烏鷺光一の「囲碁と歴史」

2013年03月 | ARCHIVE-SELECT | 2013年05月

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因幡二十士

 鳥取市内を車で移動中、路地に「因幡二十士山口謙之進正次の墓所」という案内板を見つけ立ち寄ってみました。
 因幡二十士については全く知識が無かったので調べてみると全国的には無名ですが明治維新に大きく関わった人々であった事が分かりました。



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「因幡二十士山口謙之進正次の墓所」案内板




 幕末の混乱時、どこの藩内でも公武合体派と尊王攘夷派の、どちらを支持するか議論が行われていました。鳥取藩では新藩主・池田慶徳公は尊王攘夷派の中心人物であった水戸斉昭の息子でしたが、鳥取藩は家康の血筋の徳川親藩であった事から微妙な立場にありました。
 文久3年(1863)当時、朝廷内は三条実美など長州と結びついた攘夷の急進派が実権を握ります。尊攘急進派は孝明天皇が大和国の神武天皇陵や春日大社へ行幸し、ここで攘夷と討幕を決行するという計画を立てます。
 池田慶徳公は尊王攘夷派ではありましたが急進的な改革には反対の立場をとり、大和行幸は時期尚早であると同調する諸侯とともに阻止します。そのため急進派は慶徳公を誹謗中傷する張り紙を京都市中に張り出します。
 鳥取藩の尊王攘夷派は藩主が攘夷に傾かないのは側近の公武合体派が邪魔しているからだと考え、同年8月17日に藩士たちの京都での宿舎・本圀寺を襲い側近4名を殺害します。、この事件は因幡二十士事件(別名本圀寺事件)と呼ばれています。
 実行犯は全部で22人でしたが一人は翌日失踪。もう一人は暗殺した人物が大変世話になっていた人であったため自責の念にかられて切腹します。残った20人は謹慎し「因幡二十士」と呼ばれました。
 大変な事件ではありましたがこの出来事はあまり語られていません。歴史に詳しい方はピンとくるかもしれませんが、事件の翌日、8月18日は会津・薩摩が長州など急進的尊王攘夷派を御所から追放したクーデター「8月18日の政変」が発生しています。その騒乱により事件は埋もれてしまったのでしょう。
 側近を殺害された慶徳公は激怒しましたが関白のとりなしで二十士は切腹を免れます。彼らは鳥取藩に帰り幽閉されますが、慶応2年(1866)に幕府による第二次長州征伐が始まると幽閉先を抜け出し長州へ向かいます。長州と鳥取の調停を目指したとも言われますが、彼らの逃走を知り殺害された四人の藩士の親族18人が仇討のために後を追います。
 出雲藩領に到着した二十士は足どめをくらいますが5名だけ現地に残すことで他のメンバーは先に進みます。結局この5名は後を追ってきた18名の仇討により命を落としましたが、残りのメンバーは長州藩に匿われ幕末の志士として活躍します。鳥取藩が明治新政府の側につくと恩赦により藩士の身分も回復しています。
 因幡二十士のリーダーは河田左久馬という人で京都留守居役の時に桂小五郎と知り合い尊皇攘夷思想に目覚めます。池田屋事件の際は桂小五郎と同様、池田屋への集合時間に遅れたために難を逃れています。廃藩置県により最初の鳥取県権令(知事)となり、貴族院議員も務めました。
 案内板のあった山口謙之進については詳細は分かりませんが、明治以降、大蔵省、内務省に出仕していたそうです。



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山口謙之進正次の墓所




 因幡二十士について調べていたら中井範五郎という人の墓が、先日紹介した後藤又兵衛の墓がある景福寺にある事が分かり引き返してみました。
 中井範五郎は戊辰戦争で大総督府監軍として参加します。この時、箱根の関所では旧幕府の遊撃隊と新政府側についた小田原藩が交戦中でしたが江戸で彰義隊が上野戦争を始めると動揺した小田原藩は新政府を裏切り遊撃隊と和睦します。それを知らない中井は小田原藩側を陣中見舞いし斬殺されました。
 その後、新政府軍の圧力により藩滅亡の危機を感じた小田原藩は再び新政府軍に恭順し遊撃隊を退けます。中井は「箱根戦争」と呼ばれる事件での犠牲者でした。
 




