烏鷺光一の「囲碁と歴史」

2012年09月 | ARCHIVE-SELECT | 2012年11月

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泰明小学校

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泰明小学校校舎
                   



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島崎藤村と北村透谷の碑
                    



 



 数寄屋橋の跡地である数寄屋橋公園に隣接して建っている小学校は中央区立泰明小学校です。明治11年に創立した同学校は当初、レンガ造りの校舎でしたが関東大震災により全焼し、昭和4年に復興事業としてコンクリート造りの校舎として再建されます。



 昭和初期に建てられた蔦の絡まる校舎は正面玄関の門柱やアーチ状の窓等、様々な特徴を持ち、東京都の「歴史的建造物」や経済産業省の「近代産業遺産」に指定されています。
 卒業生には著名人も多く、詩人の島崎藤村と北村透谷の記念碑が玄関横にあります。



 先日、テレビを見ていたら女優の朝丘雪路も泰明小学校の出身で、画家の伊東深水を父に持つ雪路は超お嬢様で自宅から毎日、人力車で通学していたと語っていました。



 



   中央区銀座5丁目1-13





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| 東京散歩 | 06:00 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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数寄屋橋の碑

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数寄屋橋の碑



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碑の後ろにある岡本太郎作「若い時計台」



 銀座5丁目の数寄屋橋交差点付近にある「数寄屋橋公園」のところに、かつて江戸城の外濠に架かった数寄屋橋がありました。橋を渡ったところが数寄屋橋御門です。


 名前の由来は橋の外側に数奇屋風の建物が多く建ち、あたりを数奇屋町と呼んだのが始まりと言われています。


 大岡越前で有名な南町奉行所は橋を渡ってすぐ目の前(現有楽町駅)にありました。


 昭和4年には石造りの二連アーチに架け変わり、昭和27年にラジオドラマが放送され、その後テレビドラマ、映画と大ヒットした「君の名は」の舞台にもなり全国的にも知られるようになります。


 昭和33年に外濠が高速道路建設のため埋め立てられ橋も消滅しました。現在、橋のあったあたりは「数寄屋橋公園」として整備され、園内にかつて橋があった事を示す碑が建てられています。


 また、公園内には岡本太郎氏が制作した「若い時計台」が設置されています。昭和41年制作との事ですから大阪万博の太陽の塔より前の作品になります。



| 歴史あれこれ | 06:04 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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明治大学発祥の地

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「明治大学発祥の地」の碑
             
              
 銀座5丁目の数寄屋橋交差点の一角に「明治大学発祥の地」の碑があります。
 明治大学は明治14年(1881)にフランスの自由民権思想を学んだ若き法律家、岸本辰雄・宮城浩蔵・矢代操により設立された「明治法律学校」が起源です。
 設立にあたっては彼らのフランス留学仲間であり後に総理大臣となる西園寺公望が協力し、さらに旧鳥取藩主・池田輝知と、旧島原藩主・松平忠知が援助しています。
 これは、初代校長となった岸本辰雄が元鳥取藩士で鳥取藩の推薦により大学南校(現東大)に入学し法律の道に進むことになったというつながりからでしょう。
 ちなみに池田輝知の父で先代鳥取藩主・池田慶徳と松平忠知は、同じ水戸藩主・徳川斉昭を父とする異母兄弟で徳川親藩であるそれぞれの藩に養子に行っています。同じ兄弟に最後の徳川将軍・徳川慶喜がいます。(輝知の義弟、忠知の実兄)
 「明治法律学校」は数寄屋橋にあった旧松平忠知邸を校舎として開校しています。

| 明治・大正時代 | 06:20 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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有楽町

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有楽町マリオン
                



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有楽町由来板(左)と「有楽町で逢いましょう」の歌碑



 



 



