烏鷺光一の「囲碁と歴史」

2012年12月 | ARCHIVE-SELECT | 2013年02月

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井山裕太

 囲碁界では井山裕太五冠の活躍が止まりません。現在は棋聖戦を行っており、もしこれを取ると六冠になってしまいます。今日と明日でその棋聖戦第二局があります。
 井山さんの年間賞金は1億を超えました。先日、最優秀棋士に贈られる秀哉賞の受賞が確定したようです。これからますますの活躍が期待されます。
 そういえば、情熱大陸でも採り上げられていましたね。実は私は井山五冠と同い年です。そのためタイトルを取るより前からずっと応援しています。彼がタイトルを取るより前に打っていただく機会もありました。
 井山さんを見習って今年は私も頑張らなければ。とりあえず二月二十四日のジャンボから、いずみの実業団団体戦決勝大会、オールアマ囲碁団体戦と三週続けて行われる団体戦を頑張ります。するとすぐにアマ名人戦もはじまってきます。

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| 囲碁あれこれ | 09:45 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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興徳寺の続き~秋月登之助の墓

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秋月登之助の墓

 蒲生氏郷の墓所の区画とは別に、一般の墓所があります。その中の一つに秋月登之助の墓があります。
 秋月は幕末、会津藩のために尽力し、幕軍・大鳥圭介の下で伝習第一大隊長になります。新撰組副長の土方歳三はその参謀として活躍します。
              
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墓に設置された案内板
              
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秋篠宮妃紀子様のご先祖の墓の案内板

 案内板はありましたが、写真を取ることはできませんでした。

| 幕末・明治維新 | 09:13 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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興徳寺~蒲生氏郷の墓

 会津若松市の興徳寺は、弘安10年(1287)に会津を拠点とした有力大名・蘆名氏により創建された臨済宗の寺院です。


 天正17年(1589)に伊達政宗と蘆名義弘が奥州覇権をかけて行った「摺上原の戦い」で政宗が勝利し会津を手に入れました。この時、政宗は興徳寺を会津支配のための仮館としています。


 翌年には、小田原攻めで北条氏を滅ぼした豊臣秀吉が天下統一の総仕上げとして奥州仕置を行いますが、この際、興徳寺に数日間泊まっています。(豊臣秀吉公當寺滞在中書刻碑が境内にあるそうですが見落としてしまいました。)


 奥州仕置では、政宗がようやく手に入れた会津は没収され、秀吉配下の蒲生氏郷が新領主となりました。


 蒲生氏郷は元々、織田信長に人質として預けられていましたが、その才覚を信長に見込まれて信長の娘と結婚しています。


 本能寺の変では明智軍と戦い、後に秀吉の傘下に入りました。


 氏郷は文人としても才能に溢れ、茶道では千利休の高弟・利休七哲の一人として利休切腹後の千家再興に尽力しました。




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境内の様子




 蒲生氏郷は文禄4年(1595)に京都伏見の屋敷で病死しました。遺体は京都大徳寺に葬られましたが、息子の秀行により興徳寺にも墓(五輪塔)が建てられました。墓には遺髪が収められたそうです。享年40歳


 境内には氏郷の辞世の句碑が建立されています。


  「限りあれば 吹かねど花は散るものを 心みじかき 春の山風」

  (花の一生には限りがあり、風など吹かなくても、いつかは散ってしまう。それなのに何故春の山風は短気に花を散らしてしまうのか。)


 病に倒れなければ秀吉の跡の天下を十分狙えた逸材だけに、無念さが滲んだ句です。





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蒲生氏郷の墓(左)と辞世の句碑(右)
 

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墓の案内板(左)と境内にあった松平容保の句碑(右)





  会津若松市栄町2-12 



 

| 戦国時代 | 08:47 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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会津若松駅

 会津若松の話題に戻ります。


 会津若松市の玄関口である会津若松駅に寄ってみました。(近くのホテルに泊まったので。)


 駅前には白虎隊士の像と赤べこのモニュメントが設置されていました。


 赤べこは、会津地方を代表する郷土玩具ですが、「べこ」とは東北地方の方言で牛のことを言います。


 昔、福島県柳津町の圓蔵寺を建立する際、難工事で困っていた所をどこからともなく現れた赤い牛が工事を手伝い完成したという伝説にちなんでいます。


 昔から「幸運を運ぶ牛」として親しまれてきました。




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会津若松駅(左)と赤べこがデザインされた改札(右)



