烏鷺光一の「囲碁と歴史」

2012年03月 | ARCHIVE-SELECT | 2012年05月

| PAGE-SELECT | NEXT

≫ EDIT

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

| スポンサー広告 | --:-- | comments(-) | trackbacks(-) | TOP↑

≫ EDIT

初台での対抗戦

初台囲碁クラブにおいて、対抗戦がありました。



多岐技会から出場しました。



多岐技会は、強豪が集まる有名な研究会で、アマ本因坊優勝経験者の瀧澤雄太さんが主宰しているものです。



会場の初台囲碁クラブは、多岐技会が研究会として使用している会場で、多岐技会からは6チームが参加しました。



そのほかの参加チームは、



若葉会(神奈川の強豪研究会)3チーム



三村道場(三村智保九段の子供道場)3チーム



吉田調布会(アマ強豪吉田晃さんの研究会)



清楽会(京大OB)



これらが三回戦を行いました。



個人的には1勝2敗でした。

スポンサーサイト

| 囲碁あれこれ | 20:52 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

≫ EDIT

六義園

Dsc_0691  Dsc_0692


染井門(左)と庭園内(右)




 今日、文京区本駒込にある特別名勝「六義園」に行ってきました。駒込駅側の染井門から入り、次の行程のため再び染井門から出ました。



 「六義園」は五代将軍・徳川綱吉に重用された柳沢吉保が元禄15年(1702)に下屋敷に築園した江戸時代を代表する庭園です。



 明治時代に入り、三菱の創業者・岩崎彌太郎の別邸となっています。



 「六義」とは中国の詩の分類法にならった和歌の分類の六体(そえ歌、かぞえ歌、なぞらえ歌、たとえ歌、ただごと歌、いわい歌)の事で庭園は和歌を基調とした「回遊式築山泉水」だそうです。



| 江戸時代 | 20:58 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

≫ EDIT

将軍家茂と和宮の墓

Dsc_0036  Dsc_0034


14代将軍徳川家茂の墓(左)と正室の皇女和宮の墓(右)



 芝増上寺の徳川家霊廟には14代将軍徳川家茂と正室である皇女和宮の墓が並んで建っています。


 家茂は紀州藩11代徳川斉順の二男として弘化3年(1846)に赤坂の藩邸で生まれます。叔父の12代徳川斉彊の死去により、僅か4歳で紀州家13代藩主に就任しています。その後、徳川宗家では13代将軍家定に継嗣がいなかったため後継候補として家茂を推す井伊直弼を筆頭とした南紀派と一橋慶喜を推す父、水戸斉昭を中心とする一橋派の対立が激化しますが、大老井伊直弼による安政の大獄により一橋派は粛清され14代将軍家茂が誕生します。


 家茂は、文武両道に優れ、大変な人格者であり幕臣の信望も厚かったといいます。勝海舟を見出したのも家茂で、勝は後に家茂について「もし長生きしていたら名君として名を残していたかもしれない。家茂さまの死によって徳川幕府は滅んだ。」と語り涙ぐんだと言われています。


 一方、皇女和宮は、時の孝明天皇の妹で公武合体の政策による政略結婚で家茂へ嫁ぎました。しかし、夫婦仲は大変良かったといいます。


 囲碁に関していえば、家茂もかなり囲碁好きだったようで幕末の混乱により中止されていた御城碁を復活させ、230年あまり続いた御城碁の最後の対局が行われました。


 家茂は、第二次長州征伐の最中、慶応2年(1866)に大阪で病により21歳の若さで亡くなっています。



| 幕末・明治維新 | 22:21 | comments:1 | trackbacks:0 | TOP↑

≫ EDIT

12代将軍 徳川家慶の墓

Dsc_0040
徳川家慶の墓
        
    
    
 芝増上寺の徳川家霊廟にある徳川家慶の墓です。家慶は11代将軍家斉の次男で生まれてまもなく長男が死亡したため将軍継嗣となります。しかし将軍となったのは天保8年(1837)で45歳になってからです。これは、父家斉が歴代将軍最長の50年間将軍職に就いたためで将軍就任後も家斉が大御所として実権を握ったままでした。このため家慶は何を聞かれても「そうせい」と答えるしかなく「そうせい様」と呼ばれていたといいます。しかし、将軍就任の四年後に家斉が死亡すると父の寵臣達を粛清し自らの政治を開始します。父、家斉は就任当初は松平定信を登用し寛政の改革を行いますが、厳しすぎる定信を次第に疎ましく思い罷免した後は浪費を繰り返したため幕府の財政は困窮していました。大塩平八郎の乱が勃発したのも将軍就任当時の事でした。
 そこで、水野忠邦を重用し天保の改革を行ない幕政改革に乗り出したのです。しかし、天保の改革は厳しすぎる取締りが人々の支持を得る事ができず忠邦は失脚します。忠邦の後に老中阿部正弘が実権を握りますが、この次期にアメリカよりベリーが来航し日本中を揺るがします。
 このように、家慶の時代は幕府の弱体化と外国の脅威により幕末に突入する激動の時代だったのです。