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中井範五郎の墓




山口謙之進正次の墓 : 鳥取市安永252-1 JAグリーン千代水店の南側



中井範五郎の墓 : 鳥取県鳥取市新品治町135  景福寺
                (山門をくぐって左手の墓所)

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| 幕末・明治維新 | 22:46 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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興禅寺 剣豪達の墓

 鳥取県庁の近くにある興禅寺は鳥取藩主・池田家の菩提寺です。藩主の墓は先に紹介した池田家墓所に建立されましたが興禅寺には家臣の墓等が残されています。
 江戸時代初期に作られた蓬莱式池泉観賞庭園は鳥取市指定名勝で山陰を代表する名園の一つと呼ばれています。(今回、時間都合で見学出来ず。)
 なお、現在の本堂は江戸時代に建てられた藩主の霊廟だそうで、本来の本堂は明治時代に寺が藩の援助が無くなり財政難に陥ったことから火災により本堂が焼失した兵庫県美方郡新温泉町浜坂の龍雲寺に売却されました。龍雲寺には現在も当時の本堂が残されています。



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興禅寺入口と本堂 



 興禅寺の境内に自由律俳句で有名な俳人・尾崎放哉の句碑があります。尾崎は明治18年に鳥取市で士族の家に生まれ保険会社に勤務した後、寺男をしながら各所を転々とし小豆島で亡くなっています。
 季語を含めない自由律俳句の代表的な俳人で「咳をしても一人」が有名です。 興禅寺は尾崎家の菩提寺で放哉(尾崎家)の墓があったそうですが確認していません。境内の碑に刻まれた句は「春の山のうしろから烟(けむり)が出だした」という辞世の句です。



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境内案内板(左)と俳人・尾崎放哉の句碑



 本堂裏山斜面にある墓所には「鍵屋の辻の決闘」で荒木又右衛門の助太刀により弟の仇討をした渡辺数馬の墓があります。墓所へ向かう石段の脇に又右衛門を顕彰する「剣聖・荒木先生顕彰碑」がありました。



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剣聖・荒木先生顕彰碑



 荒木又右衛門は寛永15年(1638)に数馬らと鳥取にやってきて十数日で急死しますが、数馬は寛永19年に亡くなるまで4年間、鳥取で暮らしています。
 数馬の墓の隣りには又右衛門の息子と娘の墓がありました。又右衛門の死後、渡辺家が面倒をみていたのでしょう。



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渡辺数馬の墓。右の小さな墓は荒木又右衛門の息子と娘の墓。



 渡辺数馬の墓の隣りには新陰疋田(ひきた)流・刀槍二術を極め、完成させた猪多伊折佐の墓がありました。新陰流といえば柳生新陰流が有名ですが元は戦国時代の兵法家・上泉信綱が興した流派です。信綱の弟子の柳生石舟斎や疋田景兼が新陰流の名を継承しています。 新陰疋田流は疋田景兼の弟子である猪多が景兼が伝えた槍術を大成させた流派です。寛永10年(1633)に没しています。
 この他、寺の駐車場近くの墓所には江戸時代初期の剣豪・臼井本覚の墓がありました。丹石流の達人で、晩年には千石を領し鉄砲頭となっています。寛永8年(1631)に、村山越中という槍術の達人が小姓を殺害して逃走したため、藩主・池田忠雄の命により本覚が追跡。遂に備中で村山を発見し一刀のもとに討ち果しました。この時、村山の家来が槍で本覚向かってきましたが、本覚は、その忠誠心を賞め主人を弔うようにと金子を与えて埋葬させたという話が残っています。承応2年(1653)に77歳で没しています。



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新陰疋田流開祖・猪多伊折佐の墓(左)、剣豪・臼井本覚の墓(右)




  鳥取県鳥取市栗谷町10



| 江戸時代 | 09:03 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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剣豪 荒木又右衛門の墓