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駅前の白虎隊士像(左)と赤べこ(右)



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駅の時計も和風に(左)。城の様な駅前地下道入口(右)



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地下道入口の漆パネルの白虎。交差点の四隅の入口にはこの他青龍等、四神のパネルがあります。




 福島県会津若松市駅前町1-1

| 旅行記 | 10:59 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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囲碁殿堂資料館~渋川春海~

 昨日は囲碁史会でした。
 南氏発表がメインとなりました。「江戸時代の囲碁の本」という日本棋院が何年か前に刊行した本の解説、というか訂正や追求で、発行されるときは南氏も資料提供などの協力をされていました。
 
 会津についての記事をしばらく書いていましたが、会津藩初代藩主保科正之の庇護により天文方として活躍した「天地明察」の主人公渋川春海が殿堂入りしたことにより、大阪商大から渋川春海関連の資料が提供され、現在日本棋院地下の殿堂資料館に展示されています。週刊碁にも記事が掲載されています。

| 囲碁史会 | 12:05 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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会津藩校日新館

 日新館は会津藩の藩校で享和3年(1803)に5年の歳月をかけて完成した、天文台や水練場(プール)を備えた全国有数の教育施設でした。上士の息子は10歳になると入学が義務付けられたそうです。飯盛山で自刃した白虎隊士も日新館出身でした。



 鶴ヶ城近くにありましたが焼失し、現存する遺構は天文台だけとなっています。


 昭和62年に日新館の残された図面等の資料を基に市郊外に「會津藩校日新館」が建設されました。


 当時の建物を復元したもので、博物館。弓道場、武道場、研修宿泊施設を兼ね備えた施設だそうです。




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日新館の門(左)と中の様子(右)。孔子を祀る大成殿が中心に配置されている。




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保科正之に招かれた儒学者・山崎闇斎(やまざきあんさい)像(左)と東塾内での素読の学習(右)



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大成殿(左)と水練場(右)




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天文台(左)と天文台から見る全景(右)



 



福島県会津若松市河東町南高野字高塚山10



 

| 江戸時代 | 06:50 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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天寧寺~近藤勇の墓

 会津若松市郊外にある天寧寺は、文安4年(1447)に会津地方を支配していた蘆名氏により創建された曹洞宗の寺院です。蘆名氏の菩提寺として栄え、末寺33カ寺、僧堂12を数える大きな寺だったそうです。



 天正17年(1589)に伊達政宗の侵攻により蘆名氏は敗退。天寧寺も焼失してしまいます。後に寺は再建しますが、かつてのような規模を取り戻すことはありませんでした。



 天寧寺には新選組局長・近藤勇の墓があります。新選組は会津藩主・松平容保が京都守護職のときに、その配下として京都の治安維持にあたった繋りがあり、戊辰戦争でも土方歳三らが合図城の攻防で会津藩と共に戦っています。



 墓は京都でさらされていた近藤の首が密かに持ち込まれたとか、遺髪が持ち込まれたとか言われていて土方歳三が滞在中に建てられたそうです。



 墓所にはこの他、戊辰戦争時の国家老・萱野権兵衛国の墓があります。鶴ヶ城内の顕彰碑について以前ブログで説明しましたが、敗戦後の城明け渡し等の処理を行う一方、藩主・容保の助命を働きかけ、戦争責任を一身にかぶり切腹しています。



  



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天寧寺本堂



                    
                
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境内案内図。左上が近藤勇の墓



 



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案内板



 



 取材で現地を訪れたのですが墓は本堂裏の山の中腹にあり徒歩10分以上かかるそうです。時間都合によりやむなく案内板のみの撮影となりました。



 



福島県会津若松市東山町石山天寧208

| 幕末・明治維新 | 06:36 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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会津武家屋敷~龍馬暗殺犯とされる佐々木只三郎の墓

 会津武家屋敷の一角に会津出身で京都見廻組の佐々木只三郎の墓がありました。


 佐々木は天保4年に会津藩士の子として生まれ、親戚の旗本佐々木家の養子となります。


 神道無念流を学び、「小太刀をとっては日本一」と称される剣の達人だったそうで、文久3年(1863)に清河八郎により将軍家茂上洛警護として結成された浪士組に参加しますが、清河八郎の目的が尊王攘夷だと知ると隊を離れて江戸に帰還します。


 (清河と別れて京都に残ったグループは新選組となりました。)

