烏鷺光一の「囲碁と歴史」

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常盤橋と渋沢栄一像(常盤橋公園)

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常盤橋公園の渋沢栄一像
                      


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常盤橋
             
                 
 千代田区大手町と中央区日本橋本石町の境界である日本橋川に架かる常盤橋は、家康が江戸に入府する以前からあった橋で、江戸城が整備されると橋詰めに門が設置され江戸城外堀の入り口となります。常盤橋門は、浅草・千住を経由する奥州街道への出入り口でした。
 江戸時代の常盤橋は木製でしたが、明治10年に石造のアーチ状の橋に架け替えられます。しかし、手狭となったため下流に新しい橋が架けられます。それが現在の「常盤橋」です。旧橋は「常磐橋」と呼ばれ歩行者専用の橋として残されています。二つの橋は共に平成19年に千代田区景観まちづくり重要物件に指定されています。
 常磐橋門跡は昭和8年に財団法人渋沢青淵翁記念会(現渋沢栄一記念財団)により「常盤橋公園」として整備されました。
 城門の石垣は国の史跡へ指定されています。ただし、石垣と旧常磐橋は平成23年の東日本大震災により破損し、修復工事のため現在近づくことが出来ません。
 常盤公園には日本資本主義の父と呼ばれる渋沢栄一の銅像が設置されています。川の対岸には日本銀行があります。
 それにしても、日本橋もそうですが、川の上を首都高速が通っている様は、近代化のためにしかたなかったのでしょうが、歴史的景観を保全するという観点からは残念な気がします。
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| 歴史あれこれ | 06:27 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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北町奉行所跡

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シャングリラホテル東京前の通路と北町奉行所遺構




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北町奉行所跡の案内板。




 名奉行遠山金四郎が務めていた北町奉行所は、現在の東京駅八重洲北口付近にありました。具体的場所はシャングリラホテル東京(丸の内トラストタワー本館)あたりです。


 シャングリラホテルから隣の丸の内トラストタワーN館に向かう通路には奉行所跡の遺構が設置されています。また、通路には江戸城の外堀の石垣などもあります。

| 江戸時代 | 21:15 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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山田浅右衛門屋敷跡

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麹町永田町外櫻田絵図(安政6年)





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現在の山田浅右衛門屋敷跡




 千代田区平河町の江戸時代の地図を見ると平川天神の近くに山田浅右衛門という屋敷がありました。


 山田浅右衛門は幕府の御様御用(おためしごよう)という刀剣の試し斬りを行う役職を務めた山田家の当主が代々名乗った名前です。


 試し斬りの方法を具体的に言うと、罪人の首を斬首することだそうで浅右衛門は、「首切り浅右衛門」「人斬り浅右衛門」とも呼ばれていました。試し切りには相当な技量が必要なため、当主の息子であっても技量が無ければ後継となれず、弟子の中で最も優れた人物が跡を継いだそうです。



上記地図は安政6年のものですが、この年には安政の大獄により吉田松陰や橋本左内が斬首されています。二人を処刑したのが七代目山田浅右衛門吉利だったそうです。


 ところで、浅右衛門は御様御用という幕府の正式な役職に就いていましたが、その身分は浪人でした。これは穢れを伴う役職であったからとも考えられますが、世襲ではなく技量の優れた者が跡を継ぐには都合が良かったことと、役目による収入以外に副業による収入を得るためと考えられています。


 事実、山田家は大変裕福でした。本来の役職による収入は僅かでしたが、副業で遺体によるビジネスにより大変な収入を得ていました。処刑された遺体は山田家に引き渡されます。


 山田家では、その遺体を使って幕府以外から依頼を受けた刀剣の試し斬りを行いました。当時、刀の切れ味を試すには人間の身体が一番という考えがあり時代劇で辻斬りが出てきますが、理由は強盗目的ばかりではなく密かに刀剣を試し斬りするためであったとも言われています。中には武士が自分で試し斬りをするために山田家から遺体を買う事もあったそうです。


 また、現在は禁止されていますが遺体から取り出した肝臓や胆嚢等を原料に薬も作っていました。これらの収入は莫大であったといわれています。


 明治以降、浅右衛門は明治政府のもとで大久保利通暗殺犯を斬首していますが、やがて処刑は絞首刑に変わり、その役目を終えています。




 山田浅右衛門屋敷跡  千代田区平河町1丁目2-10 第一生命ビルディング



| 江戸時代 | 06:46 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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高野長英 大観堂学塾跡



