烏鷺光一の「囲碁と歴史」

2013年01月 | ARCHIVE-SELECT | 2013年03月

| PAGE-SELECT | NEXT

≫ EDIT

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

| スポンサー広告 | --:-- | comments(-) | trackbacks(-) | TOP↑

≫ EDIT

上杉家藩主の菩提寺・法音寺

 上杉家廟所入口にある法音寺は上杉家藩主の菩提寺です。


 天平9年に越後で創建され、上杉謙信公の時代に謙信公の祈祷所として春日山に移されます。


 上杉景勝公が米沢に転封されると、米沢城二の丸(現上杉伯爵邸付近)に移転し、以降、場内にある謙信公の祠堂を護り祭祀を交代で行う二一ケ寺の筆頭として歴代藩主の葬儀も行ってきました。


 明治に入り謙信公の遺骸が上杉家藩主の廟所へ移されると、廟所の守護として現在地へ移転しています。




Dsc_2107
法音寺山門
              

Dsc_2108
法音寺本堂




    山形県米沢市御廟1-5-32

スポンサーサイト

| 江戸時代 | 06:17 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

≫ EDIT

米沢藩主上杉家廟所

 米澤城から北西に1kmほど離れたところに歴代米沢藩主が眠る上杉家廟所があります。


 慶長6年(1601)に上杉景勝公が米沢へ転封されると、謙信公の遺骸は米沢城本丸に祠堂を造営して祀られます。この時、城内で何かあったときの避難所として定められたのが現在の上杉家廟所です。
 景勝公は元和9年(1623)に亡くなり廟所としたのが最初で、以後、12代斉定公まで歴代藩主がこの地に埋葬されています。




Dsc_2091 Dsc_2094
廟所入口




Dsc_2101
歴代藩主の廟所




 上杉謙信公の遺骸は明治に入るまで米沢城内にありましたが、新政府の廃城令に伴い歴代藩主の眠る廟所へ移され埋葬されました。現在、歴代藩主の廟の中央に位置する場所に眠っています。
              



Dsc_2096 Dsc_2097_2
上杉謙信公の廟所




               
Dsc_2098_2
上杉景勝公の廟所




 もちろん米沢藩中興の祖である9代・上杉鷹山公の廟もあります。隣りには実子で十代・治広公(8代重定公の弟)の後継者であった顕孝公の廟があります。藩主になる前に19歳で亡くなり鷹山公の血筋は絶えてしまいました。



 資料館に鷹山公の廟を改修した際に発見された石に刻まれた墓誌と数珠が展示してありました。



                  
               
Dsc_2104 Dsc_2105
上杉鷹山公の廟(左)隣りの小さな廟は実子の顕孝公の廟。右の写真は鷹山公の廟から発見された石で出来た墓誌と数珠。

山形県米沢市御廟1丁目5−30

| 江戸時代 | 05:58 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

≫ EDIT

前田慶次・林泉寺での囲碁勝負

 歌舞伎者として有名な前田慶次について上杉家へ仕官して間もない頃に林泉寺で囲碁対局を行ったという逸話があります。といっても時期的には会津の頃なので現在の林泉寺ではありません。上杉家が会津にいた頃も一緒に移転したという説がありますので、その時かもしれませんし、あるいは全く別の寺かもしれません。

 ある日、同輩の一人が「林泉寺の和尚が傲慢なため一発殴ってやりたい」と愚痴をこぼしているのを聞きました。
 林泉寺は上杉家の菩提寺で上杉景勝も崇敬していたため、一家臣など相手にしてもらえないという不満があったのでしょうか。慶次はそれを聞き「自分が和尚の顔を殴ってきてやろう」と寺に向かいます。
 巡礼に仮装した慶次は和尚と雑談してすっかり打ち解け、客殿に碁盤があるのを見つけ対局することとしました。この時、慶次は負けた方が「しっぺい」(デコピン)を当てられるという罰ゲームを提案し和尚も承諾します。
 一局目は、慶次はわざと負け和尚はつめでちょこんとしっぺいを慶次に当てました。二局目は慶次が勝ちましたが、「和尚様にしっぺいを当てるなど恐れ多い」と辞退すると、和尚は「遠慮は無用」というので「それならば」と、和尚の眉間を思いきり殴りました。和尚は白目をむいて気を失い、慶次は大笑いしながら寺から逃げ去ったそうです。史実かどうかは別として歌舞伎者の慶次らしいエピソードだと思います。

