烏鷺光一の「囲碁と歴史」

2013年03月 | ARCHIVE-SELECT | 2013年05月

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明治大学創設者 岸本辰雄

 先に紹介しました鳥取藩藩校「尚徳館」跡である「とりぎん文化会館」に明治大学創設者の岸本辰雄の像があります。


 昨年10月に銀座の数寄屋橋交差点にある「明治大学発祥の地」碑をブログで紹介した際にも説明しましたが、岸本は嘉永4年(1851)に鳥取で藩士の子として生まれ藩校「尚徳館」で学びます。戊辰戦争に従軍した後、明治3年に「大学南校」(後の東京大学)へ鳥取藩の推薦を受けて入学しました。


 明治4年にはフランス法を専門とした法律家養成機関である司法省法学校に第一期生として入学。卒業後、宮城浩蔵、矢代操とともにフランスへ留学し、帰国後「明治法律学校」(後の明治大学)を設立しました。


 設立にあたり、旧鳥取藩主・池田輝知と、その叔父である旧島原藩主・松平忠知(15代将軍徳川慶喜の実弟)が財政的に支援しています。


 このように明治大学と鳥取市は意外とつながりが深いのです。



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岸本辰雄像



 鳥取東照宮(樗谿公園)の駐車場に、岸本辰雄を紹介した説明板があります。


 説明板の隣りが屋敷跡ということだそうです。




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岸本辰雄邸跡(車が駐車しているあたり)




  岸本辰雄像 : 鳥取市尚徳町101-5 とりぎん文化会館


  岸本辰雄邸跡 : 鳥取市上町 樗谿公園駐車場横



| 明治・大正時代 | 10:20 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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鳥取東照宮

 鳥取市に徳川家康を祀った東照宮があるのをご存知でしょうか。


 織田家重臣で、後に豊臣秀吉に仕えた池田恒興は秀吉と家康が戦った小牧・長久手の戦いで戦死します。


 跡を継いだ息子の輝政は秀吉に厚遇され豊臣一門と同等の扱いを受けます。秀吉の斡旋で継室に徳川家康の娘を娶っています。


 秀吉の死後、輝政は家康に接近し関ヶ原の戦いで武功を上げたため姫路城城主となります。西国の大名を抑える重要な役目もあり「西国将軍」と呼ばれたそうです。


 輝政の死後、長男(前妻の子)の利隆が継ぎ、次男で家康の孫の忠継は岡山藩の藩主となります。


 しかし、姫路藩は利隆が急死して跡を継いだ光政が幼少であったため幕府より鳥取への移封を命じられました。


 江戸時代に続く鳥取藩の初代藩主・池田光仲は徳川家康の曾孫で、岡山藩主の池田 忠雄の長男として寛永7年(1630)に岡山藩江戸屋敷で生まれます。


 寛永9年(1632)に父・忠雄が急死して僅か3歳で家督を継ぎます。本来、光仲は幼すぎるため改易となる可能性もありましたが家康の血筋であり免れます。しかし山陽の要所である岡山を治めるのは困難であるとの事から鳥取へ国替えとなりました。かつて同じ理由で姫路から鳥取へ国替えとなっていた池田家本家筋の池田光政との入れ替えです。


 光仲は江戸で成長し、藩主となって16年目に初のお国入りを果たします。そして藩主の威厳を示すために曾祖父である家康を祀る東照宮を勧請しました。


 現在の社殿は慶安3年(1650)の創建当時のもので桃山時代の特徴をよく表し国の重要文化財に指定されています。


 江戸時代は「因幡東照宮」と呼ばれていましたが明治に入り「樗谿(おうちだに)神社」と改称しています。そして平成24年に再び東照宮の名を復活させて「鳥取東照宮」と名を改めました。




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表参道は樗谿公園として整備されています。ホタルの名所としても有名です。




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鳥居と山門   




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随神門(左)と拝殿へと進む参道




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拝殿。扉には葵の御紋があります。




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本殿。取材後に分かったのですが本殿の桁には左甚五郎作と伝わる鷹の彫刻があるそうです。




   鳥取県鳥取市上町87

| 江戸時代 | 20:47 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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箕浦家長屋門と藩校・尚徳館跡

