓(墓碑)があります。乾山は琳派と呼ばれる流派を創設した画家の尾形光琳の弟で寛文3年(1663)に京都で生まれました。画家だけでは無く、書道や茶道にも精通していて、特に陶芸に関しては江戸に出て入谷に窯を持ち、作品は「入谷乾山」と呼ばれていました。
 寛保3年(1743)に81歳で亡くなると下谷坂本の善養寺に葬られますが、永い月日で墓の存在は忘れ去られます。
 文政6年(1823)に光琳の画風を慕う酒井抱一により発見され、顕彰碑「乾山深省蹟」が建立されます。墓と顕彰碑は現在、善養寺が明治末期に巣鴨へ移転したため、そちらにありますが、上野周辺に足跡が亡くなるのを惜しむ人々により複製が建立されたとの事です。当初、鶯谷にあった料亭「伊香保」内にあった美術工芸の親睦団体「国華倶楽部」事務所の庭にありましたが、大正10年に現在地に移転しています。
 なお、オリジナルの墓も取材済みですので後日紹介させていただきます。



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右が墓碑。左が顕彰碑



| 江戸時代 | 06:09 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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寛永寺 根本中堂

 上野寛永寺の根本中堂(旧本堂)は、元禄十一年(1698)に現在の上野公園内大噴水の辺りに建立されましたが慶応四年(1868)に彰義隊の戦争(上野戦争)の際に焼失してしまいました。
   現在の根本中堂は、明治十二年に川越喜多院の本地堂を子院の大慈院(現寛永寺)があった場所へ移築し再建したものです。
           

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根本中堂





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上野戦争碑記



                            



東京都 台東区 上野桜木1-14-11



| 江戸時代 | 05:41 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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国際子ども図書館 「小泉八雲記念碑」

 上野にある「国際子ども図書館」は、児童書を専門に扱う図書館で国立国会図書館の支部図書館です。
 建物は明治39年に「帝国図書館」として建設されたもので、ルネサンス様式を取り入れた明治期洋風建築の代表作のひとつです。「旧東京音楽学校奏楽堂」なども設計した久留正道による設計で、「東京都選定歴史的建造物」に指定されています。
 現在、貴重な建築遺産を保存利用しながら、新しい機能と空間を合わせもつ図書館としてリニューアル工事が行われています。既存棟に併設する形で近代的な新棟が増築されるそうで平成27年に完成予定です。



                     



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国際子ども図書館
         
 国際子ども図書館の前庭には「小泉八雲記念碑」が設置されています。とはいっても現在工事中のため、工事用の壁の前にそのまま記念碑だけが取り残されているような形ですが。
 この記念碑は、小泉八雲の東京帝国大学時代の教え子で詩人の土井晩翠が、23歳で亡くなった長男英一の遺言に基づき、小泉八雲を偲んで建てたものだそうです。昭和10年に建てられました。
 碑は八雲の肖像のレリーフが正面にはめ込まれ、上部に壷を囲む天使達の群像が配置されたもので噴水になっているそうですが、現在は工事中であり水は流れていません。 



  
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小泉八雲記念碑



               



東京都台東区上野公園12-49



| 東京散歩 | 10:53 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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