烏鷺光一の「囲碁と歴史」

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両国橋、赤穂浪士・大高源吾の句碑

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両国橋東詰め



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大高源吾の句碑(左)とその奥にある大山巌元帥書による「表中碑」(右)




 久しぶりに両国へやってきました。


 以前、訪れたときに両国橋の東詰の広場に日露戦争戦死者を慰霊する大山巌元帥書の表中碑があるのは見ていたのですが、その手前に赤穂浪士・大高源吾の句碑があることが分かり立ち寄ってみました。


 大高源吾は元赤穂藩士で大石内蔵助の腹心でした。茶道や俳諧にも親しみ、俳諧では芭蕉が亡くなった後の江戸俳壇の中心人物だった水間せん徳に学び、芭蕉の弟子であった室井其角とも親しかったそうです。


 討ち入りのため、江戸に潜伏した大高は町人の脇屋新兵衛と名乗り吉良邸へ出入りする茶人・山田宗遍に入門し12月14日に吉良邸で茶会があることを突き止めます。これにより討ち入り決行の日がきまりました。


 芝居では、討ち入り前日に吉良邸を探索していた大高は両国橋で知人の其角と出会い、ここで句を詠んだとされています。そのような理由で両国橋に句碑が建立されました。



 余談ですか大高源吾の子孫に、大高又次郎という人物がいます。幕末の人で林田藩士(姫路市)でしたが長州藩の吉田松陰門下と交流し、脱藩し尊王攘夷派の志士として活躍しています。


 しかし、元治元年(1864)に京都の池田屋にて新選組に襲撃され(池田屋事件)亡くなっています。



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