 その後、只三郎は江戸に浪士組を引き連れて帰ってきた清河八郎を斬殺しています。

 文久4年(1864)には、旗本を中心に組織された京都見廻組の与頭として再び京都に行き、新選組同様、治安維持活動を行いました。

 慶応3年(1867)に、近江屋で坂本龍馬・中岡慎太郎が暗殺されますが只三郎率いる見廻組が犯人であるという説が有力です。


 慶応4年に鳥羽伏見の戦いに幕府側として参戦し負傷。和歌山で亡くなりました。現地にあった墓石を昭和50年に移設したそうです。




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佐々木只三郎の墓




会津武家屋敷には、この他にも様々な建物があります。


 現矢吹町から移設した「旧中畑陣屋」や、鶴ヶ城に現存する千利休の子、少庵により建てられた茶室「麒閣」の再現。かつて西郷頼母邸にあった菅原神社を再建した「会津天満宮」等、貴重な史跡を見ることができます。




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旧中畑陣屋




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鶴ヶ城にある麒閣を再現(左)と西郷邸にあった菅原神社に由来する「会津天満宮」


  福島県会津若松市東山町大字石山院内




| 幕末・明治維新 | 06:49 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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会津武家屋敷~西郷邸

会津武家屋敷は江戸時代の会津藩家老西郷頼母の屋敷を中心に、福島県重要文化財である旧中畑陣屋や数奇屋風茶室、藩米精米所などの歴史的建造物が軒を連ねる屋外博物館です。


 西郷家は保科家(会津松平家)の分家で代々、会津藩の筆頭家老を務める家柄でした。


 万延元年(1860)に家老として松平容保に仕えた頼母は、容保が京都守護職の就任を要請されると強硬に反対し辞退を働きかけますが、容保の怒りをかい家老職を罷免されます。


 明治元年に戊辰戦争が始まると家老職に復帰し事にあたります。当初、会津藩は新政府に恭順の意を示していましたが、新政府は容保の死罪を迫ったため戦争へと突入していったのでした。



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会津武家屋敷入口(左)と西郷邸の門(右)



 西郷頼母邸の門の近くに柔道を行っている像がありますが、これは会津藩出身で小説・姿三四郎のモデルとなった西郷四郎の像です。


 西郷四郎は講道館柔道の創始者・嘉納治五郎の弟子で講道館四天王の一人と呼ばれた柔道家で明治以降ですが16歳のときに頼母の養子となっています。



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西郷四郎像(左)と玄関(右)
                  



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西郷邸外観(左)と藩主や上級武士を迎えた御成の間(右)
        



 戊辰戦争で会津城下へ新政府軍が進行した際に頼母の母や妻子を初めとする一族21名が、足でまといになると屋敷内で自刃しています。この出来事は白虎隊の悲劇と並び語り継がれています。


 頼母は会津を落ち延び函館で榎本武揚らと合流しますが、ここで捕まっています。明治以降、福島で神社の宮司等をして暮らし、明治36年に76歳で亡くなっています。


 なお、西郷邸は元々、鶴ヶ城近くにありましたが戊辰戦争で焼け落ちました。会津武家屋敷の建物は再建したものです。



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自刃の間



 



福島県会津若松市東山町石山院内1

| 幕末・明治維新 | 06:22 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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妙国寺~白虎隊士仮埋葬地

 妙国寺は、応永元年(1394)に日蓮宗の高僧日什上人が生まれ、亡くなった霊場で高弟の日仁上人が開山した寺です。戊辰戦争では敗れた松平容保が約1ヶ月間、この寺で謹慎しました。



 また、飯盛山で自刃した白虎隊士19名を最初に葬った寺としても知られています。



 戊辰戦争後、飯盛山の白虎隊士の遺体は朝敵の遺体として埋葬することが許されず野ざらしとなっていました。そんな惨状を見るに見かねた滝沢村の吉田伊惣治など村人達は数度に分け妙国寺に遺体を運び埋葬しました。



 新政府軍は吉田を捕らえ尋問しますが政治的な背景もなく自らの判断で行ったことであり、今回だけはと釈放されました。



 後に正式に埋葬が許可されて自刃場所の飯盛山に改葬されたのは明治23年になってからです。





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妙国寺山門(左)と境内(右)



                  

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白虎隊士自刃仮埋葬地の碑(左)と慰霊碑(右)
                  



福島県会津若松市一箕町八幡墓料78

| 幕末・明治維新 | 09:35 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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