鳥取県庁前に県立図書館とコンサートホール等が併設された「とりぎん文化会館」(県民文化会館)がありますが、その一角(県庁前交差点)に「箕浦家長屋門」があります。


 もとは鳥取城の堀端にあった上級武士の屋敷の門を移築したもので、江戸時代の様子を現代に伝える数少ない建物の一つです。



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とりぎん文化会館

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箕浦家長屋門

           

 「とりぎん文化会館」の建つ敷地は、江戸時代には鳥取藩の藩校尚徳館があった場所です。箕浦家長屋門の隣りに、最後の鳥取藩主池田慶徳(よしのり)によって建てられた「尚徳館碑」の石碑が建立されています。また、明治以降も学校が置かれるなど、ここは鳥取の教育の中心地でした。



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「尚徳館碑」(左)と「鳥取大学付属小中学校跡地」「師範教育発祥之地」碑(右)




  「とりぎん文化会館」  鳥取市尚徳町101-5



| 江戸時代 | 07:35 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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仁風閣

 鳥取城跡に白い洋館が建っています。「仁風閣」と呼ばれる池田侯爵の別邸で、明治40年に皇太子(後の大正天皇)の山陰行啓時の宿泊施設として建てられたフレンチ型ルネッサンス様式を基調とした建物です。ちなみに「仁風閣」の名は皇太子に随行した東郷平八郎による命名だそうです。


 庭は芝生の部分と江戸時代に築庭された池泉回遊式日本庭園の宝隆院庭園があり2階から一望できます。


 国の重要文化財に指定された明治期を代表する建物のため、度々、明治時代を題材とした映画やテレビドラマのロケ地に利用されています。


 昨年上映された漫画が原作の「るろうに剣心」でも仁風閣を舞台に戦闘が行われています。



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鳥取県鳥取市東町2丁目121番地

| 明治・大正時代 | 06:03 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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鳥取城主 吉川経家

鳥取城に最も長く居城したのは江戸時代、 年に渡って因幡・伯耆の二カ国を納めた池田公ですが、城主として最も有名なのは秀吉の二回目の鳥取城攻めの時の城主であった吉川経家でしょう。経家公の銅像が鳥取城跡にある武道館の敷地にあります。



 天正8年(1580)に秀吉が最初に鳥取城を攻めた際、毛利方であった城主・山名豊国は降伏して織田家の軍門に下りますが徹底抗戦を主張する家臣と対立し唯一人城を離れます。



 再び毛利方となった鳥取城では毛利元就の次男・吉川元春に支援を求め、吉川一門で文武両道に優れた名将・経家が派遣されました。



 こうした中、天正9年に秀吉による二回目の鳥取城を攻めが開始されます。侵攻に先立ち秀吉は若狭の商人を使い周辺の兵糧を高値で買い取らせます。城内の兵糧米まで売却されたため戦いが始まった時には、すでに兵糧が不足していたと言われています。



 秀吉は無理に城を攻めようとせず完全に包囲します。吉川元春は兵糧を送ろうと試みますが失敗したため大量の餓死者を出して四ヶ月目には、とうとう降伏しました。この時、秀吉は支援のために派遣されてきた経家を処分しようとは考えず帰還するようにいいますが経家は責任は全て自分にあると兵士の助命を訴えて自刃します。



 この戦いは「鳥取城渇え殺し」と呼ばれ、「高松城の水攻め」と並び秀吉の行った戦いとして後世に語り継がれています。



 経家の潔さは人々の尊敬を集めていて、平成5年には現在地に銅像が建立されました。経家の子孫に、テレビ番組「笑点」で永年司会を務め、平成21年に亡くなった落語家・五代目林家圓楽がいます。銅像の除幕式には鳥取を訪れ参加されたそうです。




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鳥取城跡




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吉川経家像

| 戦国時代 | 20:27 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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鳥取城跡(久松公園)

