烏鷺光一の「囲碁と歴史」

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囲碁史会

 本日の囲碁史会では、南雄司氏の信州への調査報告を中心に発表されました。
 南氏は長野の折井勘五郎の調査をされ、大庄屋だった折井家を訪れられ、現在の折井家の方から貴重な資料を拝見しそれを写真におさめ発表されました。
 そのほかには私も囲碁史探訪の記録をDVDに編集して流させていただきました。

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| 囲碁史会 | 23:08 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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泉岳寺 高島嘉右衛門の墓

 泉岳寺では、一般の檀家の墓は関係者以外、立ち入り禁止となっていて、赤穂浪士の墓所は一般に公開されています。そして、もう一つ一般公開されているのが高島嘉右衛門(たかしまかえもん)の墓です。
 高島嘉右衛門は幕末から明治期にかけて活躍した実業家で易断家としても知られています。毎年発行される暦に高島易断発行のものがありますが、そのルーツで「易聖」と呼ばれていたそうです。
 実業家としての嘉右衛門は、22歳の頃に材木屋を始め、安政6年(1859)には物産店を開いています。しかし,万延元年(1860)に貨幣密売の罪で慶応元年(1865)まで小伝馬町に投獄されます。出所後、横浜で事業を再開し材木商として巨万の富を得、明治以降は旅館業等も営みます。東京から横浜まで鉄道が敷かれた際、政府の要請で横浜湾の埋め立て事業を行い、その場所は高島町と名付けられました。(現横浜市西区)
 易断家としては、嘉右衛門は小伝馬町投獄時に牢内に残されていた易経により学んだと言われ普段の生活の中でも卦を立てていました。事業の成功も卦を立てた結果と言われ、明治9年に隠居した後は易の研究を行って、集大成として「高島易断」を著しました。
 嘉右衛門の占いの的中率は抜群でしたが、決して占い自体を商売としないで事業の顧客へのサービスとして行います。また、政府高官や政治家は政策決定の際に占ってもらったと言われています。また、囲碁界でも有名な、李氏朝鮮の政治家・金玉均も亡命中に嘉右衛門と親交を結び易断を学んだとも言われています。
 政治家・伊藤博文は嘉右衛門と親しく、嘉右衛門の長女は博文の長男と結婚しました。伊藤博文は明治42年に韓国で暗殺されますが、訪韓の際に嘉右衛門はこれを予見し、中止を訴えています。しかし、博文はこれを聞き入れず暗殺されたため、以降、嘉右衛門は人のために占うことをやめたと言われています。
 嘉右衛門は大正3年に亡くなりますが、死後、「高島易断」を名乗る占い師が大勢現れました。嘉右衛門とは全く関係ない者まで名乗っていたため、易といえば「高島易断」というイメージが定着していきます。平成に入り登録商標を認めるよう裁判が起こされていますが、すでに誰でも使う一般名詞であるとして棄却されたそうです。



 



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高島嘉右衛門の墓
 

| 明治・大正時代 | 23:18 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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泉岳寺 赤穂浪士の墓

 泉岳寺が江戸時代に火災で焼失した際に、再建に浅野家も加わった縁で、切腹した浅野内匠頭は泉岳寺に葬られました。
 元禄15年(1703)12月14日に主君の仇討ちを果たした四十七士は、浅野内匠頭の墓前に吉良上野介の首を供えると、幕府により細川家、水野家、毛利家、松平家の四藩に預けられます。翌年2月4日には全員切腹の命が下り各藩にて切腹しています。そして主君の眠る墓の周りに葬られました。墓石の配置は預けられていた先ごとにまとめられています。なお、四十七士の戒名には、皆「刃」の文字が使われているのが特徴です。
 墓所には現在も毎日、多くの参拝者が訪れ線香が絶え間なくあげられています。


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赤穂浪士墓所入口(左)と墓所の風景(右)

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浅野内匠頭の墓(左)と奥方の墓(右)



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四十七士の墓



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大石内蔵助の墓(左)と息子・大石主税の墓(右)


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堀部安兵衛の墓(左)と十三回忌碑(右)

| 江戸時代 | 21:12 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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泉岳寺

 港区高輪2丁目の泉岳寺は、「忠臣蔵」で有名な赤穂藩主浅野内匠頭の墓、および、元禄15年(1702)に、本所の吉良邸に押し入り吉良上野介を討取り、切腹となった赤穂浪士の墓がある事で有名です。
 泉岳寺は、慶長17年(1612)に徳川家康により外神田に創建されましたが寛永18年(1641)に寛永の大火で焼失します。その後、徳川家光の命で毛利・浅野・朽木・丹羽・水谷の5大名により、現在地へ再建されました。




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泉岳寺入口の四十七義士の碑(左)と中門(右)



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山門(左)と本堂(右)