 後藤又兵衛墓所・景福寺の近くにある玄忠寺には、日本三大仇討の一つ「鍵屋の辻の決闘」で有名な剣豪・荒木又右衛門の墓があります。現在でも度々テレビドラマに登場する時代劇のヒーローです。
 「鍵屋の辻の決闘」とは次の様な事件でした。寛永7年(1630)に岡山藩主・池田忠雄が寵愛する小姓・渡辺源太夫を藩士河合又五郎が殺害し江戸へ逃亡。旗本・安藤家に匿われます。激怒した忠雄は幕府に引渡しを求めますが、安藤は旗本仲間と結集してこれを拒否。事件は外様大名と旗本双方全体の争いに発展していきます。
 幕府が調停に乗り出す中、寛永9年(1632)に忠雄が急死。遺言で又五郎を討つように言い残します。跡を継いだ光仲は幼かったため鳥取へ国替えとなりますが、これは事件の広がりを抑えるために幕府が池田家の力を削ぐ策略だったという説もあります。事実、幕府は喧嘩両成敗として旗本たちの謹慎とともに又五郎を江戸から追放しました。源太夫の兄・渡辺数馬はこのような背景の中、仇討のために又五郎を追うことになります。
 数馬は助太刀として義兄(姉の夫)の荒木又右衛門に協力を依頼します。又右衛門は柳生宗矩の門人で郡山藩剣術指南役を務める剣の達人でした。
 数馬と又右衛門は寛永11年(1634)に又五郎が奈良に潜伏していることを突き止めます。危険を察知した又五郎は逃亡を図りますが、数馬と又右衛門は又五郎が伊賀路を通ることを知り鍵屋の辻で待ち伏せし仇討を決行しました。又五郎一行は又五郎の叔父で元郡山藩剣術指南役河合甚左衛門(荒木の元同僚)、妹婿で槍の名人・桜井半兵衛など総勢11人。一方待ち伏せ側は4人だったそうです。
 11月7日早朝に待ち伏せを知らずに鍵屋の辻に差し掛かった又五郎一行に数馬、又右衛門らが切り込み決闘が始まります。馬上の桜井半兵衛、河合甚左衛門が最初に狙われ切り殺されると、又五郎側の多くは戦意を喪失し逃亡。 逃げ遅れた又五郎は数馬と対決。数時間にも渡る死闘の末、数馬が又五郎に傷を負わせたところで又右衛門がとどめを刺をさしました。 俗に又右衛門の「36人斬り」と言われていますが、又右衛門が実際に斬ったのは2人だけだったそうで、又右衛門側は一人が死亡しています。
 決闘地の津藩・藤堂家では仇討が外様大名と直参旗本との争いが関係していたため、又五郎の動向等の情報提供や決闘地周辺の封鎖で支援を行っていたと言われています。
 数馬と又右衛門らは世間から注目されますが伊賀上野の藤堂家に4年間預けられ、その後、鳥取藩が引き取ることになりました。
 寛永15年(1638)8月12日に3人は鳥取に到着しますが、8月28日に又右衛門は突然死亡します。又右衛門が急死したために幕府との関係を恐れた鳥取藩による毒殺説や、生存隠匿説など様々な憶測がなされましたが真相は解りません。




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玄忠寺山門と本堂




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荒木又右衛門の墓
                    
墓は昭和18年発生の鳥取大震災で倒壊したため金網で覆って補修しています。




鳥取県鳥取市新品治町176



 

| 江戸時代 | 08:49 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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景福寺に眠る人々(鳥取)

 鳥取市の「景福寺」には後藤又兵衛の他にも色々な方の墓があり案内板がありましたので紹介させていただきます。
 


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墓所内にある案内板



 景福寺は鳥取藩家老・荒尾家(倉吉荒尾家)の菩提寺です。荒尾家は織田信長の家臣・荒尾善次の娘・善応院が池田恒興に嫁ぎ輝政(鳥取・岡山両池田家共通の祖)を生んだことから池田家とのつながりが大変強い一族です。
 鳥取池田家においては荒尾善次の孫にあたる荒尾但馬は米子城の城代となり現在の米子市を治め、兄弟の荒尾志摩は一国一城令で廃城となった打吹城下に陣屋を構え現在の倉吉市を治めています。歴代藩主は領地の荒尾家への全権委任を幕末まで継続し、両荒尾家は代々鳥取藩家老として藩政を補佐してきました。



