烏鷺光一の「囲碁と歴史」

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剣豪 荒木又右衛門の墓

 後藤又兵衛墓所・景福寺の近くにある玄忠寺には、日本三大仇討の一つ「鍵屋の辻の決闘」で有名な剣豪・荒木又右衛門の墓があります。現在でも度々テレビドラマに登場する時代劇のヒーローです。
 「鍵屋の辻の決闘」とは次の様な事件でした。寛永7年(1630)に岡山藩主・池田忠雄が寵愛する小姓・渡辺源太夫を藩士河合又五郎が殺害し江戸へ逃亡。旗本・安藤家に匿われます。激怒した忠雄は幕府に引渡しを求めますが、安藤は旗本仲間と結集してこれを拒否。事件は外様大名と旗本双方全体の争いに発展していきます。
 幕府が調停に乗り出す中、寛永9年(1632)に忠雄が急死。遺言で又五郎を討つように言い残します。跡を継いだ光仲は幼かったため鳥取へ国替えとなりますが、これは事件の広がりを抑えるために幕府が池田家の力を削ぐ策略だったという説もあります。事実、幕府は喧嘩両成敗として旗本たちの謹慎とともに又五郎を江戸から追放しました。源太夫の兄・渡辺数馬はこのような背景の中、仇討のために又五郎を追うことになります。
 数馬は助太刀として義兄(姉の夫)の荒木又右衛門に協力を依頼します。又右衛門は柳生宗矩の門人で郡山藩剣術指南役を務める剣の達人でした。
 数馬と又右衛門は寛永11年(1634)に又五郎が奈良に潜伏していることを突き止めます。危険を察知した又五郎は逃亡を図りますが、数馬と又右衛門は又五郎が伊賀路を通ることを知り鍵屋の辻で待ち伏せし仇討を決行しました。又五郎一行は又五郎の叔父で元郡山藩剣術指南役河合甚左衛門(荒木の元同僚)、妹婿で槍の名人・桜井半兵衛など総勢11人。一方待ち伏せ側は4人だったそうです。
 11月7日早朝に待ち伏せを知らずに鍵屋の辻に差し掛かった又五郎一行に数馬、又右衛門らが切り込み決闘が始まります。馬上の桜井半兵衛、河合甚左衛門が最初に狙われ切り殺されると、又五郎側の多くは戦意を喪失し逃亡。 逃げ遅れた又五郎は数馬と対決。数時間にも渡る死闘の末、数馬が又五郎に傷を負わせたところで又右衛門がとどめを刺をさしました。 俗に又右衛門の「36人斬り」と言われていますが、又右衛門が実際に斬ったのは2人だけだったそうで、又右衛門側は一人が死亡しています。
 決闘地の津藩・藤堂家では仇討が外様大名と直参旗本との争いが関係していたため、又五郎の動向等の情報提供や決闘地周辺の封鎖で支援を行っていたと言われています。
 数馬と又右衛門らは世間から注目されますが伊賀上野の藤堂家に4年間預けられ、その後、鳥取藩が引き取ることになりました。
 寛永15年(1638)8月12日に3人は鳥取に到着しますが、8月28日に又右衛門は突然死亡します。又右衛門が急死したために幕府との関係を恐れた鳥取藩による毒殺説や、生存隠匿説など様々な憶測がなされましたが真相は解りません。




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玄忠寺山門と本堂




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荒木又右衛門の墓
                    
墓は昭和18年発生の鳥取大震災で倒壊したため金網で覆って補修しています。




鳥取県鳥取市新品治町176



 

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