烏鷺光一の「囲碁と歴史」

2013年03月 | ARCHIVE-SELECT | 2013年05月

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鳥取藩主 池田家墓所3

 鳥取藩では藩主に後継者がいない場合に備えて藩祖光仲の息子を初代とする東館(鹿奴藩(しかのはん))と西館(若桜藩(わかさはん))の二つの文知家(分家)がありました。
 八代 斉稷(なりとし)の後継者として将軍家斉の息子・斉衆を迎えた時も、斉衆の急死により斉稷の実子・斉訓(なりみち)が跡を継ぎます。
 九代斉訓は11歳で藩主となり21歳の時に将軍家斉の娘・泰姫と結婚しますが翌年、病のため亡くなります。
 斉訓には、まだ子供がいなかったため、跡を東館の慶行(よしゆき)が僅か10歳で継ぎました。しかし慶行も17歳で病のためこの世を去っています。


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九代 斉訓(なりみち)(左)  十代 慶行(よしゆき)(右)



 嘉永元年(1848)に十代慶行が亡くなると藩では東館の弟を養子として幕府に届け出ますが、幕府はこれを許可せず加賀藩主・前田斉泰の次男・喬心丸を藩主とし東館の姫と結婚させることとします。鳥取池田家として、初めて他家から藩主を迎える事になったのですが、喬心丸の母親で加賀藩主の奥方は将軍家斉の娘でした。
 喬心丸は嘉永二年(1849)に将軍家慶の前で元服し慶栄(よしたか)と名を改め、翌年に初めてお国入りすることとなります。
 ところが帰国の途中、京都の伏見藩邸で発病し僅か17歳で亡くなってしまいました。
 江戸では慶栄の死について毒殺の噂が広がります。鳥取藩士が慶栄の養子に反発して毒殺したというもので、噂の出どころは加賀前田家の慶栄の母親周辺からだったそうです。
 慶栄の跡を継いだ十二代藩主・慶徳は水戸藩からの養子で明治維新を迎えたため池田家墓所に墓はありません。




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十一代 慶栄(よしたか)




 池田家墓所には東館、西館の藩主の墓もあります。西館5代・池田定常は名君として知られる一方、池田冠山とも呼ばれた文人でもありました。
 冠山は旗本池田家から養子に入り安永2年(1773)に西館(若桜藩)の藩主となります。旗本池田家は鳥取池田家初代光仲の叔父・池田輝澄の子孫になります。冠山は学問や文学に通じ、毛利高標(佐伯藩)・市橋長昭(近江国仁正寺藩)らと共に「柳間詰の文芸三侯」と称されました。「浅草寺誌」等210巻にも上る著書を残しています。
 墓は東京にもありますが、ここ池田家墓所では初代光仲公の墓の脇に西館歴代藩主の墓とともにあります。



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池田冠山の墓碑

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