 赤穂浪士の墓所へ向かう途中、忠臣蔵にゆかりのある物を多数、見ることが出来ます。
 まず、目を引くのは境内に設置された大石内蔵助像です。改めて言うまでもなく、赤穂藩の筆頭家老で四十七士を率いた人物です。



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大石内蔵助像



 境内に、天野屋利兵衛の碑が建立されています。利兵衛は元禄時代の商人で、忠臣蔵では武器を調達する等、赤穂浪士を支援した人物として描かれています。ただし、実際の利兵衛は討ち入りに全く関わっていなかったそうです。
 墓所手前にある「瑶池梅」は、義士の墓守りをした堀部妙海法尼が、浅野内匠頭の婦人、瑶泉院から賜った鉢植の梅を、この地に移植して育てたものです。



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義商天野屋利兵衛浮図碑(左)と瑶池梅(右)



 「血染め石」と「血染め梅」は浅野内匠頭が切腹した、奏者番で陸奥一関藩主の田村建顕邸の庭にあったものだそうです。
 「首洗いの井戸」は、浪士により打たれた吉良上野介の首を、ここで洗ってから浅野内匠頭の墓前へ供えたと伝えられています。なお、井戸を囲う石の柵に「川上音二郎」の名が刻まれています。「川上音二郎」は明治期に「オッペケペー節」で一世を風靡した、新派劇の創始者で、婦人は日本初の女優・貞奴です。



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血染の石と梅(左)と首洗の井戸(右)




 東京都港区高輪二丁目11番1号

| 江戸時代 | 23:10 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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願生寺(高輪)

 港区高輪の願生寺は慶長7年(1602)の創建と伝えられています。今回、写真は撮っていませんが、境内(墓所)に牛供養塔が建立されています。願生寺門前の車町の牛屋七家によって、牛供養のため元文3年(1738)に建立されたものです。車町は牛町とも呼ばれ、江戸幕府が江戸城を増築した際に重量物運搬のために招いた京都牛町の牛屋をこのあたりに設置していたそうで、その牛たちを供養するために建立されました。



 



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山門と本堂



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地蔵堂と牛の狛犬?



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牛の狛犬?



 



港区高輪2-16-22



| 東京散歩 | 23:14 | comments:1 | trackbacks:0 | TOP↑

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高輪大木戸跡

 港区高輪二丁目の国道15号線泉岳寺交差点の北東側に、「高輪大木戸跡」の石垣があります。
 高輪大木戸は、東海道の江戸への南口で、道路の両側に石垣を築き木戸を設け、治安の維持と交通規制のため夜間は木戸を閉めていました。
 当初、札の辻にあった高札場も天保2年(1831)に移設され、江戸の6大高札場の一つとなります。
 江戸時代は、江戸の出入口であり、旅人の送迎で賑い、茶店が立ち並んでいたそうです。
 また、伊能忠敬が日本地図作成のために行った測量の起点が高輪大木戸だったそうです。
 木戸は明治に入り取り壊され、現在は東側の石垣を残すのみとなっていますが、江戸へ通じる各街道の大木戸で現存する遺構はここだけで貴重な史跡です。



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高輪大木戸跡




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大木戸跡の碑と説明板

| 江戸時代 | 23:10 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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赤穂浪士切腹の地 水野監物邸跡

 港区芝5丁目の「慶応通り振興会」(商店街)の西の端にある篠原医院の前に「水野監物邸跡」の案内板があります。


 この地周辺は元禄赤穂事件で、吉良邸討ち入りに加わった赤穂浪士四十七人のうち、九人が預けられた岡崎藩水野家芝三田屋敷の一部です。水野家は後に天保の改革を主導する水野忠邦を輩出した譜代大名で、水野監物忠之は第四代藩主です。元禄15(1702)年12月14日夜の吉良邸討ち入り後、赤穂浪士はこの水野邸のほか伊予松山藩松平家、熊本藩細川家、長門長府藩毛利家に預けられました。12月15日、お預けが決まると、水野家の江戸詰藩士150余人と留守居小川九郎右衛門郎を請取人として仙石伯耆守邸に遣わし、間重治郎光興ら9人を預かり、この屋敷に収容しました。翌16年(1702)年2月4日、9人はこの屋敷で自刃し、武士の本懐を遂げました。
水野家は細川家とともに赤穂浪士の取扱が丁寧で評判もよく、
 「細川(越中守綱利)の水の(水野監物)流れは清けれど、ただ大海(毛利甲斐守綱元)の沖(松平隠岐守定直)ぞ濁れる」という落首がその状況を伝えています。
                                ※現地案内板より


 飲食店が立並び、当時を偲ばせるものは灯籠のみとなってます。


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水野邸にあった灯篭

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水野邸跡の案内板
                  



東京都港区芝5丁目20番20号

| 江戸時代 | 06:31 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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西郷隆盛・勝海舟 会見の地