Sany0161  Sany0164
林泉寺本堂
 

Dsc_2089
林泉寺山門(元は家老の屋敷の門で鷹山公もくぐられた)

  

| 囲碁が関わった出来事 | 05:39 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

≫ EDIT

ジャンボ囲碁大会

130224_174401  130224_180101
対戦表
 
 昨日は1チーム15人の団体戦でした。
 いつもお世話になっている初台囲碁クラブの七将で出場させていただきました。チームは8位、個人的には三連勝二連敗でした。途中で集中力が切れ、5局目などはボロボロでした。打とうと思った一路横に打ったり、アタリを見逃したり。
 優勝はケンカップマウンテン、準優勝もケンカップで、多岐技会は4位でした。

| 囲碁あれこれ | 08:27 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

≫ EDIT

林泉寺の史跡



 上杉家の菩提寺である林泉寺では上杉鷹山公の足跡を訪ねることが出来ます。



 境内にあるしだれ桜は樹齢約200年で鷹山公御手植えの桜といわれています。



 春日明神は上杉家の氏神で、歴代藩主の尊崇が厚く、鷹山公は17歳で上杉家を相続された際に立志の誓詞を捧げられています。



Dsc_2087_2  Dsc_2090
鷹山公御手植えのしだれ桜(左)と春日大明神




 上杉家廟所の隣りに武田信玄の六男・武田信清の墓があります。織田信長により武田家が滅亡すると信清は姉で上杉景勝の正室である菊姫を頼って上杉家に身を寄せます。


 以来、信清を初代とする米沢武田家は明治まで上杉家家臣として続くこととなります。




Dsc_2071

武田信玄の六男・武田信清の墓




 林泉寺の墓所に謙信・景勝に仕えた甘糟景継の墓がありました。第四次川中島の戦いでしんがりを務める等、猛将として知られ、徳川家康の会津攻めでは拠点の白石城を任せられますが、妻の急死で会津に戻った隙に伊達政宗により城を奪われてしまいます。


 上杉景勝の怒りはすさまじく処刑こそ免れましたが直江兼続の一配下へ左遷させられ冷遇されます。景継を高く評価していた徳川家康は景勝が冷遇している事を知り2万石で迎え入れようとしましたが、景継は「責任は自分にあり罰を受けるのはもっともな事。今さら二君に仕える気は無い」と断りました。家康は「そういう人物だからこそ欲しかった」とくやしがったそうです。慶長16年(1611)に亡くなりましたが自害ともいわれています。


 ところで、景継の墓もそうですが、米沢地方の墓石は万年塔と言われる独特の形状をした墓石が多くあります。長方形の石の中をくりぬき、側面に穴を開け、上に屋根を乗せた形状は、直江兼続の考案と言われ有事の際にはバリケードに、洪水の際には土嚢として転用できるようにと考えられたものです。



Dsc_2077

甘糟景継の墓




新貝弥七は米沢藩士・喜兵衛安親の二男で、元禄3年に、吉良左兵衛義周(上杉綱憲公の二男で吉良上野介の養子)の小姓を命ぜられて、江戸へ勤めました。
 元禄15年12月14日の赤穂浪士打入の時に、吉良邸玄関先において堀部弥兵衛等の浪士と渡り合い討死しました。腹中に槍の穂先が残っていたと記録にあります。




Dsc_2076

新貝弥七の墓





  山形県米沢市林泉寺1-2-3



| 江戸時代 | 10:27 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

≫ EDIT

上杉家の菩提寺・林泉寺

 米沢市にある林泉寺は上杉家の菩提寺で歴代藩主の夫人の墓や直江兼続夫妻の墓があります。
 元々、上杉氏の本拠地であった越後の春日山城山麓に明応6年(1497)に建立され、上杉景勝が米沢へ転封となると、林泉寺もこれに従い移転しました。(越後にも林泉寺はそのまま残っています。)
 米沢では歴代藩主は廟所が造営され別の場所に葬られましたが、林泉寺には藩主の正室等が葬られ、引き続き上杉家から崇敬されてきました。
 見学は受付を済ませると本堂でお経をあげた後、謙信公の位牌や貴重な資料を見る事ができます。その後、墓地や庭園の見学となります。

