烏鷺光一の「囲碁と歴史」

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碁聖戦開幕

 碁聖戦が開幕しました。


 羽根直樹碁聖に井山裕太天元・十段が挑戦しています。本日の第一局は井山挑戦者の黒番中押し勝ちでスタートしました。



 井山さんは本因坊戦とのかけ持ちです。こちらも3-2と王手をかけています。



 今もっとも忙しい棋士ではないでしょうか。



 井山さんといえば一月前に将棋の室田さんのご結婚されました。公私ともに充実されていますね。今後もがんばってもらいたいです。

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| プロ対局 | 19:38 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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金色夜叉と囲碁・尾崎紅葉(青山霊園)

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尾崎紅葉の墓と父親の彫刻師(根付師)尾崎谷斎の供養塔
                
                 
                     
 青山霊園に明治時代の小説化・尾崎紅葉の墓があります。
 紅葉といえば「金色夜叉」の作者として有名ですが、作品名は誰でも知っていますが意外と内容は知らない人が多いのではないでしょうか。(私がそうでした。)
 「金色夜叉」は明治30年に読売新聞で連載が始まり、続編が断続的に作られる人気作品となります。しかし、明治36年に紅葉が病死したため未完のままとなりました。
 ストーリーは,、次のとおりです。
 苦学生の間寛一には恋人の宮がいましたが、宮は富豪の富山に見初められ、そちらへ嫁ぐ事になります。激怒した寛一は熱海で宮を問い詰め、足蹴にして去っていきます。数年後、寛一は世間に復讐するために高利貸しとなり、やがてお宮と再会するといった話です。
 ところで、金色夜叉の中で碁会所を舞台としたシーンがあることが分かりました。続金色夜叉 第7章の場面です。
 熱海で別れたお宮は数年後、寛一の消息をつかみ、ある日訪ねます。お宮を許せない寛一は家を抜け出しますが、突然雨が降り、いつも見かけていた碁会所に飛び込むというシーンです。
 作品は著作権が切れてネットなどで無料公開されていますので一度ご覧ください。私はネットの「青空文庫」で入手しました。
 文書は明治時代の文書ですので非常に読み辛いのですが、馴れてくると言葉のリズムというか、文書表現が中々すばらしいなと思いました。「高利貸し」がアイスと書かれて最初分からなかったのですが、「高利貸し」=「氷菓子」=「アイス」と当時使われていた隠語も分かり面白かったです。
 そういえば、「金色夜叉」の寛一にはモデルがいたそうです。紅葉の親友で、児童文学者の巌谷小波です。巌谷には芝の紅葉館という高級料亭で働いていた須磨という恋人がいましたが、ある出版社の御曹司に横取りされ、その話を知って激怒した紅葉が「紅葉館」に乗り込み須磨を足蹴にしたそうです。この出来事をヒントに作品が作られたといわれています。
 なお、この一件が関係あるかは分かりませんが、尾崎紅葉の「紅葉」とは「紅葉館」の事だそうです。「紅葉館」は鹿鳴館が無くなって以降、外国人の接待に使用される等、政府も外交で活用する高級料亭でした。現在は跡地に東京タワーが建っています。囲碁界においても、様々な対局が行われた、ゆかり深い場所です。有名な二十一世本因坊秀哉が木谷実と対局した引退碁もここで行われています。
 寛一のモデル巌谷小波の父は明治三大書家の一人とされた巌谷一六で、紅葉の墓の揮毫も彼のものです。
      
 最近、青山霊園の有名人の墓を続けて紹介してきましたが、今回分で撮影した写真がなくなりましたので、お墓の紹介は一旦区切りとさせていただきます。まだまだ未撮影の場所もありますので機会があればまた取材したいと思います。

                       
 墓の場所: 青山霊園 1-ロ-10-14


 

| 囲碁が関わった出来事 | 06:19 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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志賀直哉(青山霊園)

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志賀直哉の墓
            
           
         