 昨年、山陰地方を訪れることがあり鳥取県内を取材してまわりましたので紹介させていただきます。



 鳥取市中心部にある鳥取城は因幡を統治した山名氏の出城として、天文14年(1545)に久松山に築城されたと言われています。
  天正9年(1581)に、当時の城主山名豊国は、羽柴秀吉の鳥取城攻めにより、同盟を結んでいた毛利氏に背き織田方へ加わります。しかし、これに納得しない家臣に追放され、代わって城主に毛利方の吉川経家を迎えますが、秀吉の2回目の鳥取城攻めで落城し、経家は自刃します。
   
   関ヶ原の合戦後には、姫路城主池田輝政の弟・池田長吉が城主となり城域を拡張整備します。



 その後、池田輝政が亡くなり跡を継いだ光政が幼少のため姫路を任せられないとの理由で鳥取へ転封となり、さらに寛永9年( 1632)には岡山城の池田光仲が同じ理由で転封となり岡山と鳥取の池田家が入れ替えとなります。以後、鳥取藩は光仲を藩祖とし、明治まで12代続くことになります。

   鳥取城は久松山の山頂と山麓に城域が築かれていましたが山頂にあった天守は元禄5年(1692)に落雷で焼失し、以後再建されませんでした。その為、城の中心は二の丸となり、御三階櫓が天守の代用として鳥取城を象徴する建物となりました。



 明治の廃城令で建物は全て壊され石垣しか残っていませんが、現在30年かけて幕末の状態に建物を復元しようと計画が進行しているそうです。



 



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鳥取城跡



               
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鳥取城跡「久松公園」入口(左)と堀(右)



 



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北ノ御門跡(左)と城内の石垣(右)



                 
                  



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天守の代わりであった三階櫓跡(左)とその上から眺める鳥取市街(右)

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藩主の居城であった二ノ丸跡(左)と頂上の山上丸への入口(右)



 



  鳥取城跡(久松公園) : 鳥取市東町2丁目

| 江戸時代 | 05:47 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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小林鉄次郎邸跡

 明治16年に方円社が発行した「囲碁等級録」に第4級 小林鉄二郎 芝区兼房町12番地」とあります。村瀬秀甫が2級、中川亀三郎が3級ですので、それに続く実力者となります。



 小林は井上松本因碩の門人で明治6年26歳の時に5段へ昇進。明治12年に家元側も参加して発足した方円社では中心人物として理事長に就任しました。



 方円社では間もなく師匠の因碩も含めた家元側が脱会しますが、小林は秀甫に引き止められます。小林は経営の才覚があり方円社が発展していったのは、彼の功績にによるものが大きいと言われています。反面、経営に専念するあまり戦績は伸び悩んでいます。



 明治24年に師匠の井上松本因碩が亡くなるとその後継に推される動きがありましたが方円社の経営に専念するために辞退したそうです。



 俳人としても名を知られ、明治26年に脳溢血で亡くなる数日前に蜂須賀侯爵邸で行われた句会で詠んだ句。「長月の月は長かれ菊の花」が時世の句となっています。



 「囲碁等級録」に記された住所は現在の港区新橋2丁目13−8「新橋東和ビル」(西安料理 刀削麺・火鍋XI’AN 新橋店入居)のあたりです。




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「囲碁等級録」(明治16年・方円社)に記された場所



| 方円社 | 10:13 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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中央棋院跡

 明治以降、対立してきた方円社と坊門ですが、大正時代に入り合同の機運が高まってきます。



その受け皿となるため方円社は大正12年1月16日に新しく出来た丸の内ビルディングへ移転します。そして同月19日に坊社合同の新組織「中央棋院」設立集会、21日には発会式が開かれ、ついに二大勢力の合同が達成されました。



 2月には初手合いが行われるなど順調にいくと思われましたが、資金運用などの運営方針をめぐって次第に旧方円社と坊門側が対立し4月1日に方円社側が一方的に合同取り消しを宣言して坊門側を事務所から締め出してしまいました。



 締め出された坊門側は方円社側を脱退とみなし、「中央棋院」の名をそのまま使用し、新会館を開設して活動を再開します。



 大正12年はこのように囲碁界は激動のスタートとなりましたが、混乱はさらに続き、9月1日に関東大震災が発生。中央棋院も方円社も事務所が使用不能となり仮事務所での活動となります。



