烏鷺光一の「囲碁と歴史」

2012年07月 | ARCHIVE-SELECT | 2012年09月

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新橋駅

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新橋駅日比谷口(左)とSL広場(右)




 取材場所へ行くために新橋駅で降車しました。



 新橋駅は明治5年に横浜駅との間に開通した、我国初の鉄道の起点駅でした。しかし、初代駅舎のあった場所は200mほど離れた場所にあり、現在の駅は明治42年に開業した烏森駅が大正3年に改称されたものだそうです。



 日比谷口前の広場は通称「SL広場」と呼ばれC11型蒸気機関車が設置されています。ここでテレビ局がサラリーマンやOLへの街頭インタビューを行うことが多く、テレビでもお馴染みの場所です。



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| 東京散歩 | 06:24 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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多岐技会

 本日、多岐技会に参加してきました。



 ここのところ負け込んでいたので、勝ち越す事ができて一安心です。



 今回は、生徒さんもともに参加しました。生徒さん二人は初参加。けっこうたくさん石を置くことが多かったようですが、それでも満足の内容だったようです。久しぶりの真剣勝負で私も楽しかったです。

| 囲碁あれこれ | 19:54 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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八重洲の語源、ヤン・ヨーステンの記念碑

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ヤン・ヨーステンの記念碑




 東京駅東側一帯を八重洲町といいますが、その地名はオランダ人ヤン・ヨーステンに由来しています。


 ヤン・ヨーステンは航海士として1600年にオランダ商船リーフデ号でイギリス人のウィリアム・アダムス(三浦按針)とともに日本へやってきます。


 その後、徳川家康に仕え現在の八重洲に屋敷を与えられ住んでいました。


 やがて、東南アジア方面への朱印貿易を行いながら本国への帰国を検討しますがジャカルタでの交渉に失敗し日本へ帰る途中に船が座礁し亡くなっています。


 東京駅前の八重洲通りと中央通りとの交差点付近の中央分離帯に記念碑が設置されています。



                        



 ヤン・ヨーステン記念碑:中央区京橋1丁目1-6付近



                   八重洲通りの中央分離帯





| 戦国時代 | 08:59 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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歌川広重住居跡

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案内板



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旧居跡



 浮世絵師の歌川広重(1797~1858)は、江戸常火消しの同心・安藤家の出身で当初、家督を継ぎますが幼い頃から絵が好きで、浮世絵師歌川豊広の門人となり歌川広重を名乗ります。また、本名から安藤広重とも呼ばれています。


 代表作は「東海道五十三次」で風景画家として名声を得て、その絵はゴッホ等、西洋の画家達にも大きな影響を与えたそうです。


 中央区京橋1丁目には、嘉永二年(1849)から亡くなるまで、およそ10年間、広重が晩年を過ごした住居跡の案内板が設置されています。




 歌川広重住居跡 :中央区京橋1丁目9番



| 江戸時代 | 06:59 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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秤座跡

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「秤座跡」の碑
                        
                
 日本橋3丁目のビルの谷間に「秤座跡」と刻まれた碑があります。
 「秤座」とは,江戸幕府の認可を受けて全国の秤(はかり)の基準を統一する目的で、秤の製造、販売、、検査を行った御用商人の事業所でした。
 当初は江戸の守随(しゅずい)家と京都の神(じん)家が、それぞれ東西を受け持っていました。守随家は、甲斐の武田家に仕え、金の正確な測量を行っていましたが、家康が江戸に入府すると江戸に移って関八州での権利を得ています。
 後に守随・神家の間に対立が起こり幕府の裁定で守随家が権利を独占する事となります。秤座は、明治9年に度量衡取締条例制定により廃止されますが、守随家は現在も産業用計量機器メーカー「株式会社守随本店」(本社名古屋)として営業を続けています。
 江戸の秤座は当初、京橋あたりにありましたが、天保13年に日本橋に移転しています。

  秤座跡の碑 日本橋3-7

| 江戸時代 | 06:14 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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銀行発祥の地~第一国立銀行跡

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みずほ銀行兜町支店
                                    



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壁面に設置されたプレートと本店の変遷を説明した説明板




            
 証券業界、金融業界の中心地である日本橋兜町にある、みずほ銀行兜町支店の壁に「銀行発祥の地」のプレートが設置されています。この場所は、わが国初の銀行「第一国立銀行」のあった場所です。
 日本資本主義の父と呼ばれる渋沢栄一は徳川慶喜に仕えた幕臣でしたが、大隈重信の説得により明治2年に大蔵省へ入省します。ここで取り組んだ業務の一つが銀行の設立です。
 しかし、栄一は国の予算編成を巡り、大久保利通や大隈重信と対立し明治6年に退官し、やがて、彼の主導で設立された「第一国立銀行」の頭取に就任しました。頭取は40年以上続けましたが、この間、様々な会社・団体の設立に関わり日本の近代化に大きく貢献しています。
 第一国立銀行は三井組、小野組が中核となり設立されたわが国初の銀行で、日本銀行が設立される前は紙幣の発券も行っていました。銀行はその後、合併を繰り返し現在はみずほ銀行となっています。兜町にあった初代本店は三井組が建設した和洋折衷の五階建ての建物で「三井組ハウス」と呼ばれていたそうです。当時の建物が「銀行発祥の地」のプレートに描かれていますし、銀行の壁にも歴代本店の写真が掲示されています。
                               
