烏鷺光一の「囲碁と歴史」

2012年10月 | ARCHIVE-SELECT | 2012年12月

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松陰神社(山口県萩市)

 今週は吉田松陰が処刑された「伝馬町牢屋敷」を紹介しましたので、もう少し松陰に関して紹介します。


 今月、11月7日に島根県益田市で開催された「囲碁サミット」へ囲碁史会として参加させていただきましたが、良い機会と思い、益田に行く前に山口市内と萩市内に立ち寄りました。


 萩市は吉田松陰の出身地であり、その門人の高杉晋作や伊藤博文等、多くの幕末の志士を輩出した場所です。


 萩市には松陰を祀る「松陰神社」があります。境内には有名な「松下村塾」と松陰の実家が残されています。というより、それらの建物の隣に明治時代になり、松陰の霊を祀るために建立されたのが「松陰神社」なのです。


 最初は明治23年に松陰の実家の杉家が小さな祠を建てますが、明治40年に松下村塾出身の伊藤博文などが中心となって活動し正式な神社となりました。



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松陰神社



 境内にはたくさんの碑が建っています。松陰が死を覚悟し故郷の両親に送った書簡「永訣の書」の中で詠まれた詩もあります。松陰直筆の文字を刻んだものだそうです。



        親思う こころにまさる 親ごころ

            きょうの音づれ 何ときくらん



 また、明治維新100年を記念して昭和43年に建立された「明治維新胎動之地」碑の揮毫は、当時の総理大臣・佐藤栄作によるものです。


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松陰直筆の碑(左)と「明治維新胎動之地」碑(右)




   住所:山口県萩市椿東1537



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| 幕末・明治維新 | 05:52 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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大安楽寺 伝馬町処刑場跡

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大安楽寺本堂(左)と塀にある「江戸伝馬町処刑場」の碑



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処刑場跡に設置された延命地蔵菩薩



 小伝馬町の「十思公園」が江戸時代の伝馬町牢屋敷であると紹介しましたが、道向かいにある「大安楽寺」も、その敷地でした。しかも、処刑場の跡地だそうです。


 伝馬町牢屋敷は明治8年に市ヶ谷監獄が出来たのを機に廃止されます。しかし、場所が場所なために住宅となることはなく、ここで処刑された人々の霊を慰めるために寺が建立されました。その費用は大倉財閥の大倉喜八郎と、安田財閥の安田善治郎が中心となって寄進したそうです。


 なお、境内にある延命地蔵菩薩の辺りが処刑場だったそうで、吉田松陰や橋本左内も、ここで処刑されています。



     中央区日本橋小伝馬町3-5



| 江戸時代 | 05:44 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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「松陰終焉の地」碑 十思公園

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十思公園と園内の「石町時の鐘」


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「松陰終焉の地」碑




 東京メトロ小伝馬町駅の近くにある「十思公園」は、江戸時代には「伝馬町牢屋敷」があった場所です。

 2618坪という広大な土地に旗本達を収監する揚座敷、御家人や僧侶等を収監する揚屋、庶民を収監する大牢等、身分によって収監される場所が分かれていて、処刑場も兼ね備えていたそうです。

 蛮社の獄により永牢となった高野長英や安政の大獄により長州から移送された吉田松陰も収監されました。

 吉田松陰は、安政6年(1859)に、この地で斬首されました。老中暗殺計画を告白したのが理由だったそうです。死に際しては実に堂々とした振る舞いで胸を打たれたと以前、平河天神近くの屋敷跡を紹介した死刑を執行した山田浅右衛門は回顧しています。

 公園内には「松陰終焉之地」碑を初めいくつかの松陰関係の碑が建立されています。

 この他、公園内には「石町時の鐘」が設置されています。江戸時代に時を知らせていた鐘で石町(現在の日本橋室町)にあったものを移設したそうです。(櫓はコンクリートに変わりましたが) 石町が江戸で最も古く時の鐘が設置された場所だったそうですが、火災等で破損したため、現在の鐘は宝永8年(1711)に改鋳さたものだそうです。

 伝馬町老屋敷では死刑執行を行う時に「時の鐘」を合図としていたそうで、罪人の余命を想い、ワザと鳴らすのを遅らせたこともあったと伝えられています。松陰も最後にこの鐘の音を聞いたのでしょうか。


   日本橋小伝馬町5-2

| 幕末・明治維新 | 06:31 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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水天宮

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拝殿(左)と入口の碑(右)
                                      



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狛犬(左)と子宝犬(右)



 



 水天宮は福岡県久留米市に総本山があり、日本各地にある神社ですが、東京都内では中央区日本橋蛎殻町にあります。



 地下鉄の駅名にもなっていますので都内でも有名な神社の一つです。



 江戸時代に水天宮を厚く信仰した久留米藩歴代藩主の有馬家により三田の上屋敷に分霊を勧請したのが始まりで、庶民の参拝希望を受けて毎月5の日に一般開放され、明治以降には下屋敷のあった現在地に移転しています。



 安産と子授けにご利益があると言われ多くの夫婦が参拝しています。



 境内に設置された「子宝犬」は自分の干支を撫でると子供が授かるといわれ、干支と犬の頭がたくさんの人々に撫でられ光り輝いていました。



 



    東京都中央区日本橋蛎殻町二丁目4番1号



| 東京散歩 | 00:41 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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西郷隆盛屋敷跡(日本橋小学校)