 青山霊園には小説家の志賀直哉の墓があります。
 志賀は明治16年に宮城県石巻に生まれ東京で育ちました.祖父は古河財閥と足尾銅山を共同経営していた志賀直道だそうです。
 明治41年に小説家としての活動を開始し、明治43年には武者小路実篤らと同人誌「白樺」を発行します。同雑誌の作家を中心に「白樺派」と言われる文芸思想が興りました。
 「白樺派」のメンバーに学生がたくさんいて、当時、学習院院長だった乃木希典の教育方針と対立します。明治天皇崩御に伴い乃木が殉死すると日本国民が悲しむ中、志賀は「前近代的行為」と非難しています。
 志賀の代表作は「暗夜航路」「城の崎にて」等があり近代日本文学の代表作とされています。
 昭和46年に亡くなり青山霊園に葬られています。
                
 墓の場所:青山霊園 1-イ2-11

| 昭和時代 | 07:03 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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第二代内閣総理大臣・黒田清隆(青山霊園)

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黒田清隆の墓(中央)と妻・清の墓(右)

                     
                       
 黒田清隆は薩摩藩出身で薩長同盟成立においては薩摩側の使者として同盟成立に尽力しています。
 戊辰戦争では函館の五稜郭攻略に参謀として参加しますが、戦後は榎本武揚らの助命嘆願に動いています。
 明治新政府では重責を担い明治21年には伊藤博文の後を継いで、第二代内閣総理大事に就任しました。
 内閣総理大臣就任中の主な出来事として大日本帝国憲法発布があります。黒田内閣では伊藤内閣から引き継いだ外国との不平等条約改正を推進しますが、改正案に外国人の裁判官を置くという内容が盛り込まれていたため、主導した大隈重信外務大臣が襲撃される事件が起ります。この事件がきっかけで政権は行き詰まり、組閣からわずか1年ほどで倒れてしまいました。
 黒田は酒癖が悪いことで有名で色々な話が残されています。(北海道)開拓使長官時代に商船乗船中、酒に酔って面白半分に大砲を発射し住宅に直撃したため死者を出すという事件も起こしています。
 しかし、最も有名なのが酒に酔って妻を殺害した嫌疑がある事です。
 明治11年に病気がちだった妻の清が死亡しますが、直後に清は酒に酔って帰宅した清隆と口論になり斬殺されたとの噂が拡がります。真相究明を求める世論が大きくなり、当時政府のトップであった大久保利通の命を受け、大警視(警視総監)川路利治が墓を掘り返し検視を行った結果、病死と発表します。
 しかし、当時は西南戦争が勃発した直後で、政府に対する不満が高まっていました。真相は定かではありませんが、大久保も川路も薩摩出身であった事から黒田を庇ったと考える人々も多く、この出来事が同年の大久保利通暗殺の一因となったとも言われています。
 黒田は明治33年に亡くなりますが、葬儀委員長は命を救った榎本武揚が勤めました。墓所は青山霊園にあり、隣には妻の清が葬られています。
     
  場所:青山霊園 1-イ1-9~10
 

| 明治・大正時代 | 12:02 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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渋川春海殿堂入り

 囲碁の殿堂入りが決定しました。



 前回は岩本薫が殿堂入りしましたが、今回は二人の人物が殿堂入りしました。一人は天地明察で話題になっている渋川春海(安井算哲)です。もともと碁打ちでしたが、天文学の道に進んだ人物です。



 もう一人は中国の政治家陳毅です。囲碁の普及など、囲碁に関わる事柄が多く、殿堂入りとなりました。



 そのほかに幻庵因碩、橋本宇太郎、雁金準一、喜多文子などが候補として挙がっていました。

| 囲碁あれこれ | 08:02 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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忠犬ハチ公の碑(青山霊園)

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飼い主であった上野英三郎の墓所の隣に葬られたハチ公の碑
                    
                     
                               