Dsc_2068 Dsc_2069
林泉寺本堂(左)と案内板(右)

 境内には戦国時代から江戸時代初期にかけて活躍した家老・直江兼続と夫人のお船の方の墓があります。
 上杉謙信の許で「義」の精神を学び、謙信の後継者・景勝を補佐し米沢藩の基礎を造りました。

Dsc_2074
直江兼続夫妻の墓

 上杉家藩主の妻子が葬られている廟所は他の墓と区切られています。主な墓には案内板がありますので誰の墓かすぐに分かります。

 「仙洞院」(仙桃院)は上杉謙信の姉で、謙信の養子で米沢藩初代藩主の上杉景勝の実母です。幼い直江兼続を景勝の近習に推薦したのも仙桃院だと言われています。

Dsc_2079 Dsc_2083
上杉家廟所入口(左)と仙洞院の墓(右)

 初代藩主・上杉景勝の正室・菊姫は武田信玄の六女で甲州夫人と呼ばれました。川中島の戦いで幾度となく戦った上杉と武田でしたが、信玄の跡を継いだ武田勝頼は、謙信亡き後、後継争いをしていた景勝と甲越同盟を結び支援しました。菊姫は同盟の証として景勝の元へ嫁いでいます。二人の夫婦仲は大変よかったそうで、菊姫が病死した際には景勝が大変悲しんだと伝えられています。

 鍋島夫人とは景勝の息子で二代目藩主となった上杉定勝の正室・市姫の事で肥前佐賀藩の初代藩主・鍋島勝茂の娘です。

Dsc_2084  Dsc_2085
甲州夫人の墓(左)と鍋島夫人の墓(右)

 会津夫人は定勝の息子で三代目藩主の上杉網勝の正室で、会津藩初代藩主で徳川家光の異母弟であった保科正之の長女・媛姫の事です。網勝は跡継ぎが無いまま急死したため上杉家が改易されそうになりますが保科正之の計らいで高家吉良上野介と正室で網勝の妹である富子の間に生まれた綱憲を末期養子として迎えています。

 上杉駿河守勝周は四代藩主・上杉綱憲の四男で支藩・米沢新田藩の初代藩主です。つまり吉良上野介の孫にあたる人物です。

Dsc_2081  Dsc_2086
会津夫人の墓(左)と上杉駿河守勝周(右)

 上杉鷹山公の側室・お豊の方の墓もありました。鷹山公は上杉家に養子に入り正室に先代で養父の重定の娘・幸姫を迎えますが、幸姫は脳障害、発育障害があったといわれ(30歳で病死)、後継者が絶える事を心配した重臣の勧めで十歳年上の上杉家分家の姫である、お豊の方を側室に迎えました。鷹山は四代藩主綱憲の曾孫、お豊の方は孫という間柄となります。

 鷹山は35歳で隠居し餐霞館で暮らしますがお豊の方も一緒でした。二人の間に生まれた子供はいずれも病死し、他に側室を設けなかったため結局、鷹山の血筋は途絶えています。

Dsc_2082
鷹山公の側室・お豊の方の墓




  山形県米沢市林泉寺1-2-3



| 江戸時代 | 16:13 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

≫ EDIT

法泉寺

 白子神社から西に100mほど離れたところにある法泉寺は元和4年(1618)に直江兼続によって創建された寺院です。



 法泉寺は初め禅林寺という名前で、兼続が足利学校で学ばせていた九山禅師を呼び寄せ、境内に米沢藩最初の学問所「禅林文庫」を開設しました。学問所に備えられた兼続や九山禅師が集めた蔵書は、上杉鷹山が創設した興譲館へと受け継がれ、現在でも貴重な文化財として残っています。
      また、境内にあった庭園は九山禅師が京都天竜寺の名園を模して造った米沢三大名園の一つです。
 現在は、境内の中央に道路が通り、南側に本堂、北側に文殊堂・庭園と分かれています。



Dsc_2048
法泉寺本堂




Dsc_2051 Dsc_2055
庭園内の文殊堂(左)と法泉寺庭園(右)




 境内には兼続が学問所開設を喜び詠んだ漢詩の碑が建立されています。


 上杉鷹山公は法泉寺庭園にて盛大な詩会を開催しています。この時に鷹山公が詠んだ詩が碑となって庭園内に建立されていました。




Dsc_2054  Dsc_2059
直江兼続詩碑(左)と上杉鷹山公の詩碑(右)




