烏鷺光一の「囲碁と歴史」

2013年05月 | ARCHIVE-SELECT | 2013年07月

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テレビアジア井山優勝

 日中韓のテレビ棋戦の優勝者と準優勝者が代表となるテレビアジア選手権で井山裕太さんが優勝し、久しぶりに日本が世界戦で優勝しました。日本にとっては嬉しいニュースです。
 井山さんは韓国のイ・チャンホ、中国の王檄、韓国の朴廷垣を破り優勝しました。日本のもうひとり結城聡さんも準決勝まで来ました。
 これからの井山さんは高尾さんとともに別の世界戦でもベスト8に勝ち上がっているので、これからの日本の巻き返しが楽しみです。

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| プロ対局 | 18:19 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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豊栄稲荷神社(渋谷)

 渋谷の金王八幡宮の隣りに豊栄稲荷神社がありましたので参拝してみました。
 当地に「豊栄稲荷神社」として創建されたのは昭和36年と割と最近のことですが、元は鎌倉時代に、金王八幡宮を創建した河崎基家の曾孫・渋谷高重によって、渋谷川付近(現在の渋谷駅あたり)に創建された神社で、渋谷川が渋谷城の堀であったため江戸時代の文化年間までは「堀の外稲荷」と称されていました。その後「田中稲荷」や、川の端にあったので「川端稲荷」とも称されていたそうです。
 昭和三十一年に道玄坂上にあった「豊澤稲荷神社」を合祀。昭和36年に東京都の区画整備により現在地に移転したそうです。



                                          



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豊栄稲荷神社の鳥居



             



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拝殿



              



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庚申塔



          



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神社の由来が書かれた碑



                                    



東京都渋谷区渋谷3-4-7



| 東京散歩 | 20:40 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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金王八幡宮



 渋谷にある八幡宮(こんのうはちまんぐう)は寛治6年(1092)に、渋谷の地に渋谷城を築き、渋谷氏の祖となった河崎基家(渋谷重家)によって創建されました。江戸時代には将軍家の信仰を得て、3代将軍徳川家光の乳母春日局は神門、社殿を造営したとされます。
 宝物館に展示されている算額は、和算において、数学の問題が解けたことを神仏に感謝し、奉納されたと言われています。やがて、数学の問題の発表の場として、問題だけを書いて解答を付けずに奉納するものも現れ、それを見て解答や想定される問題を再び算額にして奉納することも行われました。昨年上映された「天地明察」で冒頭、安井算哲が算額の問題を解いていた場所が、この神社です。
 境内にはこの他、日露戦争の凱旋軍人により建立された「明治三十八年戦役記念碑」があります。乃木大将による書です。



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石段



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金王八幡宮山門



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拝殿



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宝物館に展示されている算額



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明治三十八年戦役記念碑




 東京都渋谷区渋谷3-5-12



| 江戸時代 | 06:14 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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KITTE(キッテ) 旧東京中央郵便局



 東京駅丸の内南口前に今年3月オープンした商業施設「KITTE(キッテ)」は日本郵便が初めて手がけた商業施設です。
 旧東京中央郵便局の局舎を一部保存し・再生した部分に38階建ての高層ビル「JPタワー」を併設するというの独特の構造の建物は東京の新しい人気スポットとして注目されています。
 旧東京中央郵便局は、明治4年に近代郵便制度が発足したときに設けられた日本最初の郵便役所のひとつで、一部残された旧庁舎は昭和6年に完成したモダニズム建築の傑作と讃えられた建物でした。日本郵政株式会社は平成20年に再開発計画を発表しますが、旧庁舎のほとんどを取り壊す計画に保存運動が巻き起こります。日本郵政の株主は国で、当時の総務大臣・鳩山邦夫は国会にて、重要文化財に匹敵する建物を再開発で取り壊すのは、「トキを焼き鳥にして食べるようなもの」と答弁し、同再開発計画の見直しを明言します。日本郵政株式会社は強引に当初計画を推進しようとしましたが最終的に保存部分を増やすことで決着しました。



                



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東京都千代田区丸の内2-7-2

| 東京散歩 | 06:12 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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リーフデ号の彫刻

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リーフデ号



                                 