 先日、渋谷駅前の銅像で有名な忠犬ハチ公が亡くなった時の写真が見つかりニュースになっていましたが、ハチ公は青山霊園に葬られています。
 秋田犬のハチは大正12年に秋田県で生まれ、東京帝国大学農学部教授の上野英三郎が買い取り渋谷の自宅で飼われます。上野は農業土木学者で日本の農業工学創始者として知られています。
 ハチは毎日、主人を玄関で見送り、時には最寄の渋谷駅まで送り迎えしていたといいます。しかし、上野はハチがやってきて1年ほどたった大正14年に、大学で倒れ亡くなってしまいました。
 ハチはその後、上野の親戚に預けられますが、色々なトラブルにより最終的に上野家に出入りし小さいときから可愛がっていた植木職人の小林氏に預けられます。小林邸は渋谷の隣町で、ハチは上野の帰りを待つように思い出の場所である渋谷駅に出かけ夕方には食事のために帰ってくるという生活をしていたそうです。
 渋谷駅では通行人たちにしばしば悪戯されていたそうで、ハチのことを知っていて不憫に思った、日本犬保存会初代会長・斉藤弘吉が新聞に投書したため忠犬として世間に広く知られることとなります。
 ハチは昭和10年に路上で亡くなっているところを発見されます。小林邸に引き取られてから8年ほどたっていましたが、忠犬として世間が注目したのは晩年の2年ほどだけです。
 ハチの死後、渋谷駅で大勢の人々が集まり告別式が行われ青山霊園にあった、元の飼い主である上野氏の墓の隣に葬られました。
 なお、ハチは剥製にされ上野の国立科学館に所蔵されています。また、内臓はホルマリン漬けにされ東京大学農学資料館に展示されているそうです。内臓を最近調査した結果、重度のフィラリア(寄生虫)症と肺と心臓に癌が見つかり、どちらかが死因という事ですが、胃の中には焼き鳥の串が数本入っていたそうです。



      



 場所:青山霊園 1-ロ-6-12



| 昭和時代 | 01:43 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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喜多文子(林文子)の父、司馬凌海(青山霊園)

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司馬遼海の墓
             
         
 大正13年の日本棋院設立に大きな役割を果たし、その後も女流棋士の育成に努めた女流棋士の草分けである喜多文子(旧姓・林文子)の実父で医学者であり語学者であった司馬凌海の墓が青山霊園にあります。
 遼海は天保10年(1839)に佐渡で生まれ、11歳で江戸へ出て漢学等を学びます。その後、奥医師・松本良順に師事し医学とオランダ語を学んでいます。語学の天才と呼ばれ英語やドイツ語など6カ国語に通じていたそうです。
 医学にも通じていたことから外国の医学書から日本語に無かった医学用語を和訳しています。蛋白質(タンパク質)、十二指腸、窒素などが凌海が訳した言葉だそうです。
 凌海は大学教授などを務めますが、明治12年に肺結核で40歳の生涯を閉じます。凌海の死により家族は故郷の佐渡に帰ることになりますが、次女の文子は3歳と幼く虚弱であったため長旅には耐えられないとして養女にだされます。養女に引き取ったのは、囲碁の家元・林家の親戚で女流棋士の林佐野でした。凌海と顔なじみであったため夫人が頼み込んだそうです。
 運命とは分からないもので、こうして文子は囲碁界に身を置くことになり、日本棋院設立にも大きく関わることとなるのです。
 凌海の墓は司馬家代々の墓であり、長男でドイツ語学者の司馬亨太郎も葬られています。

  司馬凌海墓所の場所:青山霊園 1-イ6-4

| 林家 | 06:11 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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林柏栄門入をスカウトした市川海老蔵(団十郎)~青山霊園

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市川団十郎の墓【中央の墓が歴代団十郎の墓(初代~8代)、右が9代目団十郎、左が9代目の夫人】
                  


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右が10代目団十郎と夫人の2代目市川翠扇の墓。左は11代目団十郎の墓
          
              
                 