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西郷隆盛の屋敷跡である日本橋小学校




 日本橋人形町1丁目にある日本橋小学校には、かつて西郷隆盛の屋敷がありました。


 明治維新を成し遂げた西郷隆盛は、その後故郷の鹿児島へ帰りますが新政府の要請により上京し政府に参加。明治4年から6年までこの地に暮らしていました。


 この間、明治新政府は岩倉具視を全権大使とする使節団が海外を視察する中、西郷を中心とする留守政府が様々な制度改革を行っていました。


 しかし、いわゆる「征韓論」により海外から帰国した使節団のメンバーとの論争により西郷は政府を離脱し故郷の鹿児島へ帰ります。その後、西南戦争へ突入する訳ですが、この激動の時期を人形町で暮らしていました。




 日本橋小学校 : 東京都中央区日本橋人形町1丁目1番17号

| 明治・大正時代 | 09:15 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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谷崎潤一郎生誕の地

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生誕地と、それを示すプレート




 小説「細雪」「痴人の愛」等で知られる小説家・谷崎潤一郎は明治19年に日本橋区蛎殻町2丁目(現在の中央区日本橋人形町1丁目)で生まれました。


 生まれた場所は祖父の経営する谷崎活版所だったそうです。


 現在、跡地には記念のプレートが設置されています。




  日本橋人形町1-7ー10



| 明治・大正時代 | 06:28 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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蛎殻銀座跡(かきがらぎんざあと)

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蛎殻銀座跡
                   



 銀座といえば江戸時代に銀貨を製造したり通用銀貨の調査や銀地金の販売をしていたところです。


 江戸では慶長17年(1612)より現在の銀座2丁目あたりに置かれ、地名の由来にもなった事で知られています。


 銀座は幕府直営ではなく、御用達町人により運営されてきましが、寛政12年(1800)に「寛政の改革」の一環として一旦廃止されます。


 そして、同年に幕府直営に近い形で再開されますが、この時置かれた場所が蛎殻町(現在の人形町1丁目付近)であったため、人々から「蛎殻銀座」と呼ばれたそうです。
 「蛎殻銀座」は明治2年に新政府が造幣局を設置するまでの69年間存続していました。


 現在、跡地の案内板が人形町通りと甘酒横丁の交差点の歩道に設置されています。


| 江戸時代 | 06:29 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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大観音寺(人形町)

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参道(左)と本堂(右)
                       



地下鉄「人形町駅」の付近に「大観音寺」というお寺があります。



本尊の「鉄造観音菩薩」は元々鎌倉で北条政子が創建した新清水寺の本尊でしたが、寺が焼失した際に崩れてしまいます。



 江戸時代に鶴岡八幡宮前の鉄井から掘り起こされますが、明治時代になると神仏分離により廃棄されそうになります。しかし信仰する人々により鎌倉から移され大観音寺に本尊として祀られました。



  鎌倉時代製作の像はこの時代の関東の仏像の特徴をよく表した優秀な作品で、昭和47年に都指定有形文化財に指定されています。



 



     中央区日本橋人形町1-18-9





 



 



 

| 東京散歩 | 05:39 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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玄冶店(げんやだな)

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玄冶店(げんやだな)の碑




 日本橋人形町3丁目あたりは江戸時代には通称「玄冶店(げんやだな)」と呼ばれていました。


 幕府の医師であった岡本玄冶の拝領屋敷があったのが由来だそうです。玄冶は京都出身で上洛中であった三代将軍徳川家光に招かれ幕府の医師となっています。そして家光が大病を患ったときに治療にあたり名声を得ます。後に法眼から法印に叙せられています。
 拝領屋敷は、玄冶以降も明治に入り屋敷を奉還するまで子孫が暮らしています。また、土地の一部に借家を建てて庶民に貸していた事から、この一帯が「玄冶店」と呼ばれるようになりました。


 「玄冶店」は歌舞伎の舞台としても知られています。嘉永六年(1853)に中村座で初演された「与話情浮名横櫛」の「源氏店(玄冶店)の場」の一幕で、お富と切られ与三郎の情話の舞台となっています。昭和29年には歌手の春日八郎が物語を題材にした歌「お富さん」を歌い大ヒットしています。歌詞の中で「玄冶店」と歌われていて広く名を知られる事となりました。




 「玄冶店」の碑:日本橋人形町3丁目8

| 江戸時代 | 06:19 | comments:2 | trackbacks:0 | TOP↑

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寄席 人形町末広跡

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読売インフォメーションセンター本社と入口の「寄席 人形町末広跡」の碑



 



 日本橋人形町3丁目にある読売インフォメーションセンター本社ビル入口の足元に「寄席 人形町末広跡」と刻まれた碑があります。



 この場所は伝説の寄席と呼ばれる「人形町末広」があった場所です。



 「人形町末広」は慶応3年の創業で問屋や商店が立ち並ぶ人形町で従業員や家族達の娯楽として大いに賑わっていました。



 しかし、テレビ等の普及で徐々にお客が減少していく中、地主が不動産会社に土地を売却した事により立ち退きか買取を迫られ、昭和43年に閉館。103年の歴史に幕を閉じました。



                   
 中央区日本橋人形町3丁目9-1



| 東京散歩 | 06:58 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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