烏鷺光一の「囲碁と歴史」

2012年11月 | ARCHIVE-SELECT | 2013年01月

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聖ザビエル記念公園

 フランシスコ・サビエルは天文十八年(1549)に、キリスト教を布教するために鹿児島に上陸し、当初、京都へ向かいますが戦乱で乱れていたため、天文二十年(1551)に政情の安定している山口を訪れ、大内義隆に布教の許しを願いでました。義隆は許可を与え、廃寺であった大道寺を宿舎として与えます。サビエルは毎日、大道寺から街に出て布教に当たっていたといわれています。したがって大道寺は日本で最初の教会と言われています。



 聖ザビエル記念公園は、大道寺のあった場所に造られた公園です。



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聖ザビエル記念公園




 ザビエルは山口を去った後を弟子トルレスらに託しました。その後大内義隆は陶晴賢の謀反により自害しました。陶晴賢は大友義鎮の弟をむかえ大内義長と名のらせて大内家を継がせます。
 公園には、大内義長がトルレスに寺院建立の許可を与えた書状を銅板にしてつくられた碑がありました。


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大内義長の裁許状の石碑




 公園の中央には銅でできたザビエルの肖像をはめ込んだ記念碑があります。大正15年に建立されましたが、第二次世界大戦で銅板が供出されます。


 そして、昭和24年にザビエルが訪れて400年目を記念して再建されています。 


 公園は住宅地の中にあり取材時も子供たちの遊び場となっていました。ちなみに、ザビエル記念聖堂は全く別の場所にあります。




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聖サビエル記念碑




 山口県山口市金古曽町



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| 戦国時代 | 21:14 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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八坂神社と築山神社

 龍福寺の北側に、八坂神社と築山神社という二つの神社が並んで建っています。
 八坂神社は大内24代弘世が、山口を京都を模した都市として整備した際、応安2年(1369)に京都の八坂神社を勧請した神社です。
 本殿は30代義興が永正16年(1519年)に再建したもので、室町時代の様式をよく伝え、重要文化財に指定されています。
 なお、現在地に移転してきたのは江戸時代末のことだそうです。

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八幡神社の鳥居と本殿



 八坂神社の隣りには築山神社があります。大内義隆を祭神として祀った神社で毛利輝元による創建です。現在地へは明治2年に移転しています。
 両神社のある場所は、もとは大内氏の別邸「築山館」があった場所です。フランシスコ・ザビエルが大内義隆に拝謁したのは大内館(現:龍福寺)ではなく、こちらではという説もあります。

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築山館跡の碑(左)と築山神社(右)



 境内には様々な碑が建立されていました。大内氏30代当主・大内義興の顕彰碑や、江戸時代に燃えてしまいましたが、大内氏時代から名木として知られた「大内氏月見之松記念」の石碑もあります。



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大内義興の顕彰碑(左)と「大内氏月見之松記念」の石碑(右)



 室町時代の連歌師・宗祇が築山館を訪れた際に詠んだ歌碑が建立されています。

     「池はうみ こずゑは夏の 深山かな 」

 歌に読まれたとおりの豪華な庭園があったそうですが、現在は埋め立てられ僅かな遺構を残すのみとなっています。

 また、「箏曲組歌発祥の地」の碑も建立されています。

 大内義隆は天文年間(1532~54)に, 京から迎えた北の方を慰めるために, しばしば都の公卿殿上人や楽人などを招いて詩歌管弦の遊びを催しますが, ある時その席で7人の若い殿上人が一首ずつ歌を作り, つぎつぎに箏で弾き歌いすることが行われました。

 これが箏の組歌の起源であり, 歌の組合せなので組歌と言うそうです。


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宗祇の句碑(左)と「箏曲組歌発祥の地」の碑(右)




  山口県山口市大字上竪小路100



  

| 歴史あれこれ | 15:43 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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大内氏館跡