 庭園内に雲井龍雄の詩碑がありました。雲井は米沢出身の幕末の志士です。江戸末期の儒学者・安井息軒の私塾で桂小五郎らも門下生であった「三計塾」で塾頭を務め,幕末の混乱期に大政奉還実現に向けて活躍しました。


 戊辰戦争では薩長の横暴を非難する漢詩「討薩檄」を作成したため米沢にて謹慎しています。


 明治2年には新政府の立法機関である集議院議員に選ばれますが、戊辰戦争時の行動を問題にされて追われます。


 その後、旧幕臣達の帰順を嘆願する活動を行いますが、政府転覆を企む謀反とみなされ逮捕され小伝馬町にて処刑されました。


 雲井は漢詩の才能にも恵まれ、その詩集を明治時代の自由民権運動の活動家達が愛読していたそうです。




Dsc_2060

雲井龍雄の詩碑




 法泉寺ではこの他に吉良上野介の正妻・参姫の墓。直江兼続と親交のあった石田三成の供養塔等があるそうですが、うかつにも写真を撮らずに帰ってしまいました。機会があれば再訪問したいものです。





  山形県米沢市西大通1-3



| 江戸時代 | 05:58 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

≫ EDIT

鷹山が藩政再建を誓った白子神社

 米沢市内にある白子神社は和銅5年(712)創建と伝えられ、鎮守として伊達、蒲生、上杉など歴代の領主に保護されてきました。


 明和4年(1767)に藩主となった上杉鷹山(治憲)は藩政再建を目指し、倹約を誓う誓詞を奉納しています。


 境内には鷹山公誓詞の碑が建立されています。


 それにしても、取材時は冬が始まる直前だったので白子神社に限らず神社はほとんど冬支度でシートで防護されて建物の全容がわかりませんでした。東北の取材は冬季は避けたほうが良いと実感しました。




Dsc_2041

神社入口



Dsc_2043

神社境内



Dsc_2042

鷹山公の誓詞を写した碑




  山形県米沢市城北2丁目3-25



| 江戸時代 | 06:09 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

≫ EDIT

吉田松陰旅宿の地

 長州藩の思想家・吉田松陰は嘉永5年(1852)に東北への旅に出ています。藩の通行手形が間に合わなかったため脱藩という形での旅でした。


 米沢にも訪れ、藩校・興譲館を見学しています。興譲館は当時、全国有数の学問所として知られていました。この時、松陰が滞在した旅館の跡地に記念碑が建立されています。


 松陰は東北から江戸へ帰った後、黒船へ乗り込み密航を企てますが失敗し萩で幽閉されます。そして、松下村塾で勤王の志士たちを育てる訳ですが、皮肉なことに松陰の弟子達が樹立した新政府が戊辰戦争で会津・米沢と戦うことになったのでした。


Dsc_2063



Dsc_2065


  「吉田松陰旅宿の地」碑




    山形県米沢市中央7丁目



| 幕末・明治維新 | 01:34 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

≫ EDIT

米沢藩校・興譲館跡

 東北を訪れた際に米沢市内のホテルに一泊しましたが、ホテルの近くに米沢藩校・興譲館跡の碑があったので行ってみました。


 米沢藩では元禄10年(1697)に四代藩主・上杉綱憲により学問所が開設されますが、このころより財政が逼迫し、やがて廃止されます。


米沢藩中興の祖である 9代藩主・上杉治憲(鷹山)は財政難に陥った藩を再建するには人材の育成が大切であると藩校を復活し「興譲館」と名付けました。


 「興譲館」は幕末まで米沢藩の教育機関として残り、現在は山形県立米沢興譲館高等学校となっています。


 余談ではありますが学問所を開設した上杉綱憲は養子として上杉家に入っていますが、実父は忠臣蔵で殺害された吉良上野介です。(上野介の正妻で綱憲の実母が二代藩主・上杉定勝の娘)


 また、綱憲の娘が筑前秋月藩・黒田長貞へ嫁ぎ、孫として鷹山が生まれました。つまり、上杉鷹山は吉良上野介の子孫となるのです。




Dsc_2040_3

興譲館跡記念碑




 山形県米沢市中央2丁目3−14 サウンド・スタジオ米沢中央店 横

| 江戸時代 | 05:56 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

| PAGE-SELECT | NEXT

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。