烏鷺光一の「囲碁と歴史」

2013年03月 | ARCHIVE-SELECT | 2013年05月

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興禅寺 剣豪達の墓

 鳥取県庁の近くにある興禅寺は鳥取藩主・池田家の菩提寺です。藩主の墓は先に紹介した池田家墓所に建立されましたが興禅寺には家臣の墓等が残されています。
 江戸時代初期に作られた蓬莱式池泉観賞庭園は鳥取市指定名勝で山陰を代表する名園の一つと呼ばれています。(今回、時間都合で見学出来ず。)
 なお、現在の本堂は江戸時代に建てられた藩主の霊廟だそうで、本来の本堂は明治時代に寺が藩の援助が無くなり財政難に陥ったことから火災により本堂が焼失した兵庫県美方郡新温泉町浜坂の龍雲寺に売却されました。龍雲寺には現在も当時の本堂が残されています。



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興禅寺入口と本堂 



 興禅寺の境内に自由律俳句で有名な俳人・尾崎放哉の句碑があります。尾崎は明治18年に鳥取市で士族の家に生まれ保険会社に勤務した後、寺男をしながら各所を転々とし小豆島で亡くなっています。
 季語を含めない自由律俳句の代表的な俳人で「咳をしても一人」が有名です。 興禅寺は尾崎家の菩提寺で放哉(尾崎家)の墓があったそうですが確認していません。境内の碑に刻まれた句は「春の山のうしろから烟(けむり)が出だした」という辞世の句です。



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境内案内板(左)と俳人・尾崎放哉の句碑



 本堂裏山斜面にある墓所には「鍵屋の辻の決闘」で荒木又右衛門の助太刀により弟の仇討をした渡辺数馬の墓があります。墓所へ向かう石段の脇に又右衛門を顕彰する「剣聖・荒木先生顕彰碑」がありました。



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剣聖・荒木先生顕彰碑



 荒木又右衛門は寛永15年(1638)に数馬らと鳥取にやってきて十数日で急死しますが、数馬は寛永19年に亡くなるまで4年間、鳥取で暮らしています。
 数馬の墓の隣りには又右衛門の息子と娘の墓がありました。又右衛門の死後、渡辺家が面倒をみていたのでしょう。



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渡辺数馬の墓。右の小さな墓は荒木又右衛門の息子と娘の墓。



 渡辺数馬の墓の隣りには新陰疋田(ひきた)流・刀槍二術を極め、完成させた猪多伊折佐の墓がありました。新陰流といえば柳生新陰流が有名ですが元は戦国時代の兵法家・上泉信綱が興した流派です。信綱の弟子の柳生石舟斎や疋田景兼が新陰流の名を継承しています。 新陰疋田流は疋田景兼の弟子である猪多が景兼が伝えた槍術を大成させた流派です。寛永10年(1633)に没しています。
 この他、寺の駐車場近くの墓所には江戸時代初期の剣豪・臼井本覚の墓がありました。丹石流の達人で、晩年には千石を領し鉄砲頭となっています。寛永8年(1631)に、村山越中という槍術の達人が小姓を殺害して逃走したため、藩主・池田忠雄の命により本覚が追跡。遂に備中で村山を発見し一刀のもとに討ち果しました。この時、村山の家来が槍で本覚向かってきましたが、本覚は、その忠誠心を賞め主人を弔うようにと金子を与えて埋葬させたという話が残っています。承応2年(1653)に77歳で没しています。



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新陰疋田流開祖・猪多伊折佐の墓(左)、剣豪・臼井本覚の墓(右)




  鳥取県鳥取市栗谷町10



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