烏鷺光一の「囲碁と歴史」

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後藤象二郎と囲碁(青山霊園の墓)

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後藤象二郎の墓。左が正面の写真で戒名が刻まれている。右側が後ろ側の写真で後藤象二郎の墓と刻まれているが、道路側だったのですぐに確認できました。




 青山霊園には数多くの歴史上の人物の墓があります。今回、まとめて御参りしてきましたので紹介させていただきます。
 後藤象二郎は幕末から明治にかけて活躍した土佐藩出身の政治家です。土佐藩大監察として前藩主の山内容堂の支援により藩内で尊皇攘夷派であった武市半平太率いる土佐勤皇党を粛清する一方、産業振興を図り藩政改革を実施します。後に三菱を創業する岩崎弥太郎も象二郎により土佐藩の貿易会社「土佐商会」の主任に抜擢されています。
 象二郎は時代の流れを読み取る感覚に優れていたといわれます。「土佐勤皇党」は弾圧しましたが、世の中が尊王攘夷に傾くと「土佐勤皇党」と関わりのあった坂本龍馬と接近し、龍馬が考えた「船中八策」に基づき大政奉還を推し進めました。
 明治以降は新政府の要職につきますが、征韓論争に敗れ西郷隆盛らと共に下野します。その後、板垣退助による自由党にも参加し逓信大臣や農商務大臣等も歴任しました。
 象二郎は囲碁が好きだったようです。囲碁界においては明治以降設立された方円社を支援しています。方円社と家元側が深刻な対立状態であった時期に、象二郎は双方の仲介を行います。結果、方円社社長の村瀬秀甫と本因坊秀栄は和解して、十八世本因坊秀甫が誕生することとなったのです。
 象二郎は明治30年に心臓病により他界。享年60歳でした。

 

墓所の場所 : 青山霊園 1-イ13-24
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| 囲碁史あれこれ | 06:24 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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大久保利通の墓(青山霊園)

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大久保利通の墓
                
          
           
 明治維新の立役者、大久保利通は以前、紹介しましたが、明治11年(1878)に紀尾井坂にて暗殺されました。墓所は青山霊園にあるということなので、今回お参りしてきました。 墓所には鳥居もあり神社という趣きで、墓石は亀の上に載った大変立派なものです。
 ところで、大久保利通といえば唯一の趣味が囲碁であり、その囲碁を利用して薩摩藩主・島津忠義の父である島津久光に取り入り出世したと言われています。そんな大久保の囲碁に関する面白いエピソードがありましたので紹介します。
 大正11年に早稲田大学出版部より出版された「大隈候一言一行」という大隈重信の語録をまとめた本の中で大久保利通と岩倉具視の対局について大隈が語っています。
 「岩倉と大久保は両人ともなかなか(囲碁が)上手であった。どちらかと云うと大久保の方が少し上手であった。ところが大久保は激しやすい人であったので、岩倉はその呼吸を知っているから、対局中、常に大久保を怒らせて勝ちを取った。」
 大久保利通といえば新しい時代のためには盟友であった西郷隆盛であっても切り捨てることのできる、冷徹で合理主義というイメージがありましたが、実は激高しやすい性格だったとは意外でした。あるいは、そういう性格を見抜き常に勝ちをおさめた岩倉具視の方がさすがだというべきなのでしょうか。
 原文を読みたい方は国立国会図書館のホームページの電子図書館「近代デジタルライブラリー」で公開されていますのでご覧ください。「大隈候一言一行」という本の中の「囲碁の上から見た維新の元勲」という章の中にあり、伊藤博文や福澤諭吉の碁についても語られています。
                        
 大久保利通の墓:青山霊園 1-イ2-15~17

| 囲碁が関わった出来事 | 06:02 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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本因坊算砂の「筭」の字

本因坊戦でも京都の寂光寺が使用されているように、本因坊400年ということで今年はいろいろあります。



初代本因坊算砂について囲碁史会で発表がありました。



本因坊算砂の「算」の字ですが、当時の書簡などから「筭」を使用しているためこれが正しいのではないかということです。現代の目から見れば、旧字体、異体字などと言われていましたが、違う意味の文字ではないかということです。



| 囲碁史会 | 09:04 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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囲碁史会(玄玄碁経のこと)