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荒尾家累代の墓



 墓所内に石臼の形をしたユニークな墓石があります。これは江戸時代初期の剣豪「羽生郷右衛門」の墓だそうです。
 羽生は熊野藩士の子として生まれ小倉藩へ仕官した後、浪々の身となり江戸で暮らします。慶安4年(1652)に由井小雪事件が起こると関与を疑われ取り調べを受けますが毅然として関与を否定して役人を感心させます。この話を聞いた鳥取藩初代藩主・池田光仲は羽生に興味を持ち対面となりますが、光仲が特技を質問すると「飯粒で糊を造ること」と答え実践してみせます。光仲は武芸が見れると思っていたのでがっかりすると羽生は「武士が弓馬槍刀が出来るのは当たり前の事で、それをいちいち披露するものではありません」と答え光仲を感心させ、300石で取り立てられました。
 延宝8年(1681)に亡くなりますが遺言により戒名を「一外石心居士」とし石臼の墓が造られます。辞世の句「世の中をめぐりて因幡路を めぐりたらいて挽臼とする」にその思いが込められています。



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剣豪・羽生郷右衛門の墓



 日本画家・島田元旦は安永7年(1778)に江戸で漢詩人・谷麗谷の次男として生まれます。江戸後期の日本画の巨匠として知られる谷文晁は15歳離れた実兄です。
 元旦は文晁から絵を教わり、その後、円山応挙にも師事しました。寛政11年(1799)には蝦夷地(北海道)の産物調査の一行に絵図面取り担当として加わりアイヌ絵も描いています。
 享和元年(1801)に鳥取藩士・島田家の養子となり跡を継ぎ、江戸留守居役等の要職を務めた後、晩年を鳥取で暮らし天保11年(1840)に63歳で亡くなりました。



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島田元旦の墓 
 
          
 鳥取藩士・佐分利九之丞は、寛永14~15年(1637~8)にかけて長崎で起こった「島原の乱」で鎮圧のために鳥取藩士88名の筆頭として参戦します。寛永15年2月27日に原城の総攻撃が行われた時、九之丞は四男・成次、五男・成興らを率いて先頭に立って戦いますが、本丸を目前にして戦死します。享年61歳。この時、傍らにあった石に姓名と年月日を刻んで絶命したと言われ、現在も原城趾の本丸跡にその時の石と伝えられる墓石が残っているそうです。



 景福寺にはこの他にも画家や華道家元など様々な分野の方々の墓がありました。

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佐分利九之丞 父子の墓
(左が九之丞、右が五男・成興、後ろが四男・成次)




 景福寺:鳥取県鳥取市新品治町135



| 江戸時代 | 08:13 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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景福寺 後藤又兵衛の墓

 鳥取市新品治町にある「景福寺」は鳥取藩の家老を代々務めた荒尾家の菩提寺で、初代藩主・池田光仲公が岡山から鳥取へ移封されたのに合わせ現在地へ移転してきました。



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景福寺山門(左)と本堂(右)



 墓所には戦国時代の武将・後藤又兵衛の墓があります。後藤又兵衛(本名:後藤基次)は永禄3年(1560)に播磨国の姫路の近くで生まれ、8歳の時に父が病死すると父の友人であった黒田孝高(如水)に引き取られます。
 黒田家家臣として朝鮮出兵や関ヶ原の戦い等で活躍し広く世間に知られるようになりますが、黒田孝高の息子・長政とは折り合いが悪く、孝高の死後、黒田家を出奔してしまいます。
 知名度抜群の又兵衛には細川忠興、福島正則、前田利長等、名だたる武将が召し抱えようと声をかけますが、元主君の黒田長政の妨害により実現せず10年近く浪人生活を送ったそうです。
 慶長19年(1614)に大阪冬の陣が始まると又兵衛は大阪城に軍師として迎えられ見事な采配で徳川軍を苦しめます。しかし、翌年の大阪夏の陣の道明寺の戦いにおいて孤軍奮闘しますが、ついに討死します。