 本日から東京の話題に移ります。
 JR田町駅は2階に出入り口がありますが、1階へと降りるエスカレーターのところに「西郷南洲・勝海舟 会見の図」という壁画があります。田町駅から地下鉄・三田駅のあたりにかけては江戸時代に薩摩藩蔵屋敷がありました。ここが、有名な幕末に江戸城無血開城に向けて西郷隆盛と勝海舟が会見を行った場所です。
 幕末の頃、旧幕府軍は鳥羽伏見の戦いで朝敵となり、官軍が江戸まで迫ってきた慶応4年(1868)年3月13日、14日に、幕府の陸軍総裁・勝海舟が官軍参謀の西郷隆盛を訪ね、江戸開城に向けて最終交渉を行いました。すでに官軍は江戸城総攻撃に向けて包囲網が完成しつつありましたが直前で戦闘は回避され、江戸は戦禍から救われることとなりました。三菱自動車工業本社のある第一田町ビル前には「江戸開城西郷南州・勝海舟会見之地」の碑があります。揮毫は西郷隆盛の孫で政治家であった西郷吉之助によるものです。



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JR田町駅「西郷南洲・勝海舟 会見の図」



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「西郷南洲・勝海舟 会見の地」碑



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碑の説明プレート(左)と裏面(右)




「西郷南洲・勝海舟 会見の地」碑 東京都港区芝5丁目33番8号(第一田町ビル)

| 幕末・明治維新 | 22:00 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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尾高城跡

 山中鹿之助が末吉城で捕えられた時、中国地方最大の山、大山の麓にある尾高城に幽閉されました。尾高城は別名、泉山城とも呼ばれ、江戸時代に入り、中村一忠が米子城を築城するまで伯耆国西部の拠点でした。
 尾高城の牢に閉じ込められた鹿之助は大物であったため厳重に監視されます。彼は捕らわれて間もなく「下痢だ」といって便所通いをます。その度に警護の侍も、ついて行きましたが、日に何回も通ったので、最後には一人で行かせます。この機会を待っていた鹿之助は、便所からの脱出し、再び毛利へ戦いを挑んでいくことになるのです。



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尾高城跡



 尾高城跡である「シャトーおだか」の駐車場付近に「杉原盛重居城跡」の碑があります。盛重は毛利方の武将で鹿之助と戦いを繰り返したライバルでした。一時、尾高城主として入城していました。



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尾高城跡と「杉原盛重居城跡」の碑




 尾高城跡:鳥取県米子市尾高2377  シャトーおだか

| 戦国時代 | 21:28 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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末吉城跡 山中鹿之助供養塔と囲碁の話

 鳥取県西伯郡大山町末吉の国道9号線末吉交差点に戦国時代の武将・山中鹿之助の供養塔があります。
 このあたりには昔、末吉城という城がありました。鹿之助は山陰地方を中心に一大勢力を誇った尼子氏の武将ですが、尼子家が毛利氏に降伏すると、尼子家再興のために僧侶となっていた尼子勝久を立て挙兵します。
 尼子滅亡後、毛利勢の軍門に下っていた元家臣が次々参加しますが次第に毛利勢に追い詰められ末吉城に立てこもりますが、ここで捕まります。
 毛利勢を率いる吉川元春は当初、鹿之助の処刑を考えますが、名軍師として知られる鹿之助を毛利へ引き入れる様、進言する家臣の意見を聞き入れいったん幽閉します。しかし、策略により脱出した鹿之助は挙兵を繰り返し、播磨国の上月城で降伏し毛利輝元のもとへ護送される途中で謀殺されました。
 最初に降伏し捕えられた末吉城のあった付近に供養塔が建立されました。



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末吉城跡



 尼子と毛利の激しい攻防が行われた末吉城に、囲碁に関わる話が残されています。
 毛利軍が尼子を滅亡させると、尼子の家臣の多くが毛利の軍門に下ります。尼子十旗の一人で出雲の神西城城主であった神西元通は尼子氏の居城・月山富田城に籠城していたため毛利に加わった後も自分の領地へ帰ることができず伯耆国末石城主に任命されます。
 そうした中で、尼子復興のための挙兵を画策する山中鹿之助は神西元通と接触し、元通は尼子側に味方する事を約束しました。しかし、末石城には目付として毛利勢の中原善左衛門、小寺佐渡守が滞在していたため簡単にはいきません。そこで元通は策をめぐらし、小寺佐渡守が所要で芸州へ出向いた際に、林阿弥という囲碁の強豪を呼び碁会を開きます。中原善左衛門は囲碁が大変好きだったようです。そして林阿弥と中原の対局中に、神西は囲碁の助言のように「そこを切る」と発言し、それを合図に刺客が中原に切りかかり斬殺しました。
こうして、神西元通は寝返り末吉城は尼子方の城となったのでした。



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山中鹿之助供養塔



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末吉城を包囲した毛利勢より和議を奨めるために城に乗込み斬殺された美甘与一右衛門の碑




鳥取県西伯郡大山町末吉、国道9号線末吉交差点



| 囲碁が関わった出来事 | 21:57 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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