 大内氏が山口に拠点を移した際に館を建て、政務を行ったのが現在、龍福寺がある場所です。


 昭和34年に国の史跡に指定され、現在も発掘調査中ですが、南西部の庭園にあった大きなひょうたん池や、井戸、かまど跡も発掘され復元されています。



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龍福寺にある大内氏館跡への案内板(左)と公園として整備された館跡(右)



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井戸の跡(左)と建物基壇(右)



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  石組かまど跡(左)と現在の発掘現場(右)             




  山口県山口市大殿大路119 龍福寺

| 室町時代 | 20:23 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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龍福寺

 山口市大殿大路にある龍福寺は、建永年間(1206~1207)に白石の地に、18代大内満盛が創建した臨済宗の宝珠山瑞雲寺が始まりとされ、その後、曹洞宗に改めたときに瑞雲山龍福寺と改称しています。
 天文20年(1551)に大内家重臣・陶晴賢の謀反により、31代大内義隆が自刃しした際に、同寺も戦火に巻き込まれ焼失しますが、弘治3年(1557)義隆の七回忌に際して、毛利元就の嫡男・毛利隆元が、同じく焼失していた大内氏の館跡であった現在地に再建し、義隆の菩提寺としました。



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龍福寺入口の碑と山門




 龍福寺は明治14年(1881)、禅堂と山門を残して全焼したことから、明治16年(1883)、大内氏の氏寺である山口市大内御堀の氷上山興隆寺にあった釈迦堂を移設したのが現在の本堂です。室町時代の建物で重要文化財に指定されています。


 龍福寺の前の参道には「ザビエル布教の井戸」が再現されていました。


 天文19年(1550)にフランシスコ・ザビエルは大内義隆に接見し、キリスト教布教の許可を得ます。


 そして大内屋敷の近くの大殿大路にあった井戸の傍らで布教を開始したと伝えられています。              


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山門前に復元されたザビエル布教の井戸と龍福寺境内




 龍福寺境内には大内義隆の供養塔があります。建立は平成12年と新しく、義隆450回大遠忌にちなみ、長門市大寧寺にある義隆のお墓を原寸大に複製したものだそうです。



 境内には、他に義隆辞世の句碑があります。


  「討つ者も 討たるる者も 諸ともに 如露亦如電 応作如是観」


 討った者も、討たれる自分も、どちらの命も、露のように儚く、雷のように短いという意味だそうです。事実、義隆を自刃に追い込んだ陶晴賢も、その4年後には毛利元就との戦いに敗れて自害しています。   



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大内義隆の供養塔と辞世の句碑



                      



  山口市大殿大路119番地



 

| 戦国時代 | 10:15 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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豊栄神社と野田神社

 山口市天花1丁目に豊栄神社と野田神社という二つの神社が並んで建っています。



 豊栄神社は毛利元就を祀る神社です。孫の輝元が萩へ城を移した際に元就の霊を春日神社内に祀ったのを始まりで、その後、神霊は萩城内に移さますが、明治2年に山口に移されました。明治天皇より「豊栄」の神号を賜り、山口に移された2年後に現在地に社殿を造営、明治15年には別格官幣社に列せられています。



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両神社共通の神社(左)  



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豊栄神社



 野田神社は、明治維新の時の藩主・毛利敬親が祭神で、その子、毛利元徳が配祀神として祀られています。敬親は明治4年に亡くなり豊栄神社別殿の野田神社に祀られました。明治9年に野田神社は県社となり、大正4年には別格官幣社に列せられます。元徳は明治29年に亡くなり野田神社の摂社芳宜園神社に祀られますが、昭和11年に野田神社に合祀されました。



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野田神社  



 豊栄神社境内に「百万一心」の碑があります。かつての毛利家の居城・吉田郡山城に「百万一心」と刻まれた石があったそうで毛利元就が築城の際の人柱の代わりに作らせたと言われています。オリジナルの石は現存していませんが江戸時代に藩士が書き写していた記録を基に、明治15年に復元し元就を祀る豊栄神社へ奉納しました。