 そして、震災を機に再び合同へ向けて動きだし翌年の大正13年に「日本棋院」が設立されたのでした。



 大正12年5月から震災までの約4ケ月間、中央棋院があった場所は「日本橋区川瀬石町15」と記録されていて、調査の結果、現在の住所では「中央区日本橋2丁目13−10 日本橋サンライズビル」と隣りの「日本生命江戸橋ビル」の都営浅草線側になります。



   



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中央棋院跡



 

| 囲碁史あれこれ | 20:21 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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「日本棋院八重洲囲碁センター」と林佐野・文子の住所

 東京駅八重洲口を出た目の前にある八重洲口会館に日本棋院八重洲囲碁センターがあります。



 東京駅前という絶好の立地条件であり多くの人で賑っています。私も何度か訪れたことがありますが、今年の6月に有楽町へ移転するそうです。



 日本棋院では、新センターの名称を一般公募しているそうです。締切は4月20(土)までですので興味ある人は応募してみて下さい。





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八重洲囲碁センター入口



 



 話は変わりますが、八重洲囲碁センターが入居している八重洲口会館の隣りにみずほ銀行八重洲口支店が入居している新槇町ビルがあります。



 ここは、囲碁の歴史にも関わり深い場所である事を発見しました。明治23年に方円社が発行した「囲碁等級録」に記載された棋士の住所に「東京日本橋区上槇町一番地 林佐野」とあります。また、同住所に「林ふみ子」の名もあります。それが、この場所なのです。



 林佐野は明治期に活躍した女流棋士です。文政8年(1825)に生まれた佐野は囲碁家元林家の分家・林藤三郎の養女となります。



 明治以降、幕府の後ろ盾が無くなった家元は生活に困窮し富裕層の邸宅に出向き囲碁を指導することで生計を立てます。佐野は財閥の三井、安田などに出向き指導碁を行っていました。明治12年に方円社が設立された時には林家一門であった佐野は設立に協力しています。



 佐野が訪問していた先に司馬凌海という医者がいました。青山霊園にある凌海の墓を紹介した際に説明しましたが、凌海が文子の父親です。明治12年に凌海が亡くなると家族は故郷の佐渡へ帰ることになりますが、わずか3歳で病弱であった文子は長旅に耐えられないと、家に出入りしていた佐野の養女となりました。



 幼い文子は佐野といっしょに三井や安田への指導碁に出向いていたそうで、自然と囲碁を覚えていきます。やがて方円社社員となり実力をつけていきますが、明治28年、能楽師の喜多六平太の元へ嫁ぎ囲碁界を離れます。そして十数年後に夫の勧めもあり囲碁界への復帰を図りますが、この時、ブランクを埋めるために右翼の巨頭・頭山満の仲介で本因坊秀哉が52局に及ぶ対局を行ったそうです。秀哉は方円社時代の文子の先輩でした。



 その後、囲碁界は中央棋院、日本棋院と合同の道へと進みますが、方円社・坊門双方に人脈を持ち、三井・安田と財界にも人脈を持った文子は重要な役割を果たしていくことになります。



 東京駅を降り立った際にはビルを眺めて、方円社設立、そして日本棋院設立に大きく関わった林親子へ思いを馳せてみてはいかがでしょうか。



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方円社発行「囲碁等級録」(明治23年)



                   
               



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 「新槇町ビル」は銀色のビル。左が「八重洲口会館」



 



   新槇町ビル : 中央区八重洲1-8-17

| 林家 | 23:17 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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元池袋史跡公園~池袋地名ゆかりの池

 
 池袋駅西口のホテル・メトロポリタン前にある元池袋史跡公園には「池袋地名ゆかりの池」の碑があります。



 「池袋」という地名は、その名のとおり昔は、このあたりに多くの池があった事が由来だそうです。



 池には清らかな水が湧きあふれて川となり弦巻川と呼ばれていました。川は雑司ヶ谷村の用水として利用されていましたが、池はしだいに埋め立てられ現存していません。その当時を偲んで元池袋史跡公園に池を復元したそうです。



 



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JR池袋駅(左)と元池袋史跡公園(右)



 



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「池袋地名ゆかりの池」の碑





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「池袋地名ゆかりの池」の碑



 



  豊島区西池袋1-9-12



| 東京散歩 | 05:36 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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