烏鷺光一の「囲碁と歴史」

2013年02月 | ARCHIVE-SELECT | 2013年04月

| PAGE-SELECT | NEXT

≫ EDIT

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

| スポンサー広告 | --:-- | comments(-) | trackbacks(-) | TOP↑

≫ EDIT

小説「本因坊 戦国争乱の章」

 でじたる書房より電子書籍「本因坊 戦国争乱の章」を出させていただくことになりました。
 戦国時代を舞台にした小説で、主人公は日海(後の本因坊算砂)です。師匠の仙也とダブル主人公といえるかもしれません。織田信長の時代のことで、本能寺の変までのことが書かれています。本能寺の変で信長の首が消えたことと、算砂にまつわる伝説から執筆しました。
 囲碁史会的には俗説とされていることですが、一般的にはそんな伝説があるなんて知らないという方も多いかもしれません。本能寺の三コウは有名ですが、その後のことです。
 ご興味のある方はぜひご購入ください。



 



 



でじたる書房「本因坊 戦国争乱の章」



http://www.digbook.jp/product_info.php/products_id/16986

スポンサーサイト

| 囲碁あれこれ | 08:19 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

≫ EDIT

大隈重信像(早稲田大学)

 水稲荷神社に続いて早稲田大学を訪れてみました。明治15年(1882)に政治家・大隈重信により設立された東京専門学校が前身で明治35年に早稲田大学へ改称。大正9(1920)に大学令施行により大学となった日本を代表する私立大学です。



 大隈は佐賀藩出身の幕末の志士で明治政府が出来ると政府に参加し参議兼大蔵卿を務めます。大隈の下で伊藤博文や井上薫も働いています。



 自由民権運動が高まる中、国会の早期開設を説いたため伊藤ら薩長と対立し財政上の失敗もあったことから明治14年に参議を免官となり下野します。下野した大隈は立憲改進党を結党するとともに、「学問の独立」「学問の活用」」「模範国民の造就」を理念とし東京専門学校を設立しました。



 政敵となった伊藤博文でしたが大隈の外交的手腕を高く評価していて第一次伊藤内閣で外務大臣に抜擢します。外国との不平等条約改正に向けて伊藤の後を継いだ黒田内閣でも外務大臣に留任しますが条約改正内容に不満を抱く反対派が爆弾により襲撃し右足切断という怪我を負ったため辞職します。早稲田大学にある銅像は杖をついていますが、これは義足だったためです。



 明治31年には板垣退助と憲政党を結党し、薩長以外で初の内閣総理大臣(第8代)に就任しています。(党内対立で4ケ月で総辞職)。その後政界を引退し早稲田大学総長に就任。文化事業の発展に尽力していましたが、やがて政界に復帰し大正3年には内閣総理大臣に再び就任しました。



 大隈重信は囲碁が大変好きで一日中碁を打っていたこともあったそうです。「将棋は戦いだが、碁は経済である」とう言葉も残しています。



 





Dsc_1280



早稲田大学入口



 



Dsc_1281



大隈重信像



 



早稲田大学早稲田キャンパス:新宿区西早稲田1-6-1



| 東京散歩 | 06:36 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

≫ EDIT

堀部安兵衛の碑(水稲荷神社)

 水稲荷神社の境内には「高田馬場の決闘」で有名な赤穂浪士の堀部安兵衛を顕彰する「堀部武庸(ほりべたけつね)加功績跡」の碑が建っています。


 「高田馬場の決闘」とは元禄7年(1694)江戸郊外の高田馬場(水稲荷神社の近くで、現在の新宿区高田馬場ではありません。)で起きた伊予国西条藩松平頼純の家臣たちによる決闘で、剣の達人であった中山安兵衛(後の堀部武庸(ほりべたけつね))がこの決闘に助太刀したことで江戸市中で評判となります。

 瓦版では「18人斬り」として紹介されますが、実際に斬ったのは3人だったそうです。

 安兵衛の評判を聞いた赤穂藩士の堀部金丸が娘婿に迎えますが、7年後の元禄14年に赤穂藩主・浅野長矩の殿中刃傷事件があり、翌年、安兵衛も参加した吉良邸討ち入り事件が発生します。

 安兵衛は元禄16年2月4日(1703年3月20日)伊予松山藩主松平定行の屋敷において切腹。享年34歳でした。


 碑は明治43年に完成し馬場に建立されましたが、昭和46年に現在地に移転したそうです。


Dsc_1257 Dsc_1259




  水稲荷神社:新宿区西早稲田3丁目5−43



| 江戸時代 | 06:03 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

≫ EDIT

水稲荷神社

 昨年末に早稲田近辺を取材したのですが紹介する機会が無かったので今回紹介させていただきます。



 都電荒川線に乗って、終着の早稲田駅に降りました。



 



Dsc_1251



都電荒川線「早稲田駅」



 



 最初に訪れたのが「水稲荷神社」です。天慶4年(941)に冨塚(古墳)に百足退治伝説で有名な藤原秀郷が勧請した冨塚稲荷が始まりで、元禄15年(1702)に大椋に霊水が湧きだし評判になった事から「水稲荷神社」と改名しました。



  「水稲荷神社」は元は現在の早稲田大学の9号館のあたりにありましたが、昭和38年に大学の増築にあたり徳川御三卿の一つ清水家の下屋敷であった「甘泉園公園」に隣接する現在地へ移転しています。



 



Dsc_1254_2 Dsc_1262



水稲荷神社の鳥居



 境内にある冨塚はもともと古墳で稲荷神社が建立されています。この一帯の地名「戸塚」の由来ともいわれていますが、神社とともに現在地に移設されました。             



 