 意味は「百万」の字を分解すると、「一日一力」と読めるため、「日を一にし力を一にし心を一にす」つまり「皆で力を合わせれば、何事も成し得る」という意味だそうです。                        



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 野田神社の絵馬堂(左)と百万一心の碑(右)




    山口県山口市天花1丁目1-2



| 歴史あれこれ | 21:46 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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雪舟ゆかり雲谷庵跡

 画聖として知られる雪舟は応永27年(1420)に備中赤浜(現岡山県総社市)に生まれ、京都の相国寺で禅と絵を学びます。


 40歳の頃に大内氏の招きで山口に移り、48歳の応仁元年(1467)には遣明船に乗り三年間、中国で修行しています。


 雲谷庵は山口で雪舟がアトリエとして使っていた場所です。現在の建物は昭和17年に跡地に復元された建物だそうです。



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入口の石畳と雲谷庵の外観



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外観と内部の様子





 山口県山口市天花一丁目12-10

| 平安時代 | 10:32 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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枕流亭 明治維新ゆかりの建物

 香山公園の一角に、明治維新と大きく関わりのある「枕流亭」という建物が移築されていました。現地の案内板には次のとおり説明されています。


 この建物はもと山口の旧家安部家の離れで、市内道場門前の一の坂川の流れにのぞむ河畔にあったので「枕流亭」と呼ばれた。


 幕末、七卿落ち、蛤御門の戦などで薩長両藩に大きな溝ができたが、勤王の大義と討幕の目的のためには、両藩が離反していることは大きな支障であるとして、土佐の坂本龍馬らの奔走によって、両藩連合の話し合いが進められた。ここにおいて、慶応三年(1867)九月、薩摩の藩士西郷吉之助(隆盛)、大久保一蔵(利通)、小松帯刀、大山格之助らが山口に来訪した。


 これに対し、長州藩は木戸準一郎(孝允)、広沢真臣、伊藤俊輔(博文)、品川弥二郎らが迎え、枕流亭の階上において薩長連合の密議をかさね、連合討幕軍の結成を誓ったのである。


 実にこの枕流亭は、明治維新のあけぼのをつくった記念すべき建物である。枕流亭は、その後二、三度移築されたが、昭和三十五年ここに移された。




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枕流亭の外観と1階の展示室




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2階の部屋と円形の窓


| 幕末・明治維新 | 19:30 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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多岐技会忘年囲碁会

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会場風景
 
 本日は多岐技会の忘年囲碁会でした。一回ずつペアを変えるベア碁を四回戦打つという方式です。普段ペア碁は打たないので新鮮な気持ちでした。この前ペア碁を打ったのは去年のこのときなので一年ぶりのことでした。

| 囲碁あれこれ | 18:30 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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瑠璃光寺と香山墓地(毛利家墓所)

  山口市香山町にある瑠璃光寺は、大内氏の重臣・陶氏7代当主弘房が応仁の乱で戦死し、夫人が菩提を弔うために、文明3年(1471)に現在の山口市仁保高野に建立されました。


 現在の場所には室町時代に大内義弘(大内弘世の息子)が建立した香積寺があり、室町幕府3代将軍・足利義満は幕府権力の確立のため有力守護大名に対して争いを仕掛け弱体化を図りますが、義弘も義満との戦いに敗れ戦死したため、弔うために嘉吉2年(1442)には国宝五重塔が造営されています。


 その後、江戸幕府が成立し毛利氏が萩に拠点を移すと、慶長9年(1604)に香積寺も合わせて移転し、元禄3年(1690)に瑠璃光寺が移転してきました。


 


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瑠璃光寺境内(左)と本堂(右)



