烏鷺光一の「囲碁と歴史」

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鳥取藩主 池田家墓所2

 五代藩主 池田重寛(しげのぶ)は延享二年に生まれますが、僅か2歳の時に父親の四代藩主 池田宗泰が亡くなります。
 藩は文知家(分家)から藩主を迎え、重寛をその養子とするよう幕府に願い出ますが、幕府は重寛を直接藩主とする決定を下します。
 これは、初代光仲の先例があったことに加え、生母で四代宗泰の夫人・桂香院が紀州徳川家出身のため実家の支援があったそうです。
 当時、鳥取藩では一揆等が続き財政がひっ迫していました。そこで桂香院は重寛の後見を務め、倹約と文武奨励を支持し藩の財政立て直しを図っています。



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墓所内の風景(左) 五代 重寛(しげのぶ)(右)



 4代・5代と鳥取藩は財政がひっ迫し苦しい時代が続きましたが六代 治道の時代になると藩政改革の効果が出始め財政は安定していきます。
 また、学問にも力を入れ多くの学者を輩出します。鳥取城下の町医者の三男であった稲村三伯は蘭学者として江戸で「ハルマ和解」(蘭和辞典)をあらわし我が国の西洋研究に大きく貢献しています。
 治道は子宝にも恵まれて、女子は毛利・鍋島・島津家に嫁いでいます。島津家に嫁いだ弥姫は幕末の四賢侯の一人で西郷隆盛を見出した島津斉彬の実母です。弥姫は、この時代には珍しく、斉彬ら3人の子供に乳母をつけず自身の手で養育し、大きな影響を与えています。

             



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島津斉彬の祖父 六代 治道(はるみち)



  
 七代 斉邦(なりくに)、八代 斉稷(なりとし)とも六代 治道の息子です。斉稷の代に継嗣問題が発生します。時の将軍徳川家斉には55人の子供がいて十二男の斉衆を養子として迎えることとなったのです。本来、池田家の一族から選ぶのが筋ですが将軍の意向には逆らえなかったのでしょう。しかし鳥取藩は益々幕府から厚遇されることになります。
 斉衆は九年後に病死し、結局藩主とはならず斉稷の実子が跡を継ぎますが、この出来事が11代、そして最後の12代藩主を他家から迎える伏線となったのでした。
   



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七代 斉邦(なりくに)(左)  八代 斉稷(なりとし)(右)



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