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墓の案内



 又兵衛の死後、夫人は実家の岡山・池田家へ息子の為勝を連れて帰ります。
 池田光仲公が鳥取に移封されたのに伴い、鳥取へ移住し景福寺を菩提寺として又兵衛の墓を建立しました。墓には遺髪が埋められたそうです。為勝は鳥取藩に仕え、墓所には又兵衛以降、九代にわたる墓が現存しています。



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中央が又兵衛の墓。右が夫人。左が一子為勝の墓。



  鳥取県鳥取市新品治町135

| 戦国時代 | 06:03 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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大雲院 12代鳥取藩主・池田慶徳公墓所

 鳥取市立川町にある「大雲院」は鳥取東照宮の別当寺として鳥取藩初代・池田光仲公により慶安3年(1650)に創建されました。当初は淳光院と呼ばれ東照宮の隣りにありましたが、明治時代の神仏分離令により現在地に移転しました。




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大雲院境内(左)と本堂(右)



                                  
                        
 大雲院には江戸時代最後の藩主・十二代 池田慶徳公の墓があります。
 鳥取藩・池田家は初代光仲の長男・綱清が二代目藩主となり、次男と四男が支藩を立藩して藩主に跡継ぎがいない時には変わりに跡を継いできましたが、10代藩主・慶行が嘉永元年(1848)に病死すると、幕府は加賀前田家の慶栄を11代藩主とすることを強引に決めます。慶栄は将軍家斉の外孫です。ところが、二年後に慶栄が急死したため幕府により十二代藩主に選ばれたのが、水戸中納言・徳川斉昭の五男・慶徳公でした。最後の将軍・徳川慶喜公の異母兄となります。
 慶徳公は父・徳川斉昭公が水戸藩で行った藩政改革をモデルに鳥取藩の藩政改革を行います。また、穏健な尊皇攘夷論者として中央政界にも参画し、明治新政府が出来ると議定に任じられています。
 明治10年に肺炎のために亡くなり、墓は江戸の鳥取藩菩提寺・弘福寺に建てられた後、多磨霊園に移されますが平成15年に大雲院に移されます。
 墓が現在地に移されたいきさつですが慶徳公の跡を継いだ次男の最後の藩主・13代池田輝知公(就任直後に廃藩置県)に男子がなく徳川慶喜の五男・池田仲博を養子に迎え14代当主としますが16代当主・池田百合子氏に後継者がなく(養子はいるそうです)旧鳥取藩主家は当代限りと決断されたことから歴代藩主の眠る鳥取へ移される事になったそうです。墓は慶徳公以降の当主が合祀されています。
                                     



                             
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第十二代藩主 池田慶徳公の墓



                               
                              
 大雲院境内に東館池田家墓所の遺品があります。山岡鉄舟による墓記もありますが、平成19年に東館池田家の13代当主・池田仲親氏が亡くなった際、遺言により本家の墓に合祀されることになり、元の墓(東京)から、ゆかりの品が移されたものだそうです。




                     
                                
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東館池田家墓所遺品(左) 東館池田家家紋付き水受け(右)




                                             
                                    
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東館十代藩主・徳澄公墓記(山岡鉄舟書)(左) 池田栗公 句碑(右)



 



    鳥取市立川町四丁目24番地



| 幕末・明治維新 | 05:52 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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宇部神社 武内宿禰命終焉の地

 池田家墓所の近くに因幡国一宮である宇部神社があります。


 大化4年(648)の創建と伝えられ、伝説によると「古事記」や「日本書紀」に登場し、大和朝廷において景行天皇(12代)から仁徳天皇(16代)までの5代の天皇に仕えた、我が国最初の大臣・武内宿禰(たけうちのすくね)が因幡国の宇倍山中腹の亀金山に双履(履物)を残して行方知れず(亡くなった)とあり、その場所を祀ったのが起源であると言われています。