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「大観堂学塾跡」のプレート



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「貝坂」の標識。この標識のある交差点に塾跡のビルもあります。



 千代田区平河町に貝坂という坂があります。
 その標識がある交差点に建っているビルの壁に「麹町貝坂 高野長英 大観堂学塾跡」というプレートが埋め込まれていました。
 高野長英は幕末に活躍した蘭学者で医者です。仙台藩領水沢の出身で養父が蘭学医であった事から幼い頃から蘭学に興味を持ちます。
 江戸で蘭学を学んだ後、文政3年(1820)、長崎へ留学しシーボルトの鳴滝塾で更に医学、蘭学を学んでいます。学力が抜きでていたため、この時、塾頭を務めていたそうです。
 文政11年(1828)にシーボルト事件が発生。長英は難を逃れ江戸へ帰り麹町に町医者として蘭学塾を開きます。それが「大観堂学塾」です。
 この頃、長英は三河国田原藩の渡辺崋山と出会い、蘭学の研究に協力しています。蘭学書の翻訳に当たり、ピタゴラスやガリレオ・ガリレイをはじめて日本に紹介しました。
 また、崋山とともに蘭学者や儒学者によるシンクタンク「尚歯会」に参加し「天保の大飢饉」の対策等を提言しています。
 「尚歯会」の提言は政治・経済・海防など多岐にわたり、老中・水野忠邦も外交問題で取り入れようとしますが儒学を担う林家の出身であった幕府目付・鳥居耀蔵は蘭学者の台頭を快くおもっておらず幕府批判を口実に弾圧に乗り出します。
 「蛮社の獄」と呼ばれる弾圧事件では多くの蘭学者がでっちあげの罪により捕えられますが、長英も永牢(終身刑)となり伝馬町牢屋敷に収監となります。6年後に火災に乗じて脱獄した長英は門人達の協力により各地を転々としますが嘉永3年(1850)に江戸青山に潜伏中に奉行所に踏み込まれた際、死亡しました。(自害と届けられていますが獲方が殺害したという説もあり。)
 ちなみに、長英達を弾圧した鳥居耀蔵は後に南町奉行となり水野忠邦の天保の改革を推進していきます。当時の北町奉行は有名な遠山金四郎で政策的に対立していた鳥居は芝居やドラマで悪人として描かれています。鳥居は策略により遠山を失脚させます。しかし、一時的に失脚した水野を見限ったため復権した水野により職務怠慢等の罪で罷免。財産没収のうえ幽閉されてしまったそうです。



 場所:千代田区平河町1-6-13

| 江戸時代 | 05:42 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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いずみ囲碁団体戦

 本日は、いずみ囲碁団体戦の日でした。


 私は無差別に主将として参加しました。私たち無差別は初出場だったのですが、教えている生徒さんたちはこれまでに何度か出場しました。



 結果は、主将は残念なことになりましたが、副・三と全勝し、優勝することができました。上位3チームが決勝大会に出場できます。そのときには主将としてがんばらなければ・・・



 生徒さんたちは、有段で惜しくも4位。級位は3位入賞を果たしました。

| アマ対局 | 21:32 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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井山が本因坊奪取

 本因坊戦ついに決着がつきました。


 4-3フルセットで井山挑戦者が山下本因坊から本因坊を奪取。



 現在、碁聖戦も2連勝中ですが、そちらはどうでしょうか。井山の時代がそろそろ訪れるでしょうか。日本にもこうしたタイトルを総なめにする棋士が出てきて欲しいです。



 ところで井山新本因坊は号を名乗るのでしょうか。それも楽しみです。

| プロ対局 | 20:31 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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渡辺崋山の生誕地

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「三宅坂小公園」 石段を上ったところに崋山生誕地の案内板がある。 

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渡辺崋山誕生地の案内板

 渡辺崋山は江戸時代後期の有名な画家であり、三河国田原藩の家老を務め、蘭学者という一面も持った人物でした。

 三河国田原藩士の息子として寛政5年(1793)に江戸麹町の藩邸で生まれた崋山は幼い頃、貧困に苦しみますが谷文晁に師事し画家としての才能を開花し、絵を売って生計を立てます。その後、昌平坂学問所で儒学も学びます。