 歌舞伎役者の中でも最も権威のある名跡といわれる「市川団十郎」の墓が青山霊園にあります。
 初代が団十郎を名乗ったのは延宝3年(1675)の事で、以来、現在の12代目まで礿340年間、江戸歌舞伎の中心として活躍しています。
 歌舞伎は戦国時代に京都で出雲阿国が始めたとされ、能舞台を模した舞台で踊りの要素を取り入れた演劇を行い、庶民の娯楽として発展してきました。
 質素倹約を目指した天保の改革では歌舞伎は綱紀粛清の対象となり廃止されそうになります。しかし、庶民から娯楽を奪うことに反対であった当時の北町奉行・遠山金四郎景元により江戸郊外の浅草へ芝居小屋を集約させるだけで済みました。歌舞伎を救った恩人である遠山金四郎は、名奉行として芝居の主人公となり現在でもテレビドラマが放映されていま。
 ところで歌舞伎と囲碁界が交わることが無かったのかと調べてみると、次のような逸話があることがわかりました。
 囲碁の家元・林家の12世当主である柏栄は11世林元美の息子で16歳まで成田山新勝寺の小姓を務めていました。
 屋号に成田屋を名乗るほど同寺と繋がりが深かった市川家の市川海老蔵は、柏栄を見かけ養子にして歌舞伎役者に育てたいと申し込みます。それほど柏栄は美男子だったのですが、結局この話は実現せず柏栄は囲碁の道に進み林家を継承していきます。
 ところで、この逸話に出てくる市川海老蔵とは誰の事でしょうか。柏栄は文化2年(1805)の生まれで文政4年(1821)には16歳となっています。
 当時の市川海老蔵とは5代目海老蔵と考えられます。五代目海老蔵は、寛政3年(1791)に5代目市川団十郎の孫として生まれ叔父である6代目団十郎の養子となります。
 寛政6年(1994)に、初代市川新之助として初舞台を踏み市川ゑび蔵(5代目市川海老蔵)を名乗った後、寛政11年(1799)に先代の急死により10歳にして7代目市川団十郎を襲名しました。
 7代目団十郎は先輩たちに揉まれながら人気と実力を兼ね備えていきますが、天保3年(1832)に息子である6代目海老蔵に8代目団十郎を譲り、自らは5代目市川海老蔵を名乗りました。
 林柏栄が16歳になる頃に海老蔵と名乗っていたのは6代目ですが当時は3~5歳くらいで幼すぎますので、その後、柏栄が囲碁界で有名になった時期に海老蔵を名乗った5代目海老蔵が柏栄を養子として迎えようと考えていたのでしょう。
 5代目市川海老蔵は、先に紹介した天保の改革による歌舞伎界への弾圧により天保13年(1842)に江戸を追放となります。
 派手な生活、服装をしているという理由ですが有名人を見せしめとすることで改革の効果を狙ったものと考えられています。
 しかし、皮肉なことに江戸を追放となった海老蔵は名前を変えながら大阪など各地で舞台に立ち続け江戸歌舞伎を広めました。赦免され江戸に帰った後も、度々上方で舞台に立ち、安政6年(1859)に亡くなっています。
 青山霊園では8代目までの歴代団十郎が一つ墓でまとめられて、その中の一人として葬られています。
                     
 墓の場所 青山霊園 1-イ21号-12


 

| 囲碁が関わった出来事 | 06:04 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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秀甫を評価していた中江兆民(青山霊園)

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中江兆民の墓
              
             
                
