烏鷺光一の「囲碁と歴史」

2013年03月 | ARCHIVE-SELECT | 2013年05月

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景福寺に眠る人々(鳥取)

 鳥取市の「景福寺」には後藤又兵衛の他にも色々な方の墓があり案内板がありましたので紹介させていただきます。
 


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墓所内にある案内板



 景福寺は鳥取藩家老・荒尾家(倉吉荒尾家)の菩提寺です。荒尾家は織田信長の家臣・荒尾善次の娘・善応院が池田恒興に嫁ぎ輝政(鳥取・岡山両池田家共通の祖)を生んだことから池田家とのつながりが大変強い一族です。
 鳥取池田家においては荒尾善次の孫にあたる荒尾但馬は米子城の城代となり現在の米子市を治め、兄弟の荒尾志摩は一国一城令で廃城となった打吹城下に陣屋を構え現在の倉吉市を治めています。歴代藩主は領地の荒尾家への全権委任を幕末まで継続し、両荒尾家は代々鳥取藩家老として藩政を補佐してきました。



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荒尾家累代の墓



 墓所内に石臼の形をしたユニークな墓石があります。これは江戸時代初期の剣豪「羽生郷右衛門」の墓だそうです。
 羽生は熊野藩士の子として生まれ小倉藩へ仕官した後、浪々の身となり江戸で暮らします。慶安4年(1652)に由井小雪事件が起こると関与を疑われ取り調べを受けますが毅然として関与を否定して役人を感心させます。この話を聞いた鳥取藩初代藩主・池田光仲は羽生に興味を持ち対面となりますが、光仲が特技を質問すると「飯粒で糊を造ること」と答え実践してみせます。光仲は武芸が見れると思っていたのでがっかりすると羽生は「武士が弓馬槍刀が出来るのは当たり前の事で、それをいちいち披露するものではありません」と答え光仲を感心させ、300石で取り立てられました。
 延宝8年(1681)に亡くなりますが遺言により戒名を「一外石心居士」とし石臼の墓が造られます。辞世の句「世の中をめぐりて因幡路を めぐりたらいて挽臼とする」にその思いが込められています。



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剣豪・羽生郷右衛門の墓



 日本画家・島田元旦は安永7年(1778)に江戸で漢詩人・谷麗谷の次男として生まれます。江戸後期の日本画の巨匠として知られる谷文晁は15歳離れた実兄です。
 元旦は文晁から絵を教わり、その後、円山応挙にも師事しました。寛政11年(1799)には蝦夷地(北海道)の産物調査の一行に絵図面取り担当として加わりアイヌ絵も描いています。
 享和元年(1801)に鳥取藩士・島田家の養子となり跡を継ぎ、江戸留守居役等の要職を務めた後、晩年を鳥取で暮らし天保11年(1840)に63歳で亡くなりました。



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島田元旦の墓 
 
          
 鳥取藩士・佐分利九之丞は、寛永14~15年(1637~8)にかけて長崎で起こった「島原の乱」で鎮圧のために鳥取藩士88名の筆頭として参戦します。寛永15年2月27日に原城の総攻撃が行われた時、九之丞は四男・成次、五男・成興らを率いて先頭に立って戦いますが、本丸を目前にして戦死します。享年61歳。この時、傍らにあった石に姓名と年月日を刻んで絶命したと言われ、現在も原城趾の本丸跡にその時の石と伝えられる墓石が残っているそうです。



 景福寺にはこの他にも画家や華道家元など様々な分野の方々の墓がありました。

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佐分利九之丞 父子の墓
(左が九之丞、右が五男・成興、後ろが四男・成次)




 景福寺:鳥取県鳥取市新品治町135



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