昨日、日本棋院にて囲碁史会がありました。



今回の発表は、お決まり南さん。



「玄玄碁経」についてでした。



「玄玄碁経」はご存知の方も多いはず、プロ棋士を目指す方なら誰もが勉強する詰碁集です。囲碁史的に見れば序文等の方に目がいきます。



この玄玄碁経ですが、中国から日本に伝わったものです。それがいつごろなのかは不明です。



このたびの南氏の発表は、玄玄碁経の資料に関することです。玄玄碁経はかなり昔からあり、江戸時代の碁打ちも勉強したことでしょう。現代でもいくつかの復刻版が出されています。その元になったのはいつの玄玄碁経かということです。原本とは順番が違うのではなどです。



これまで玄玄碁経は一級の資料として扱われ、復刻されたものを疑った人はどれだけいたでしょうか。やはり原本を見なくてはということです。

| 囲碁史会 | 09:06 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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乃木希典の墓(青山霊園)

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青山霊園 右手の建物が管理事務所
            


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乃木希典の墓
                     
                  
                    
 乃木希典(大将)の墓は乃木神社のすぐ近くにある青山霊園にあります。青山霊園は美濃国郡上藩の藩主・青山家の下屋敷に開設された国内初の公営墓地で、数多くの著名人の墓もあります。霊園管理事務所付近の交差点(赤坂消防署前)に「乃木将軍墓道」という碑が建てられている事から分かるとおり乃木大将の墓へ参る人々が多いのでしょう。しかし、墓は思ったより小さく、生前質素に暮らしていた乃木大将らしい墓だと思いました。
 ところで、乃木大将は囲碁が大変好きだったそうです。乃木大将と並び称される東郷平八郎元帥も囲碁が好きで、両者が明治44年に天皇の名代としてイギリス国王の戴冠式に出席した際は、イギリスへ向けての40日間の船旅の中で毎日二人で囲碁をしていたそうです。二人とも自他ともに認めるザル碁でしたが、棋力が似通っていたため互角の勝負だったそうです。

 墓の場所  青山霊園 1-ロ10-26

| 明治・大正時代 | 06:20 | comments:1 | trackbacks:0 | TOP↑

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乃木坂

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乃木坂の風景
              


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乃木神社の入り口にある乃木坂の碑
                 


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乃木坂にあるソニーミュージックの社屋。
                 
              
                
 乃木神社の前の坂は「乃木坂」と呼ばれています。元は「幽霊坂」と呼ばれていましたが乃木大将が殉死された後の大正9年に「乃木坂」への改名が行われました。
 「幽霊坂」と呼ばれる坂は昔は江戸に結構たくさんありました。由来としては幽霊が出そうなくらい人通りが少ない静かなところという意味で付けられたのが一般的だそうです。ただ、縁起が悪いという事で多くの坂が名称変更しています。
 「乃木坂」といえば最近ではアイドルグループ「乃木坂46」が有名ですが、名前の由来は乃木坂の途中にレーベル会社SME(ソニーミュージックエンタテインメント)の乃木坂ビルがあるからだそうです。もし、乃木大将が住んでいなかったら「幽霊坂46」になっていたのでしょうか。

| 東京散歩 | 05:50 | comments:1 | trackbacks:0 | TOP↑

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旧乃木邸と馬小屋

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「旧乃木邸」入口
        



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「旧乃木邸」
             


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厩舎
           


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「乃木将軍と辻占売少年像」
                     
                   
                   
 乃木神社の隣に乃木大将が住んでおられた邸宅があります。正確には邸宅の隣に乃木神社が建てられたといった方がよいのですが。
 乃木希典(大将)は長州藩の支藩である長府藩士の息子として江戸の上屋敷で生まれました。場所は現在の六本木ヒルズで生誕の碑が建てられています。
 明治37年に勃発した日露戦争において、乃木は第3軍司令官として旅順要塞攻略にあたります。戦いは激烈を極め乃木の二人の子息を含む大勢の犠牲者を出しますが、203高地攻略等により遂に陥落させます。旅順要塞陥落後、ロシア軍の要塞司令官ステッセリとの会見において相手の名誉を重んじ極めて紳士的に対応したことから世界から絶賛されます。
 明治39年に凱旋帰国した乃木ですが、大勢の犠牲者を出したことにより死んで罪を償いたいと明治天皇に上奏します。明治天皇は「今は死ぬときではない」と思いとどまらせ、翌年には孫(後の昭和天皇)の学習院入学に合わせ学長に就任させ養育を任せました。乃木は明治45年に天皇が崩御すると大葬の礼当日に自宅にて夫婦とも殉死しました。
 乃木邸は明治12年に屋敷を購入し明治35年に改築を行っています。改築にあたっては乃木大将がドイツ留学中に見たフランス連帯本部兵舎を模して設計したそうです。
 厩舎もレンガ造りの大変立派なもので、ロシア軍のステッセルから贈られた愛馬「壽号」も飼育されていました。二つの建物は「旧乃木邸と馬小屋」として港区有形文化財に指定されています。
 普段は家の中は窓越しに見るだけで非公開ですが、毎年、9月13日の命日と前日だけ、一般公開されるそうです。
             