 本殿の裏に亀金山があり、その頂に双履石(そうりせき)がありますが、近年の調査で双履石は古墳の一部であることが判明しました。


 なお、武内宿禰が亡くなった時の年齢は280歳から360歳だったと言われ、実際には有り得ないことから実在しなかったという説や、何代かにわたる一族の総称であるという説もあり謎の多い人物です。


 社殿は創建以来、度々再建され現在の建物は明治31年に再建されたものです。武内宿禰は明治32年に5円紙幣の肖像に採用されます。この時、現在の宇部神社本殿も一緒にデザインされています。




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参道(左)と鳥居(右)



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拝殿

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拝殿と本殿(左)と武内宿禰命終焉の地碑(右)


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亀金岡の石段(左)と双履石(そうりせき)(右)





  鳥取県鳥取市国府町宮下651

| 飛鳥時代以前 | 08:01 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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鳥取藩主 池田家墓所3

 鳥取藩では藩主に後継者がいない場合に備えて藩祖光仲の息子を初代とする東館(鹿奴藩(しかのはん))と西館(若桜藩(わかさはん))の二つの文知家(分家)がありました。
 八代 斉稷(なりとし)の後継者として将軍家斉の息子・斉衆を迎えた時も、斉衆の急死により斉稷の実子・斉訓(なりみち)が跡を継ぎます。
 九代斉訓は11歳で藩主となり21歳の時に将軍家斉の娘・泰姫と結婚しますが翌年、病のため亡くなります。
 斉訓には、まだ子供がいなかったため、跡を東館の慶行(よしゆき)が僅か10歳で継ぎました。しかし慶行も17歳で病のためこの世を去っています。


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九代 斉訓(なりみち)(左)  十代 慶行(よしゆき)(右)



 嘉永元年(1848)に十代慶行が亡くなると藩では東館の弟を養子として幕府に届け出ますが、幕府はこれを許可せず加賀藩主・前田斉泰の次男・喬心丸を藩主とし東館の姫と結婚させることとします。鳥取池田家として、初めて他家から藩主を迎える事になったのですが、喬心丸の母親で加賀藩主の奥方は将軍家斉の娘でした。
 喬心丸は嘉永二年(1849)に将軍家慶の前で元服し慶栄(よしたか)と名を改め、翌年に初めてお国入りすることとなります。
 ところが帰国の途中、京都の伏見藩邸で発病し僅か17歳で亡くなってしまいました。
 江戸では慶栄の死について毒殺の噂が広がります。鳥取藩士が慶栄の養子に反発して毒殺したというもので、噂の出どころは加賀前田家の慶栄の母親周辺からだったそうです。
 慶栄の跡を継いだ十二代藩主・慶徳は水戸藩からの養子で明治維新を迎えたため池田家墓所に墓はありません。




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十一代 慶栄(よしたか)




 池田家墓所には東館、西館の藩主の墓もあります。西館5代・池田定常は名君として知られる一方、池田冠山とも呼ばれた文人でもありました。
 冠山は旗本池田家から養子に入り安永2年(1773)に西館(若桜藩)の藩主となります。旗本池田家は鳥取池田家初代光仲の叔父・池田輝澄の子孫になります。冠山は学問や文学に通じ、毛利高標(佐伯藩)・市橋長昭(近江国仁正寺藩)らと共に「柳間詰の文芸三侯」と称されました。「浅草寺誌」等210巻にも上る著書を残しています。
 墓は東京にもありますが、ここ池田家墓所では初代光仲公の墓の脇に西館歴代藩主の墓とともにあります。



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池田冠山の墓碑

| 江戸時代 | 05:27 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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鳥取藩主 池田家墓所2