 有楽町2丁目の有楽町マリオンのからくり時計の前に有楽町の町名由来板があります。



 有楽町の由来は、織田信長の弟で千利休に茶を学び、利休十哲の一人に数えられる、織田有楽斎(おだうらくさい)[長益]の屋敷がこの辺にあったからだそうです。



 有楽斎は関ヶ原の戦いでは東軍の徳川方として戦っていますが、大阪冬の陣では豊臣秀頼を支える穏健派の中心人物として家康との和平交渉にあたります。その後、大阪では徳川との再戦を唱える強硬派が勢力を増し、大阪夏の陣の前には、それを抑えられなくなった有楽斎は大阪を出て京都で隠棲し茶道に専念しました。有楽斎が興した茶道有楽流は現在も子孫により継承されています。



 有楽町マリオンの前には他に、昭和32年にフランク永井氏が歌って大ヒットした「有楽町で逢いましょう」の歌碑がありました。



 



 有楽町マリオン:千代田区有楽町2-5-1



| 東京散歩 | 08:02 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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三つの石川啄木の碑

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銀座の石川啄木の碑
            



 銀座6丁目の朝日ビルの前に石川啄木の碑があります。人生の大半を放浪の生活で過ごした石川啄木は明治45年に27歳という若さでこの世を去りますが、その前の3年間朝日新聞社に校生係として勤めていました。


 勤務先であった現在の銀座六丁目の朝日ビル前の歩道に、ここで詠まれた歌碑が設置されています。


 「京橋の滝山町の新聞社 灯ともる頃のいそがしさかな」 


 歌集「一握の砂」に収められた歌で、滝山町とは当時の地名です。




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上野駅15番ホームにある啄木の碑(左)と上野駅前商店街の啄木の碑(右)




 銀座の啄木の碑を見た後、移動のために上野駅構内を歩いていたら偶然ホームに啄木の歌碑を見つけました。


 いつも目の前を歩いていたのですが全く気にもとめていませんでした。銀座での取材直後だったため目に止まったのでしょう。碑のある15番ホームは啄木のふるさと東北へと向かう東北本線の発着ホームですから納得です。さらに調べてみると、同じ歌の歌碑がもう一つ上野駅前商店街にあることが分かり後日取材に行きました。




 「ふるさとの 訛なつかし 停車場の 人ごみの中に そを聴きにゆく」


 上野駅で詠まれ「一握の砂」に収められた歌ですが、当時、上野駅は北海道や東北から上京する際に乗った夜行列車の終着駅で東京の北の玄関口でした。


 ふるさとを遠く離れた啄木の郷愁の想いが込められた代表作です。




 銀座の碑:中央区銀座6丁目6-7 朝日ビル前



 上野駅の碑:上野駅15番ホーム車止付近



 上野駅前商店街の碑:台東区上野6-12-10 商店街入口



| 明治・大正時代 | 10:07 | comments:1 | trackbacks:0 | TOP↑

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日比谷のゴジラ像

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ゴジラ像
             
           
 日比谷の「日比谷シャンテ」前の広場にゴジラの像が設置されています。
 日比谷シャンテの入っている東宝日比谷ビルの10~12階が東宝の本社で、東宝が生んだ大スターともいうべきゴジラの像が設置されたのでしょう。
 映画「ゴジラ」の第1作が製作されたのが昭和29年のことで、同年に発生したビキニ島核実験による第五福竜丸の被ばく事件がきっかけだったそうです。
 「ゴジラ」といえば映画で毎回、本物そっくりに再現された実際にある建物を破壊するシーンが有名ですが、1作目ではゴジラ像から500mくらい離れた場所にある銀座の和光ビルや松坂屋を破壊しています。しかし、縁起でもないとクレームがつき、和光ビルではその後2年間、東宝によるビルの撮影を拒否しています。
 その後の作品では、ゴジラに破壊された建物は業績好調になるという話が広まり、逆に色々な建物の所有者側から作品に登場させ破壊してほしいという依頼があったそうです。
 現在は、平成16年に上映された28作目「ゴジラ FINAL WARS」がシリーズ最終作として、その後作成されていませんが、またいつか復活するかもしれません。
 ちなみに、日比谷のゴジラ像の台座には1作目ラストの名台詞「このゴジラが最後の一匹だとは思えない」と刻まれています。
               