 やがて、藩内で頭角をあらわし家老にまで出世した崋山は藩政改革に乗り出し天保の大飢饉のとき藩内から一人も死者を出さず、幕府から全国でただ一人表彰されました。

 蘭学にも精通し仙台藩の高野長英らと親交を結び、飢饉への対応や海防問題について話合っています。当時、アメリカの商船が日本人の漂流民を送り届けるために日本へやってきましたが、異国船打払令により日本側は砲撃し漂流民も受け取らないという事件が発生し、崋山らはこの対応を厳しく非難します。

 しかし、幕府は彼らを弾圧し(蛮社の獄)、崋山は国許で蟄居を命じられます。国許で謹慎中に絵を売って生計を立てましたが、この行為を幕府が問題視しているという話が広まり(反崋山派の陰謀という説もあり)、藩への影響を恐れた崋山は天保12年(1841)に切腹しました。

 田原藩邸跡には渡辺崋山生誕地の案内板があります。場所は最高裁判所角である三宅坂交差点にある「三宅坂小公園」です。


 場所:千代田区隼町4

| 江戸時代 | 07:04 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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上行寺 囲碁勝負で賭けられた仁王尊

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上行寺境内


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日荷上人の墓


 横浜市金沢区六浦にある上行寺には、囲碁に関する伝説が残されています。


 上行寺は元は鎌倉時代に創建された金勝寺という真言宗のお寺でしたが、この地を訪れた日蓮が領主と法論をたたかわした「船中問答」がきっかけで日蓮宗に改宗したそうです。


 南北朝時代の応安3年(1370)に豪商・六浦平次郎の寄進により整備され上行寺と名を改めました。平次郎は出家し六浦妙法と呼ばれています。


 そして、囲碁の伝説についてですがある日、六浦妙法の夢枕に仁王尊が現れ「我は称名寺の仁王であるが日蓮宗へ改宗して総本山である身延山の守護神となりたいので、なんとか送り届けてほしい」とのお告げがありました。


 称名寺は金沢にある北条一族の菩提寺です。六浦妙法は称名寺の住職に掛け合いますが当然断られます。しかし、無類の囲碁好きであった住職に対し仁王尊を賭けた囲碁の勝負を挑み、激戦の末、勝利しました。ところが、勝負に負けた住職は、あれは冗談だったと取り合おうとしませんでした。また、「あんな大きなものを運び出せる分けがない」とも言いました。そこで、六浦妙法はある夜、二体の仁王尊を背負って運び出し三日三晩かけて身延山久遠寺まで運んだという伝説です。


 身延山久遠寺では六浦妙法の功績に対し日荷上人という尊称を贈ります。上人はこの時、身延山から碁盤に使われる榧の苗木を持ち帰ったと伝えられていますが上行寺境内には榧の木が残されています。



 日荷上人はこの伝説から健脚の神様として祀られるようになります。上行寺や上人が開祖である東京谷中の延壽寺には長旅が無事に終わるようにとわらじを奉納する風習がありました。延壽寺は現在ではランナーやサッカー選手等がお参りする事でも有名です。



| 囲碁が関わった出来事 | 08:28 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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瀬戸神社



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 源頼朝は、伊豆で挙兵した際に加護をもらった伊豆三島明神をこの地に勧請し、社殿を建立した。これが今日の瀬戸神社である。



 須佐之男命、菅原道真を祀っているところで、横浜の一角にある小さな神社であるが賑わっています。



 金沢八景駅のすぐ前で、琵琶島神社とは大きな道路を隔てた正面にあります。

| 鎌倉時代 | 08:01 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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琵琶島神社

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 神奈川県の金沢八景駅の上から見ると琵琶の形に見えますが、水の上に浮いている感じの島(?)です。神社となっているのですが、祠のような感じです。



 鎌倉幕府初代将軍源頼朝の妻・北条政子が近江(滋賀県)の竹生島から勧請した弁天を祀っています。もとは瀬戸神社の前の海中にあり、二つの島を橋で結んでいましたが、今は陸続きになっています。



 金沢八景のひとつ「瀬戸の秋月」の夜景の場所です。

| 鎌倉時代 | 20:28 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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