| 江戸時代 | 06:04 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

≫ EDIT

九代将軍 徳川家重の墓

Dsc_0039
徳川家重の墓



 芝増上寺の徳川家霊廟に九代将軍 徳川家重の墓があります。家重は徳川幕府中興の祖と呼ばれる八代将軍吉宗の長男ですが、あまり語られる事はありませんでした。それは、軽度の脳性麻痺を患っていたためと考えられています。
 家重の話す言葉は不明瞭で、唯一内容が理解できたのは側近の大岡忠光のみであったそうです。そのような状態だったため廃嫡しようという動きがありましたが、初代家康を敬愛し、その政策を継承しようとしていた吉宗は家康が家光を三代目としたように将軍の長子相続にこだわり延享2年(1745)に将軍職を家重へ譲りました。これは、家重の長男の家治が聡明で将来を期待されたためとも言われ、自ら大御所として政治の実権を握ったままで、孫の家治に英才教育をほどこします。
 また、吉宗は五代綱吉以降、将軍継承がスムーズにいかなく、将軍在任中には尾張の徳川宗春との対立があり御三家に対する不振もあったのか、家重の息子や兄弟により御三卿を興し後継問題の安定を図りました。
 一方、家重については後年様々な評価があります。物事を考えるのも大変な状態だったといわれる一方、囲碁の解説書を著していますし、言葉がうまく話せないが思考はしっかりしていたともいわれています。田沼意次など、有能な人材が登用されたのも家重の時で、人を見る眼にすぐれていたとも言われますが病気への偏見が強い時代でもあり真相は謎につつまれています。



 

| 江戸時代 | 07:00 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

≫ EDIT

徳川家継の墓

Dsc_0038
芝増上寺の七代将軍・徳川家継の墓
   
   
   
 七代将軍徳川家継は歴代将軍の中で最も若く、わずか四歳で将軍に就任しています。父の家宣が48歳で六代将軍に就任して三年半で病死したためですが、他の兄弟も幼くして亡くなり実子が家継一人となったためです。また、家宣は家継が幼すぎるため死の間際、側近の新井白石を呼び次期将軍について相談しています。一つは尾張の徳川吉通を将軍に迎え、家継が成長するのを待つ案。もう一つは家継が将軍になり吉通は家継の世継ぎとなって政務を代行する案を提示します。しかし白石は尾張家から幕府へ家臣が入り軋轢が生まれる事を懸念し反対したため後継が決まらないまま家宣が亡くなり家継が正徳3年(1713)に将軍となりました。
 家継は利発であり将軍の器を備えていたといわれますが幼すぎたため、政務は家宣の側近であった新井白石、間部詮房、家継の生母、月光院が取り仕切ります。特に大奥では月光院と家宣の正室であった天英院の勢力争いが激化していきます。そんな中、正徳4年(1714)に月光院の側近であり大奥を取り仕切っていた年寄の絵島が月光院の代理として芝増上寺にある家宣の廟へ参拝した帰りに「山村座」で芝居見物の後、接待を受けたため門限までに帰れないという出来事がおこりました。当時、表向きは芝居見物は禁止されていましたが普段は見過ごされていたにもかかわらず、この時は問題視され、絵島が人気役者生島と密通したとの疑いもかけられます。町奉行や大目付の徹底した取調べの末、江島は信州高遠藩へ流罪となります。江島の兄弟は死罪となり、生島や山村座座長は遠島になる等、大勢の人々が処分されました。
 「絵島生島事件」と呼ばれるこの事件により月光院の権勢は著しく低下し、天英院派の勢力が拡大したため、事件は月光院、白石、詮房を追い落としたい天英院一派と綱吉時代の幕臣達による、でっちあげであるという説もあります。
 家継は将軍就任から4年後の8歳の時に病死しますが、後継は天英院が推す紀州の吉宗に決まります。

| 江戸時代 | 11:24 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

≫ EDIT

井山十段防衛!