   ゴジラ像:千代田区有楽町1-2-2 日比谷シャンテ合歓の広場

| 東京散歩 | 05:56 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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帝国ホテル 日本棋院設立の舞台

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帝国ホテル本館
        
            
 帝国ホテルは日本を代表する高級ホテルの一つです。
 井上馨の要請により渋沢栄一と大倉喜八郎により建設され、明治23年に開業しています。
 経営は渋沢栄一、大倉喜八郎、息子の大倉喜七郎と移りかわりますが、第二次世界大戦後、喜七郎が公職追放となり財閥解体も行われたため経営権を手放しています。
 囲碁界においては、ここは大きな変革の舞台となりました。
 大正12年に発生した関東大震災を契機に明治に入り分裂し対立していた囲碁界が再び集結しようという気運が高まります。
 この時、大きな役割を果たしたのが囲碁界の有力後援者であった大倉喜七郎で、彼が経営していた帝国ホテルに関係者が集まり、大正13年3月に「碁界合同問題基礎協議午餐会」が開かれます。話し合いは何度かもたれ、ついに「日本棋院」が設立されます。つまり、帝国ホテルは現在の囲碁界が形作られた記念すべき場所なのです。
 当時の建物は昭和43年に取り壊されますが、現在の本館の場所に建っていました。そして、当時の本館の玄関部分が愛知県犬山市の明治村に移築されているそうです。
                
  帝国ホテル:千代田区内幸町1-1-1

| 日本棋院 | 05:40 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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鹿鳴館跡

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鹿鳴館跡のプレートとNBF日比谷ビル



 日比谷通り沿いで日比谷公園の向い側にあるNBF日比谷ビル(旧大和生命ビル)は、明治時代にあった鹿鳴館の跡地です。

 鹿鳴館は明治16年に建築された煉瓦造りの西洋式の建物で、当時の外相・井上薫の発案で不平等条約改正のため社交場として外国人を招き、毎晩、舞踏会が開かれていました。

 不平等条約の改定内容について反対の世論が巻き起こると井上薫は失脚し、鹿鳴館も明治27年には華族会館に払い下げられ、昭和2年に大和生命に売却。昭和15年に解体されています。


  千代田区内幸町1-1

| 明治・大正時代 | 05:26 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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日枝神社の大碁盤

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日枝神社境内。当日は結婚式のため赤い絨毯が敷かれていました。




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境内に設置された大碁盤



 久しぶりに永田町の日枝神社にやってきました。


 昨年12月に紹介したのですが、時期が合わなくて七五三で行われる「碁盤の儀」を一度見たいと思い出向きました。


 宇宙を表す碁盤の上から飛び降りしっかり大地の上に立つ。子供たちの健やかな成長を願った儀式は皇室でもしっかり受け継がれています。


 当日も、たくさんの親子が訪れ碁盤の上に立つわが子を写真におさめていました。


 碁盤は毎年、9月1日から11月30日まで境内に設置されているそうです。




  日枝神社:千代田区永田町2丁目10-5



| 囲碁のある風景 | 06:27 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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細川家大名庭園(新江戸川公園)

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新江戸川公園入口と松声閣



                          



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庭園の様子



                       



             



 文京区目白台の永青文庫に行ったあと、隣接している新江戸川公園を散策しました。



 この一帯は幕末には細川家の下屋敷となっていて明治以降は細川家の本宅として使われていたそうです。



 1960年に都が購入し公園を開園し、その後文京区に移管されています。



 江戸時代の大名屋敷の回遊式泉水庭園を無料で楽しむ事ができます。



 今回は永青文庫から入りましたが、正式な入口横には松声閣という大正時代に建てられた建物がありますが、現在は老朽化のため立ち入り禁止となっています。



                



 住所:東京都文京区目白台1-1



    (開園時間がありますので事前に調べてください)



| 東京散歩 | 10:21 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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