  みずほ銀行兜町支店 日本橋兜町4-3 

| 明治・大正時代 | 09:34 | comments:1 | trackbacks:0 | TOP↑

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日証館~渋沢栄一邸跡

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「日証館」 隣の木が生えている所が兜神社
           
              
 日本橋兜町の兜神社の隣で、東京証券取引所の前に、「日証館」という建物があります。
 日本橋川沿いに建つ、大きなビルは昭和3年に東証の前身である東京株式取引所の附属建物として竣工し、現在も中小証券会社のための賃貸ビルとして現役で活躍中です。
 ビルが建つ以前は、この地に日本資本主義の父と呼ばれる渋沢栄一の邸宅があったそうです。
 栄一の屋敷は東京駅や日本銀行本店の設計で知られる辰野金吾によって設計された洋館だったそうで、近くには栄一が頭取を勤めた、わが国初の銀行「第一国立銀行」があり、まさしく日本の金融業界の中心地でもありました。
           
日証館(旧東京株式取引所貸ビルディング・)
1928(昭和3)年竣工
東京都中央区日本橋兜町1 -10

| 明治・大正時代 | 06:07 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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証券業界の守り神「兜神社」

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兜神社境内




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社殿と境内にある兜岩




 東京証券取引所のある日本橋兜町は日本金融の中心地ですが、東証の斜め前に、この地の守り神である兜神社があります。



 境内には兜町の由来となった。兜岩があります。兜岩は1050年に前九年の役で東征する源義家がこの岩に戦勝を願掛けしたとも、平将門を討った藤原秀郷が、首を京都へ運ぶ途中、この地に将門の兜を埋めて塚を作ったなど諸説の由来があります。



 神社が出来たのは明治以降で、東証の前身である東京株式取引所が設立されてから証券業界の厚い信仰を集めることとなりました。



 しかし、現在の神社は訪れてみると、とても小さな神社でした。しかも上を首都高速が通っていて、その敷地内に橋脚が建っています。証券業界の守り神というイメージからすると意外な建物ですが、東京らしいとも言えるかもしれません。



                                                


                     場所:中央区日本橋兜町1-12

| 平安時代 | 06:27 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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郵便発祥の地~日本橋郵便局

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日本橋郵便局



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「郵便発祥の地」のプレート(左)と前島密の胸像(右) 



 江戸時代の郵便は飛脚により行われていましたが、明治に入り前島密の主導により近代的な郵便制度が整備されました。


 中央区日本橋の日本橋郵便局の地には、明治4年に郵便事業を束ねる役所「駅逓司」と「東京郵便役所」が設置されます。


 現在の建物には、正面入り口に発祥の地のプレートが埋め込まれ、通用口には前島密の胸像が設置されています。




日本橋郵便局  東京都中央区日本橋1-18-1



| 明治・大正時代 | 06:48 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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三浦按針屋敷跡

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三浦按針屋敷跡の碑
            
                
 イギリス人航海士ウィリアム・アダムスは極東との交易を目指すオランダ商船の航海士でしたが、1600年に乗船していたリーフデ号が漂流し日本へ漂着します。
 当時の西洋ではイギリス・オランダの新教国(プロテスタント)とスペイン・ポルトガル等の旧教国(カトリック)が対立していたため日本で布教活動をしていたイエズス会は、彼らを海賊として処刑するように日本へ要求します。
 当時の日本は二年前に豊臣秀吉が亡くなり、五大老首座である徳川家康が実権を掌握し始めている時期で、対応を任された家康は、アダムスと接見し誤解を解き、イエズス会の要求を黙殺します。
 家康はアダムスを江戸に招き、俸禄を与え外国使節団との交渉時の通訳や助言を求めたりしました。
 アダムスは、船大工の経験もあり、西洋式の大型帆船の建造も行いました。家康は、この功績に対しアダムスを旗本として取立て相模国辺見(現在の横須賀)へ領地を与えます。そして「三浦按針」という日本名を与えました。三浦は領地の三浦半島からとり、按針は水先案内人の意味だそうです。
 家康から絶大な信頼を得ていた按針ですが、家康の死後、江戸幕府は鎖国体制をとったため秀忠、家光からは警戒され不遇な立場のまま1620年に57歳で亡くなりました。
 中央区日本橋室町には按針が住んでいた屋敷跡の碑があります。また、昭和初期までこのあたりは按針町と呼ばれていたそうです。



 三浦按針屋敷跡  中央区日本橋室町1-10



| 江戸時代 | 07:11 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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