烏鷺光一の「囲碁と歴史」

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方円社の会館跡が東京の新しいランドマークに

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現在、方円社跡地では超高層ビルの建築が行われています。



 方円社は明治12年に創設されて以来、度々、拠点となる会館を移転させています。明治43年(1910)には、芝区桜川町2番地に移転しています。この後の移転先は関東大震災から日本棋院設立まで激動の時代となるため事実上、本格的活動した最後の場所といえるでしょう。
 現在の住所は虎ノ門にあたり、その場所では森ビルにより「環状第二号線新橋・虎ノ門地区第二種市街地再開発事業 Ⅲ街区」の工事でビルの建築が行われていました。地下5階・地上53階建で高さ246メートルの超高層ビルで建物の中に環状二号線が貫通する計画です。平成26年完成の予定との事ですが「方円社」のあった場所が新しい東京のランドマークとなるのは間違いありません。


現在の住所:東京都港区虎ノ門1丁目26

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| 方円社 | 23:25 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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第7回囲碁アマ名人戦東京予選1日目

日本棋院にてアマ名人戦の東京大会があり参加しました。


3週続けて日曜日に予選がおこなわれます。



初日の今日は3回戦の対局をおこない、2勝すれば突破というもので、2日目からはトーナメントになります。



とりあえず初日は突破!



来週またがんばります。

| アマ対局 | 19:02 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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囲碁界の新しい波「方円社」発祥の地は秋葉原

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旧東京神田・花田町跡(ソフマップ秋葉原本店付近 千代田区外神田4-1-1)

数件先にはAKB劇場で有名なドンキホーテがあります。



 私が発行している囲碁の歴史を紹介した雑誌「囲碁人」8号(今月発行)で方円社を中心とした明治期の囲碁界の様子を特集します。今日はその中で取り上げる話を少し紹介します。

 明治に入り幕府という後ろ立てを無くした囲碁界では棋士の力を発揮する場所が求められていました。そんな中、当時の第一人者であった村瀬秀甫(後の本因坊秀甫)や中川亀三郎らが中心となって囲碁研究会「方円社」を立ち上げます。明治12年(1879)4月20日の事で発会式は各家元の当主クラスも参加し神田区花田町の「相生亭」で行われたと記録されています。

 「相生亭」については詳しい情報はありませんが、花田町は区域が意外と狭く場所を特定する事が出来ました。現在の千代田区外神田になり、秋葉原駅近くの「ソフマップ秋葉原本店」から道路を挟んだ愛三ビルにかけてがその区域になります。現在も世界に向けて新しい文化を発信し続けている秋葉原で明治期に囲碁界でも新しい波が起こったかとおもうと感慨深いものがあります。

 研究会は何度か行われましたが、実力第一主義で家元の格式を認めない運営方針に家元側が反発し僅か五ヶ月ほどで脱退し「方円社」社員の段位をはく奪するという行動に出ます。

(同年に先代の病のため急遽当主を継承した本因坊秀元に対してまだ段位が低かったため席次を低くしたり、他の家元へのお茶出しをさせたりしたそうです。)

 この後、秀甫は方円社を再組織し社長として運営していきますが、以降、関東大震災を機に日本棋院が設立され再統合されるまで、囲碁界は方円社と家元側との対立を中心に離合集散を繰り返すこととなります。



| 方円社 | 06:24 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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パワースポット小野照崎神社と藤沢秀行

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小野照崎神社の社殿と鳥居

 最近、パワースポットがブームですが、東京でパワースポットとして有名な神社に「小野照崎神社」があります。先日訪れてみましたが台東区下谷という都会のど真ん中にありながら、たしかに神社の境内は周辺と一線を画し何かパワーを感じる空間でした。



 パワーのおかげかもしれませんが俳優の渥美清は、仕事が無いとき、ここで「大好きな煙草を断つので仕事を下さい」と願掛けをしたところ、間もなく「男はつらいよ」の主役に選ばれたといいます。



 主祭神は小野 篁(おののたかむら)という平安時代の歌人でその詩は百人一首の一つに選ばれています。上野に国司として赴任していて、その景色を愛していたことから、死後、仁寿2年(852)に上野照崎という地に神社が建てられました。江戸幕府が出来、上野に寛永寺が建てられた時に現在地に移転しています。