 東京駅前の丸の内ビル南側にオランダの商船リーフデ号の彫刻があります。昭和55年にオランダの首相が来日した際に寄贈されたものだそうです。
 リーフデ号は、1598年にオランダ・ロッテルダムを出航。船団はリーフデ号を含め5隻でした。しかし、航海の途中船団の乗組員の多くが飢えと寒さで亡くなり、マゼラン海峡に到達したころには船団は2隻まで減少していました。
 日本を目指した船団は、1600年に暴風雨にあい、もう一隻も沈没。沈没を免れたリーフデ号は、現在の大分県臼杵市に漂着しました。
 この情報は。関ヶ原の戦い後、豊臣家後見として大阪城にいた徳川家康にもたらされ、家康は直ちに船員を大阪へ召致します。
 この時、大阪で家康と対面したのが航海士のウィリアム・アダムスとヤン・ヨーステンです。この面会で、二人とも徳川幕府の貿易顧問となり、ウィリアム・アダムスは三浦按針と改名。ヤン・ヨーステンは、現在の東京駅八重洲口に屋敷を与えられます。八重洲の地名はヤン・ヨーステンからきています。ヤン・ヨーステンは、朱印船貿易でジャカルタへ渡り日本へ帰る途中、船が座礁し亡くなったそうです。



| 東京散歩 | 06:29 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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浜口首相遭難現場 東京駅

 首都東京の玄関口である東京駅は色々な人が出入りして様々な事件も起きています。
 在来線改札を入り、新幹線の改札へ行く階段の手前の柱に「浜口首相遭難現場」のプレートが設置されています。
 浜口首相とは第27代内閣総理大臣・浜口雄幸の事で、昭和5年11月14日に、この場所で右翼により銃撃されました。
 浜口首相は、その風貌から「ライオン宰相」と呼ばれ、国民から圧倒的に支持された首相でした。第一次世界大戦後、軍備拡張を狙う海軍に対して国際協調を重視し軍縮を行いますが、これが右翼の反感を買ったようです。
 銃撃された後、一命はとりとめますが、骨盤を砕く重症でした。翌年1月21日に退院し療養しますが野党の鳩山一郎(戦後総理大臣に就任)らの執拗な登壇要求により3月10日に傷をおして登壇。その後も野党の登壇要求は止まず、容態が悪化し辞任。8月26日に死亡しました。



                            



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新幹線改札前、浜口首相遭難現場



                   



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床に設置されたマーク



                



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遭難現場前の柱に設置されたプレート



| 昭和時代 | 05:50 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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原首相遭難現場 東京駅

 昔の姿がよみがえった東京駅丸ノ内南口の券売機の横に「原首相遭難現場」のプレートがありました。第19代内閣総理大臣・原敬は大正10年11月4日に、この場所で、山手線大塚駅職員の中岡艮一によって刺殺されました。
 大正7年に成立した原内閣は日本初の本格的政党内閣とされ、原首相は爵位を固辞し続けたため「平民宰相」と呼ばれていました。しかし、中岡は原の積極的な産業振興策が財閥などを優遇するものと考え、当時疑獄事件も発生していた事から凶行に及んだと言われています。ところが、裁判は異例の早さで行われ無期懲役となり、その後10年あまりで恩赦により釈放されています。この事から反政党政治勢力の関与や、玄洋社など右翼が関与していたのではと考える人もいますが真相は分かっていません。




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原口首相遭難現場




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プレート

| 明治・大正時代 | 05:43 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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東京駅

 昨年、創建当時の姿へ復元する工事を終えた東京駅はレンガ造り3階建てという100年前の姿を取り戻し、新たな観光名所として多くの人が、その姿を写真に収めていました。
 大正3年(1914)に辰野金吾の設計により創建された東京駅丸の内駅舎は、多くの人々に親しまれてきましたが、昭和20年の空襲により南北のドームと屋根・内装を焼失します。戦後、損傷の激しい3階を撤去し2階建て駅舎として復興しました。
 平成15年には国指定の重要文化財に指定されます。東京駅周辺地区再開発に伴い、2006年より創建当時の姿へ復元する工事が始まり昨年完成した訳ですが、外見とは裏腹に地下に免震装置を設置する等、最新技術も活用しているそうです。



                    



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東京駅丸の内駅舎の外観



                   



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南ドーム内部(丸の内南口)の様子



                      



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創建当時のレンガも一部残されています。



| 東京散歩 | 07:58 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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本因坊丈和が働いていた島屋 「熈代勝覧」