 幕末に藩庁が萩から山口に移されると、それ以降の藩主の墓は山口に造られました。


 瑠璃光寺の隣りにある毛利家墓所「香山墓所」には、13代毛利敬親と夫人、14代元徳と夫人、15代元昭と夫人、さらに毛利本家歴代諸霊の墓の計7基と初代秀就の母周慶寺殿の墓があります。


 また、墓所手前の石畳は、手を叩いたり、足を踏み鳴らすと反響して美しい音がするため「うぐいす張りの石畳」と呼ばれています。



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うぐいす張りの石畳(左)と毛利家墓所(右)



 13代毛利敬親は明治維新の際の藩主ですが、同時期に活躍した福井藩主・松平春嶽、宇和島藩主・伊達宗城 、土佐藩主・山内容堂、薩摩藩主・島津斉彬は幕末の四賢侯と呼ばれているのに対し、明治維新を成し遂げた長州藩の藩主・敬親については名前すら知らない人も多いのではないでしょうか。


 敬親は家臣の提言することには常に「そうせい」と答えてきたそうで、世間は密かに、「そうせい候」と、呼んでいたそうです。


 そこで、部下に任せきりで何もしない藩主だったと評する人もいますが、人を見る目は確かで身分にとらわれず常に有能な人物を手元に置き、有能な家臣がさんざん話し合った結果に対しては、どういう内容でも反対をしないという寛大さを持った名君であったと評する人もいます。


 木戸孝允は慶応4年のときに、すでに版籍奉還について敬親に相談し了解を得ていました。ただ、敬親は成功のためには時機を見計らうことが大切と助言し、恐ろしく聡明な藩主であると感じ取ったそうです。


 明治2年に版籍奉還が行われると家督を息子に譲り隠居。明治4年に亡くなります。享年53歳。


 墓所の近くには明治天皇が命じ、敬親の偉業を後世に伝える「勅撰銅碑」が建立されています。



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毛利敬親の墓(左)と、明治天皇の命で建立された「勅撰銅碑」

| 江戸時代 | 10:46 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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香山公園

 山口市で最も有名な観光名所とも言える香山公園です。


 瑠璃光寺の境内を公園として整備したもので国宝の五重塔を中心にした公園で、桜や梅の名所としても有名です。


 園内には倒幕の密議が行われた露山堂や枕流亭なども点在しています。



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香山公園の碑と国宝瑠璃光寺五重塔




 山口は室町時代に、ここを拠点に九州にかけて支配した大内氏が、京都に模して整備したため「西の京」と呼ばれました。


 大内氏は外国との貿易で富を蓄え、多くの文化人を庇護したため山口は大いに繁栄し、京都の北山文化や東山文化と大陸文化が融合した「大内文化」と呼ばれる独自の文化が生まれます。画聖・雪舟も山口に招かれ大内氏の庇護のもと、数々の作品を生み出しています。


 瑠璃光寺五重塔は大内文化を代表する建物で、室町時代、嘉吉2年(1442)頃の建立だそうです。


 瑠璃光寺香山公園には現在も多くの観光客が訪れ賑わっていますが、様々な文化人も訪れ往時を偲んでいます。明治から昭和にかけて活躍した歌人・若山牧水が五重塔をみて詠んだ歌の句碑もありました。




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五重塔(左)と雪舟の像(中)と若山牧水の歌碑(右)




 公園内の瑠璃光寺の前あたりに馬に跨がる大内弘世の像があります。


 大内弘世は大内家9代当主で、南北朝時代に当初は室町幕府側の北朝に属していましたが一族内の対立により南朝に帰順し、南朝から周防守護職に任じられます。その後、長門にも進出し防長両国の守護となり勢力を拡大しました。


 後に、二代将軍足利義詮の説得により防長両国の守護を認めることを条件に北朝に帰順。南朝の勢力を駆逐した功績により石見守護にも任じられます。


 山口に拠点を移したのも大内弘世で、大内文化の基礎を築いた人物です。




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大内弘世の像



                   
                
山口県山口市香山町7-1

| 室町時代 | 10:02 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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