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藤沢秀行の碑

 社殿の前に変わった形の碑が建っています。平成21年に亡くなった囲碁の藤沢秀行名誉棋聖の記念碑です。碑に刻まれた「強烈な努力」とは書道家としても有名な秀行が死を目前にして弟子達に残した最後のメッセージとして有名な言葉です。



 囲碁では棋聖戦6連覇をはじめ、各タイトルを総なめにした天才的な棋士であり多くの弟子を育て上げながら、私生活では酒、ギャンブル、女性関係、借金と数々の伝説を作り上げた破天荒な生き方は人間的な魅力にあふれ多くのファンに愛されました。



 



 場所:東京都台東区下谷2丁目13-14



| 日本棋院 | 22:53 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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十世本因坊列元の墓碑(幸手市)

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列元の墓碑がある澤村家の墓地



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列元の墓碑。「本人坊」と刻まれている。



 八世本因坊伯元、九世察元は、埼玉県幸手市の出身である事は古くから知られていましたが、十世列元は江戸の生まれで幕府数寄屋方の組頭である山本家の出身であるというのが定説でした。一時、澤村性を名乗っていたことも分かっていて謎とされてきました。



 幸手市では市史編さんにともなう市内石造物調査を行っていたところ平成15年に察元の墓碑を発見しました。このニュースを見た市内上吉羽の澤村さんが先祖の墓地に「本人坊」と書かれた墓があり、家に伝わる古文書に差出人が本因坊と書かれた手紙がある事を届け出ました。



 研究者の調査により、澤村家の分家の過去帳に「列元」の記載を発見し、従来の定説を覆して列元が幸手市の出身であったことが判明したのです。



 「本人坊」の表記ですが、江戸時代は「本因坊」は「ほんにんぼう」と発音していたため墓を造るとき当て字で「本人坊」と刻まれたのではないかと推測されています。
 列元は、棋道中興の祖と呼ばれる察元の跡を継ぎ本因坊家の格式、権威を守ろうと努めます。各家元の跡目の中で本因坊家跡目を筆頭とすることにも成功しています。


墓碑の住所:埼玉県幸手市上吉羽328



| 本因坊家 | 10:36 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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九世本因坊察元の墓碑(幸手市)

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共同墓地の一画に墓碑があります。



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中央前列にあるのが察元の墓碑



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「本因坊上人之墓」と刻まれている。




 埼玉県幸手市は8世本因坊伯元から10世列元まで三代続けて本因坊を輩出したところです。9世本因坊察元は現在の幸手市平須賀の間宮家の出身で、幼いときに同じ幸手出身の8世伯元の門人となります。




 22歳の頃、伯元の病のため跡目となり本因坊家を継承しました。当時、伯元まで三代の当主が続けて20代で段位も7段に満たない時に亡くなったため、囲碁界全体が勢いを失い「暗雲の時代」と呼ばれていました。



 察元は自分の使命は本因坊家を再び隆盛に導くことと考えていたのか、かなり強引に七段に昇段し、その後八段準名人になった後は名人碁所の座を狙います。察元以前の囲碁界は五世林因長門入が名人碁所を狙った事から林・井上家と本因坊・安井家の2派に分かれて対立していましたが,察元の強引さに反発した安井家が反対派に回り、変わって五世本因坊道知の門下であった祐元が継いだ林家が味方につく展開で対立が続きます。



 最終的に、明和7年(1770)に老中列席のもと寺社奉行の裁定で察元は道知以降空席となっていた名人碁所となりました。



 名人碁所となった察元は、大名行列さながらの行列を組み、京都寂光寺へ墓参りして本因坊家の威光を示します。



 察元の強引な行動により家元の対立が続きましたが、その結果、家元達の自覚を促すこととなり低迷していた囲碁界は再び活気を取り戻す事となりました。また当時の将軍家治は、囲碁・将棋に理解があり特に将棋の腕前は素人の域を超えていたといいます。その家治が自ら御城碁観戦を行った事もあり、囲碁界は「暗雲の時代」をようやく抜け出すことが出来ました。そのため察元は「棋道中興の祖」と呼ばれています。



