烏鷺光一の「囲碁と歴史」

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「日本棋院八重洲囲碁センター」と林佐野・文子の住所

 東京駅八重洲口を出た目の前にある八重洲口会館に日本棋院八重洲囲碁センターがあります。



 東京駅前という絶好の立地条件であり多くの人で賑っています。私も何度か訪れたことがありますが、今年の6月に有楽町へ移転するそうです。



 日本棋院では、新センターの名称を一般公募しているそうです。締切は4月20(土)までですので興味ある人は応募してみて下さい。





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八重洲囲碁センター入口



 



 話は変わりますが、八重洲囲碁センターが入居している八重洲口会館の隣りにみずほ銀行八重洲口支店が入居している新槇町ビルがあります。



 ここは、囲碁の歴史にも関わり深い場所である事を発見しました。明治23年に方円社が発行した「囲碁等級録」に記載された棋士の住所に「東京日本橋区上槇町一番地 林佐野」とあります。また、同住所に「林ふみ子」の名もあります。それが、この場所なのです。



 林佐野は明治期に活躍した女流棋士です。文政8年(1825)に生まれた佐野は囲碁家元林家の分家・林藤三郎の養女となります。



 明治以降、幕府の後ろ盾が無くなった家元は生活に困窮し富裕層の邸宅に出向き囲碁を指導することで生計を立てます。佐野は財閥の三井、安田などに出向き指導碁を行っていました。明治12年に方円社が設立された時には林家一門であった佐野は設立に協力しています。



 佐野が訪問していた先に司馬凌海という医者がいました。青山霊園にある凌海の墓を紹介した際に説明しましたが、凌海が文子の父親です。明治12年に凌海が亡くなると家族は故郷の佐渡へ帰ることになりますが、わずか3歳で病弱であった文子は長旅に耐えられないと、家に出入りしていた佐野の養女となりました。



 幼い文子は佐野といっしょに三井や安田への指導碁に出向いていたそうで、自然と囲碁を覚えていきます。やがて方円社社員となり実力をつけていきますが、明治28年、能楽師の喜多六平太の元へ嫁ぎ囲碁界を離れます。そして十数年後に夫の勧めもあり囲碁界への復帰を図りますが、この時、ブランクを埋めるために右翼の巨頭・頭山満の仲介で本因坊秀哉が52局に及ぶ対局を行ったそうです。秀哉は方円社時代の文子の先輩でした。



 その後、囲碁界は中央棋院、日本棋院と合同の道へと進みますが、方円社・坊門双方に人脈を持ち、三井・安田と財界にも人脈を持った文子は重要な役割を果たしていくことになります。



 東京駅を降り立った際にはビルを眺めて、方円社設立、そして日本棋院設立に大きく関わった林親子へ思いを馳せてみてはいかがでしょうか。



Igotoukyu
方円社発行「囲碁等級録」(明治23年)



                   
               



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 「新槇町ビル」は銀色のビル。左が「八重洲口会館」



 



   新槇町ビル : 中央区八重洲1-8-17

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