 明治時代にフランスの哲学者ルソーを日本に紹介し自由民権運動へ多大な影響を与えた思想家・中江兆民は青山霊園に眠っています。
 兆民は弘化4年(1847)に土佐藩士の子として高知城下で生まれます。
 幼い頃から学問を学び、長崎へ藩の留学生として赴きます。この時、同郷であった坂本龍馬とも親交を結んだそうです。
 明治時代に入り岩倉使節団に同行しフランスへ留学留学し、帰国後、東京外国語学校の校長等を務めますが、文部省と対立し辞職します。
 その後、様々な新聞の主筆となりジャーナリストとして活躍する一方、18世紀フランス思想家ルソーの「社会契約論」を和訳し名を知られます。 明治13年に板垣退助が結党した「自由党」にも関わり自由民権運動へ影響を与えます。
 明治23年に実施された第一回衆議院総選挙に立候補し当選しますが、自由党内の対立に反発し、任期途中に議員を辞職。その後、北海道に移り事業を始めますが上手くいかず、再び政界復帰に向けて動き出した明治34年に病に倒れ54歳で亡くなりました。
 ところで、兆民は著書「一年有半」(明治34年発行)の中で「近代非凡人三十一人」を選出していますが、その一人に、方円社社長であった村瀬秀甫をあげています。
 旧来の家元制度から脱却し方円社を設立した秀甫を新しい時代の改革者として評価したのでしょう。ちなみに31人の中には、坂本龍馬、大久保利通、西郷隆盛らが名を連ねていて兆民の評価の高さが分かります。兆民自体が囲碁を愛好していたかは分かっていません。
 ところで、お墓にお参りしたときには気がつかなかったのですが、あらためて墓石を見てみると刻まれた名前は「兆民中江先生」となっています。他の一族の墓は「中江○○」となっていますので特別なのでしょう。外国語に堪能であった事から西洋にならい苗字より名前を先にしたのかもしれません。
               
 墓の場所:青山霊園 1-イ1-24
 

| 囲碁が関わった出来事 | 05:28 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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犬養毅と囲碁(青山霊園)

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犬養毅の墓
                 
                   
 青山霊園には第29代内閣総理大臣・犬養毅の墓があります。
 犬養毅は岡山県出身で慶応義塾に入学後、郵便報知新聞(現スポーツ報知)の新聞記者として西南戦争にも従軍しています。
 後に、大隈重信が結党した「立憲改進党」に入党し、明治23年(1890)に実施された第一回衆議院総選挙で当選し国会議員となりました。
 その後、文部大臣や逓信大臣等に就任しますが、初期の政党政治は離合集散の繰り返しで(結局今も変わっていませんが)犬養は少数政党の党首として苦労します。
 右翼の巨頭・頭山満は盟友であり供にアジア主義者として名を知られます。朝鮮の政治家・金玉均や中国の革命家・孫文、蒋介石らが日本に亡命したときも頭山らと供に支援しています。
 また、囲碁が趣味で本因坊秀栄とも親交があり有力な後援者の一人だったそうです。頭山満、金玉均は囲碁の愛好家としても知られていますので囲碁を通して互いの繋がりを深めていったのかもしれません。
 昭和4年には周りに推されて野党第一党「立憲政友会」の総裁となりますが、当時の日本は昭和金融恐慌による不景気と満州事変による世情不安に見舞われ当時の若槻内閣は政権運営に行き詰まり総辞職します。
 犬養は野党第一党総裁であり、満州事変の対応について中華民国との話合いによる解決を主張していた事が評価され内閣総理大臣に指名されます。組閣の大命が下ると、ただちに解散総選挙を行い国民の信任を得ると、元総理大臣の高橋是清を大蔵大臣に起用し、日本経済の回復に成功します。
 一方、満州事変への対応は中華民国との独自のパイプを駆使して話し合いを進めますが、満州国の承認を迫る軍との対立が深まり、昭和7年5月15日に発生した軍部のクーデター「五・一五事件」により暗殺されてしまいました。亡くなる前にピストルを発砲した兵士たちに向かって「話せば分かる」と語った事は有名です。
 犬養の死により、政治家やマスコミは報復を怖れ軍を批判する事を避けるようになります。やがて、日本は軍主導により戦争への道を進む事になったのでした。
         
 墓の場所:青山霊園 1-ロ8-1~14

 
 

| 囲碁史あれこれ | 07:34 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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