 東京メトロ「三越前」駅地下コンコース(A3出口付近)壁面に、約17メートルにわたる「熈代勝覧」(きだいしょうらん)の複製絵巻が設置されています。
  「熈代勝覧」絵巻とは、文化2年(1805)頃の日本橋から今川橋までの大通りの様子を克明に描いた貴重な絵巻物で、実物はベルリン国立アジア美術館に所蔵されています。



                             





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三越前」駅地下コンコース壁面の「熈代勝覧」複製絵巻



                           



  「熈代勝覧」を見てみると、現在の三越本館と新館の間の交差点から日本橋側へ二件目の黒い壁の店舗の屋号が「嶋屋」となっている事が分かります。
 「島屋」は、埼玉県本庄市の大豪商・戸谷半兵衛の店「中屋」が江戸に出した支店です。
 初代戸谷半兵衛光盛は元禄16年に生まれ呉服店での丁稚奉公を経て呉服や小間物を取り扱う「中屋」を開店します。当時の珍談、奇談をまとめた随筆「耳袋」に登場するほど知名度の高い人物で自費で橋を架け替えたり、浅間山噴火による貧窮者救済を行い名字帯刀を許されます。以降、戸谷家当主は代々「戸谷半兵衛」を名乗りました。
 三代目戸谷半兵衛光寿は文化人としても知られています。俳号を紅蓼庵双烏と称し,俳壇の門下生は関東地方だけでも3~5千人いたと言われています。俳人・小林一茶も門人ではありませんが半兵衛の協力を得ています。



                        



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島屋の様子(黒い壁の店) 。右の路地を挟んで越後屋(三越)がある。



                  



 囲碁界においても戸谷半兵衛光寿の支援を受けた人物がいます。江戸時代に碁聖と呼ばれた一人、十二世本因坊丈和です。
 丈和の出自ははっきりしていません。父親は魚の仲買人で旅に出ることが多かったためで、現在は伊豆という説が有力です。本姓は葛野(かどの)といったと考えられています。
 幼い頃、本因坊家の門人となりますが、突然、本庄で戸谷半兵衛の「中屋」に丁稚奉公に出ます。この時、半兵衛が丈和の才能を見抜き、本因坊家で再び囲碁を学ばせるために江戸の支店「島屋」へ転勤させたといいます。丈和が14歳の頃です。こうして再び本因坊門下となった丈和は頭角を現し、11世本因坊元丈の跡目が次々亡くなった事から、とうとう本因坊家を継承することとなったのです。
 本因坊丈和が公儀に届け出た書類には、姓は戸谷で、戸谷半兵衛の親類となっています。家元継承や、御城碁で活躍するには、それなりの家柄が必要だった時代、戸谷半兵衛のもとで丁稚奉公したのは、丈和の将来性を期待して、家柄を手に入れるためではなかったかという説もあります。本因坊を継承した後も丈和と半兵衛は交流を続けていたそうです。



                 





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島屋(アップ)



                                



 「熈代勝覧」に描かれた「島屋」を見てみると、暖簾に扇のマークがありますが、よく見ると扇の中に「中」の字がデザインされているようにも見えます。確証はありませんが本店「中屋」のマークかもしれません。
 「島屋」のあった場所は「熈代勝覧」を見てみると日本橋室町一丁目、中央通りの三越本館と新館の間にある「一越」か「つづれ屋」のあたりである事がわかります。



                                          





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現在の島屋跡



| 本因坊家 | 21:12 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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本因坊元丈と安井知得仙知対局の地 済海寺

 港区三田4丁目の亀塚公園の隣りにある「済海寺」は、竹芝伝説の竹芝寺跡と言われる場所に元和7年(1621)に創建された寺院です。
 安政6年(1859)にフランスの総領事館が置かれ、その後、公使館へ代わり明治7年まで続くこととなります。境内には「最初のフランス公使館跡の碑」が建立されていました。
 ところで先日、囲碁史関係の資料を整理していたら「済海寺」で江戸時代に囲碁対局が行われていた事が分かりました。フランスの総領事館が置かれる約60年前の享和2年(1802)に十一世本因坊元丈と、その最大のライバル八世安井知得仙知との対局が行われています。
 両者は共に名人碁所となる実力を持ちながら、同じ時代に存在したがゆえに、どちらも名人碁所になれなかった二人です。



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近代的な済海寺の建物



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最初のフランス公使館跡の碑



                



港区三田四丁目16番23

| 囲碁史あれこれ | 00:51 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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