 五代藩主 池田重寛(しげのぶ)は延享二年に生まれますが、僅か2歳の時に父親の四代藩主 池田宗泰が亡くなります。
 藩は文知家(分家)から藩主を迎え、重寛をその養子とするよう幕府に願い出ますが、幕府は重寛を直接藩主とする決定を下します。
 これは、初代光仲の先例があったことに加え、生母で四代宗泰の夫人・桂香院が紀州徳川家出身のため実家の支援があったそうです。
 当時、鳥取藩では一揆等が続き財政がひっ迫していました。そこで桂香院は重寛の後見を務め、倹約と文武奨励を支持し藩の財政立て直しを図っています。



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墓所内の風景(左) 五代 重寛(しげのぶ)(右)



 4代・5代と鳥取藩は財政がひっ迫し苦しい時代が続きましたが六代 治道の時代になると藩政改革の効果が出始め財政は安定していきます。
 また、学問にも力を入れ多くの学者を輩出します。鳥取城下の町医者の三男であった稲村三伯は蘭学者として江戸で「ハルマ和解」(蘭和辞典)をあらわし我が国の西洋研究に大きく貢献しています。
 治道は子宝にも恵まれて、女子は毛利・鍋島・島津家に嫁いでいます。島津家に嫁いだ弥姫は幕末の四賢侯の一人で西郷隆盛を見出した島津斉彬の実母です。弥姫は、この時代には珍しく、斉彬ら3人の子供に乳母をつけず自身の手で養育し、大きな影響を与えています。

             



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島津斉彬の祖父 六代 治道(はるみち)



  
 七代 斉邦(なりくに)、八代 斉稷(なりとし)とも六代 治道の息子です。斉稷の代に継嗣問題が発生します。時の将軍徳川家斉には55人の子供がいて十二男の斉衆を養子として迎えることとなったのです。本来、池田家の一族から選ぶのが筋ですが将軍の意向には逆らえなかったのでしょう。しかし鳥取藩は益々幕府から厚遇されることになります。
 斉衆は九年後に病死し、結局藩主とはならず斉稷の実子が跡を継ぎますが、この出来事が11代、そして最後の12代藩主を他家から迎える伏線となったのでした。
   



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七代 斉邦(なりくに)(左)  八代 斉稷(なりとし)(右)



| 江戸時代 | 05:42 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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鳥取藩主 池田家墓所1

 鳥取藩初代藩主・池田光仲が元禄6年(1693)に亡くなると、鳥取市郊外の現在の国府町奥谷を廟所に定め埋葬しました。以降11代までの藩主と藩主夫人。支藩当主等の墓碑78基と260を超える灯篭が立ち並んでいます。


 墓所へ行く途中には、江戸時代に参拝者が馬を繋いだ馬立場や番所の跡があります。


 また、墓所の前に芝生の広場があります。ここは江戸時代に墓所を管理していた清源寺があった場所ですが、明治に入り廃寺となり当時を偲ばせるものは井戸跡など僅かしか残っていませんでした。




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馬立場跡(左)と広場(清源寺跡)(右)




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山門(左)と墓所内の様子(右)




 初代鳥取藩主・池田光仲は、以前にも述べましたが徳川家康の曾孫になります。岡山藩主・池田忠雄の長男として生まれ、僅か3歳で家督を継ぎますが幼すぎるという理由で鳥取へ移封となります。


 幼名は勝五郎といいましたが寛永15年(1638)に将軍家光の前で元服し家光の一字を賜り「光仲」と名を改めました。また従四位下侍従に任じられています。


 このように江戸城内の将軍の前で元服の式が行われ、官位と将軍の一字を賜るのは御三家や加賀前田家、薩摩島津家等、僅か15家しかなく鳥取池田家もその一つでした。したがって歴代藩主の名前には必ず元服時の将軍の名前が入っています。




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初代 池田光仲




 池田家墓所の墓碑の特徴として藩主の墓は亀を象った「亀趺」と呼ばれる台石に墓標が乗っていることがあげられます。


 しかし、ただ一つ二代綱清の墓だけ「亀趺」がありません。これは当時が徳川綱吉の時代で「生類憐みの令」に配慮したためと言われています。




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二代 綱清(左)と 三代 吉泰(右)


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四代 宗泰




  鳥取藩主池田家墓所 : 鳥取県鳥取市国府町奥谷

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