十段戦五番勝負は3-1で井山十段の初防衛となりました。


二年連続の張棋聖との対決を制しています。



この二人の組み合わせは非常に多く、井山十段にいたってはタイトル戦の相手はほとんど張棋聖ということになります。



これまでの井山十段のタイトル戦、張5回、高尾、山下、結城1回となっています。本因坊戦の挑戦を決めて山下と2回になります。



少し前に張・山下の「山張対決」で、タイトル戦の組み合わせで記録が出たとありましたが、この二人の記録を抜くかもしれません。もちろん「山張」もこれからも回数は増えていくでしょうが。



現在7大タイトルを持っているのも、この3人が二冠ずつ(あとひとつは羽根碁聖)です。



次は本因坊戦です。どちらが勝つか楽しみなシリーズです。対局内容もわくわくしながら見ましょう。



 



LG杯(世界棋戦)は、日本勢予選1回戦を11人が突破しました。2回戦からの棋士も含めて何人が予選突破するのでしょうか。

| プロ対局 | 07:38 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

≫ EDIT

徳川家宣の墓

Dsc_0037

六代将軍、徳川家宣の墓
             
                                                   
 昨年、NHK大河ドラマ「江~姫たちの戦国」の放送を記念して、芝・増上寺では通常非公開の徳川家霊廟が公開されていました。当時、秀忠と江の墓はブログで紹介しましたが、その他の歴代将軍の墓は紹介していませんでしたので今回紹介します。
 上記写真は六代将軍、徳川家宣の墓です。家宣は三代将軍家光の孫にあたります。徳川宗家は家康から四代将軍家綱まで順調に世継ぎが生まれましたが、家綱に世継ぎが生まれず、病気で亡くなる前に末弟の館林藩主、松平綱吉を養子に迎えます。しかし、五代将軍綱吉も世継ぎに恵まれなかった事から、甥である甲府藩主、松平家宣を死の間際に養子とし跡を継がせました。
 家宣は綱吉が将軍家を継いだ時も有力なライバルであり、六代将軍となったのは宝永6年(1709)48歳の時でした。将軍就任後、悪評の高かった「生類憐みの令」を廃止する等して庶民から期待されます。門部詮房や新井白石を登用して、後に「正徳の政治」と呼ばれる政策を推し進めますが、将軍就任後わずか3年で死亡しました。

| 江戸時代 | 06:38 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

≫ EDIT

上野駅公園口通路は歴史の舞台の跡地だった。

Dsc_0052
入谷改札付近から公園改札側に抜ける公園口通路



 以前、撮影した写真の中に上野駅構内を撮ったものがありました。公園改札から入谷改札に通じる公園口通路で、私も電車の乗り換えでよく歩いている場所です。通路の北側(写真の右側)のホームへ降りる階段付近は江戸時代には車坂という坂がありました。車坂の坂下付近には本因坊の道場があり、本因坊秀策もここで修行しています。
 ところで、公園口通路自体は何があったのでしょうか。江戸時代の地図をみてみると、「顕性院」という寺の跡地である事が分かりました。「顕性院」は上野寛永寺の塔頭の一つで尾張徳川家の初代、義直により創建されました。尾張家は寛永寺に参拝するときに宿坊として利用しています。
 ところで、八代将軍、徳川吉宗の時代である元文4年(1739)に、ここでひとつの事件がありました。享保の改革を推進し質素倹約により幕府の財政再建を図る吉宗と、尾張領国にて規制緩和により経済の活性化を図る藩主、徳川宗春の対立はこの当時決定的でした。六代将軍綱吉の命日にあたり吉宗が寛永寺に参拝する事になり、慣例では御三家や徳川一門が同行する事になっていましたが、宗春については自粛するよう家臣が進言します。
 しかし、宗春は出席を強行しようとし、顕性院に赴き待機します。しかし、吉宗は宗春が待機している事を聞き参拝を急遽取りやめてしまいました。数日後、幕府より宗春に対して隠居と謹慎が申し渡されます。謹慎は生涯解かれる事はなく、死後も墓に金網がかけられたといいます。
 宗春の隠居により尾張藩では彼の政策は全て否定され質素倹約に努めます。しかし、彼の政策により名古屋は大いに発展し現在でも日本有数の都市となっているのです。

| 江戸時代 | 23:12 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

≫ EDIT

アマ名人戦東京大会

遅くなりましたが、アマ名人戦の東京代表の2名が決まりました。


平岡聡さんと横塚力さんです。



平岡さんはご存じのトップアマです。全国優勝多数の強豪で、シード権がないのが不思議なくらいです。



横塚さんはまだ若いです。この間まで院生でプロを目指していました。院生はやめましたが、おそらく現在でもプロを目指されているのでしょう。クラスも一番上までいった方で、代表有力候補だというのを会場で同年代若手が言っているのを耳にしました。



決勝では平岡さんが貫録を見せつけました。



結果は、



優勝 平岡聡



二位 横塚力



三位 平田博則



四位 鮫島一郎



というものでした。



ビッグネームが並んでいますね。



平田さんも鮫島さんも全国優勝の強豪です。



 



 



さて、私はというと、2日目本戦一回戦で負けてしまいました。



その方もベスト8まで勝ち上がりましたが、惜しくも負けてしまわれました。

| アマ対局 | 19:46 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

| PAGE-SELECT | NEXT

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。