Dsc_1268 Dsc_1275



拝殿(左)と冨塚(右)



 



 境内の「耳欠け神狐」は身体の痛い場所と交互に撫でると痛みが和らぐと言われています。



 また、「駒繋松」といわれる松は太田道灌が馬を繋いだ松で、現在のものは三代目だそうです。



Dsc_1277 Dsc_1267_2



耳欠け神狐(左)と太田道灌ゆかりの駒繋松(右)



 



  新宿区 西早稲田3-5-43

| 東京散歩 | 05:47 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

≫ EDIT

与謝野鉄幹・晶子旧居

 歌集「みだれ髪」でデビューした情熱の歌人与謝野晶子(1878-1942)と夫で雑誌「明星」を主宰した与謝野鉄幹(1873-1935)が明治44年から4年間暮らした場所です。



 二人は不倫の関係でしたが、晶子の類まれな才能を見抜いた鉄幹は夫人と離婚し晶子と再婚、「みだれ髪」をプロデュースします。六男六女に恵まれ、孫には大臣を歴任し昨年引退した政治家・与謝野馨氏がいます。



 



Imag0090



与謝野鉄幹・晶子旧居



 



Imag0089



案内プレート



 



  住所:四番町9番地2 セントラルレジデンス四番町シティハウス



| 東京散歩 | 06:10 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

≫ EDIT

菊池寛旧居跡

 「有島武郎・有島生馬・里見弴旧居跡」の案内プレートは、跡地マンションの西側に設置されていますが、同マンションの東側には「菊池寛旧居跡」のプレートが設置されています。


 有島武郎は大正12年に亡くなりましたが(不倫の末の心中)、菊池寛はその3年後の大正15年から1年あまり有島邸の一部を借りて住んでいました。


 菊池寛は香川県高松市出身の小説家でジャーナリストです。大正12年には私財を投じて「文芸春秋」を創刊し実業家としても成功します。昭和10年には芥川賞・直木賞を設立しました。



Imag0092

菊池寛旧居跡




Imag0091

案内プレート




  場所:六番町3番地 ベルテ六番町



| 昭和時代 | 05:46 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

≫ EDIT

有島武郎・有島生馬・里見弴旧居跡

 六番町に白樺派の小説家・有島武郎(1878~1923)、画家の有島生馬(1882~1974)、小説家の里見弴(1888~1983)の兄弟が暮らしていた旧居跡があります。彼らの父が明治29年に購入し、自邸としています。



Imag0095



有島武郎・有島生馬・里見弴旧居跡



 



Imag0094



案内プレート



 



 住所:千代田区六番町3番地 ベルテ六番町

| 東京散歩 | 05:40 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

≫ EDIT

泉鏡花旧居跡

 「高野聖」、「天守物語」、「婦系図」などで知られる小説家・泉鏡花は明治43年から亡くなるまで六番町に住んでいました。


 鏡花は明治6年に石川県金沢市に生まれ17歳で上京し、尾崎紅葉の弟子となります。


 明治32年の新年会の席で神楽坂の芸者桃太郎(本名すず)と出会った鏡花は事実上、夫婦として暮らし始めましたが、師匠の紅葉に破門するといわれ仕方なく別れます。


 そして紅葉が亡くなったあと、すずは芸者を辞めて晴れて鏡花の妻となりました。このすずとの体験を背景としたのが「婦系図」であるといわれています。


 晩年、この家で昭和14年に67歳で亡くなるまで、すずと暮らしますが、「夜叉が池」や「天守物語」などはここで生まれています。




Imag0097_2

泉鏡花旧居跡(左側の茶色い建物)



Imag0096

案内プレート




  住所:千代田区六番町5番地



| 明治・大正時代 | 08:20 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

≫ EDIT

番町文人通り~島崎藤村旧居跡

 四ツ谷駅から新宿通りを少し行ったところ、心法寺手前を左に曲がった路地から、大妻通りに突き当たるまでの1kmほどの道には、島崎藤村をはじめ、名だたる文人たちの旧居跡が多く点在し、通称「番町文人通り」と呼ばれています。



Imag0101
番町文人通り



 



 千代田区六番町に小説家・島崎藤村(1872~1943)が昭和12年から6年間住んでいました。「巡礼」や「ふるさと」などの作品はここで生まれています。



              
              



Imag0099
島崎藤村旧居跡
                 



Imag0098
案内プレート



 



  島崎藤村旧居跡:千代田区六番町13番地10



| 東京散歩 | 08:08 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

≫ EDIT

心法寺

千代田区麹町にある心法寺は、推古天皇の頃三河国に創建された寺院で泰法寺と称していました。徳川家康の入府に従い、慶長2年(1597)に現在地へ移転し改めて心法寺を起立したといわれています。



 千代田区で最も古く、唯一墓地を持っているお寺だそうです。



 境内にある「銅製梵鐘」は碑文によると延宝4年(1676年)に鋳造されたもので、神田の職人により鋳造された江戸時代の優れた工芸品として千代田区の有形文化財に指定されています。



 墓地には江戸幕府御庭番で遣米使節の副使を勤めた村垣淡路守(むらがきあわじのかみ)の墓があり、さらに酒樽(江戸時代のブランド男山)の形をした墓石等ユニークな墓もあります。(今回は墓参りの方々がおられたので墓地の撮影は行いませんでした。)



 



Imag0103
境内
             



Imag0105 Imag0107
銅製梵鐘(左)と庚申塔(右)



 



  東京都千代田区麹町6-4-1

| 江戸時代 | 05:56 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

| PAGE-SELECT | NEXT

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。