 住所:港区赤坂8-11-32
 

| 明治・大正時代 | 07:56 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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乃木神社

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乃木神社の境内


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拝殿
         

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境内にある正松神社
               
              
             
 東京都港区赤坂に乃木神社があります。日露戦争の英雄・乃木希典将軍と静子夫人を祀った神社です。
 乃木大将は、明治45年に明治天皇が崩御されると、その大葬の日に自宅で夫婦共々、殉死されました。乃木大将の忠誠心に感動した人々が大勢、乃木邸を訪れたそうで、やがて当時の東京市長が中心となって屋敷内に夫妻を祀ります。
 大正8年には正式に乃木神社の設立が認められ、乃木邸の隣に神社が建設されました。昭和20年の東京大空襲により神社は焼失しますが昭和37年に復興しています。
 境内にある「正松神社」は、吉田松陰と、その叔父で松下村塾の創立者・玉木文之進が祀られています。玉木は萩の自宅で私塾「松下村塾」を開き付近の子どもたちを教育します。甥である松陰もここで学び影響を受けます。やがて松陰は松下村塾の名前を引き継いだ私塾を開き、多くの幕末の志士たちを輩出する事になるのです。
 乃木大将は、玉木の遠縁にあたり教えを受けます。いわば、松陰と乃木大将は兄弟弟子にあたるのです。そのような関係で乃木神社の摂社として境内に祀られています。

| 明治・大正時代 | 05:46 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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平塚神社~浅見光彦の世界

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平塚神社
     
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本殿
              


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神社入口にある平塚亭 訪れた日はお休みでした。
    
     
    
 東京都北区中里の旧古河庭園近くに平塚神社があります。平安時代後期の創建で、源頼朝の先祖である八幡太郎源義家とその兄弟の源義綱、義光が御祭神として祀られています。後三年の役で奥州を征圧した義家が帰路、この地に立ち寄り領主の豊島近義の饗応を受けた返礼として甲冑を贈ります。近義はその甲冑を地中に埋め塚を築き鎮守としました。塚は甲冑塚と呼ばれましたが、低い塚だったので平塚とも呼ばれたそうです。
 豊島家は、その後、太田道灌により滅ぼされ塚は荒廃しますが、江戸時代に入り盲目の山川城官貞久が出世祈願をして江戸に出たところ盲目の役人の最高位である検校にまで上り詰め将軍家光の近習となります。後に家光が病になった折に山川が平塚明神に快復祈願したところ全快したためお礼として神社を修復します。また、家光も朱印地50石を寄進し度々参拝に訪れたといいます。
 平塚神社は、このように由緒正しい神社ですが最近は度々テレビに登場しています。内田康夫氏による人気小説、浅見光彦シリーズにおいて光彦は平塚神社の近くに住んでいる設定で物語によく登場し、テレビドラマのロケ地にもなっています。神社の参道は駐車場として利用されていますが光彦はよく、ここに車を止めていました。また、神社入口にある和菓子屋「平塚亭」の団子は光彦の母の大好物で光彦がよく買い物をするシーンがありました。
 この場所が選ばれた理由は、実は内田康夫氏が以前、近所に住んでいたためで普段から見ていた風景を小説に取り入れたみたいです。という事で小説のファンの方もよく訪れているそうです。
     
  平塚神社 住所:東京都中区上中里1-47-1

| 平安時代 | 06:20 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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旧古川庭園

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洋館
                            

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洋風庭園
              

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和風庭園
         
                    
 東京都北区にある旧古河庭園へ行ってきました。元々、陸奥宗光が邸宅として整備したもので次男の潤吉が古河財閥創始者の古河市兵衛の養子になった際、古河家の所有となりました。
 古河財閥は戦前の15財閥の一つで現在でも古河電気工業に名を残していますが、富士通もそのグループでした。また、鉱毒事件で有名な足尾銅山を経営していた古河鉱業も中核企業です。
 現在の庭園は三代目当主の虎之助(市兵衛の実子で潤吉の養子となる)が大正6年に整備したものです。
 洋館と洋風庭園は鹿鳴館等を設計したジョサイア・コンドルによる設計で、洋風庭園の下に日本庭園が配置されているのが特徴です。
 戦後は国有財産となりますが、都に無償で貸し出され昭和31年に都立公園として開園します。また国の名勝にも指定されています。

| 明治・大正時代 | 06:44 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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