 死後、本妙寺に歴代本因坊とともに葬られましたが、故郷、幸手市で近年、墓碑が発見されました。




 墓碑の場所:埼玉県幸手市平須賀3018 共同墓地

| 本因坊家 | 21:27 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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八世本因坊伯元の墓碑(幸手市)

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本因坊伯元の墓は実家である尾崎家の墓の一画にあります。

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他の墓に囲まれて分かりにくいですが「本因坊伯元」と刻まれています。



                     

 埼玉県幸手市は八世本因坊伯元、九世察元、十世列元と三代続けて本因坊を輩出したところです。現在、各本因坊の墓碑が発見されてそれぞれゆかりの場所に設置してありますが、永くその存在は知られていませんでした。



 平成11年から始められた市教育委員会と市民ボランティアによる市内石造物調査により偶然見つかったそうです。



 八世本因坊伯元は武蔵国幸手郡天神島村の小崎家出身で天文5年(1740)15歳の時に七世本因坊秀伯の門下に入ります。翌年には秀伯が危篤となり五世安井仙角が付添人となり八世本因坊となりました。門人となって日が浅く、年も若い伯元が跡を継いだのはそれだけ将来を期待されての事でしょう。この後、先代の頃から続いていた林因長門入の名人碁所就任問題については仙角とともに反対し、若く才気溢れる伯元との争碁を嫌った門入は願いを取り下げています。



 このように、将来を期待されていた伯元ですが宝暦4年(1754)に病に倒れ、弟子で同郷の察元を跡目として僅か29歳でこの世を去ってしまいました。



 この時期は囲碁界の中心であった本因坊家で6世知伯、7世秀伯、そして8世伯元と立て続けに20代で当主が死亡したため囲碁界全体が衰退していき、「暗雲の時代」と呼ばれています。



墓の場所:埼玉県幸手市天神島282
   「てんじん保育園」となりの墓地です。

| 本因坊家 | 13:04 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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上野大仏(上野公園)

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 上野公園にある仏塔パゴダ(ミャンマー形式の仏塔)がある丘(大仏山)に、かつて大仏がありました。



 
寛永8年(1631)に 越後村上藩主、堀直寄が戦死者慰霊のため漆喰で出来た大仏を建立したのですが、正保4年(1647)の地震で倒壊 してしまいました。
その後、万治年間(1660頃)に青銅製の大仏が再建され、元禄年間(1690 頃)には大仏殿も完成しました。


 その後も地震や火事のたびに修復を繰り返して来ましたが、関東大震災でも 被災し頭部が落下します。そして再建を目指しますが
修復費用が思う様に集まらず、ご尊顔だけを寛永寺に保管しました。一方残ったお身体は、第二次世界大戦で武器を造るため軍に供出されてしまいました。


 戦後の関東大震災50回忌に大仏再建を祈願してバゴタが建設され、昭和47年(1972) に。ご尊顔がレリーフとして元の大仏山に設置されました。



 このように、ご尊顔だけになってしまった上野大仏ですが、逆にこれ以上落ちないという事から近年、「合格大仏」として多くの受験生やその家族が参拝しているそうです。

| 歴史あれこれ | 10:06 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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彰義隊の墓(上野公園)

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 上野公園の西郷隆盛像の近くに彰義隊の墓があります。



 最後の征夷大将軍であった徳川慶喜が大政奉還し上野寛永寺で謹慎すると、慶喜の助命嘆願と身辺警護を目的として幕臣や出身の一ツ橋家を中心として彰義隊が結成されます。



 西郷隆盛と勝海舟の会談により江戸城が無血開城されると慶喜は水戸へ移りますが、彰義隊は寛永寺の徳川家墓所を守ることを名目に寛永寺を拠点に江戸に残ります。



 西郷から江戸の治安維持を任された勝は懐柔のため江戸の警備にあたらせていましたが、彰義隊自ら新政府の兵士を惨殺する等したため、新政府は京都から大村益次郎を派遣します。大村は彰義隊の解散を勧告しますが従わないため寛永寺周辺を包囲し総攻撃を開始しました。慶応4年(1868)の事で上野戦争と呼ばれています。彰義隊は僅か一日で壊滅し多くの死者をだしました。そして、その遺体は賊軍であるとしてそのまま放置されていましたが、見かねた三ノ輪の円通寺(現在は南千住)の住職が供養の許可を得て同寺へ埋葬しました。寛永寺ではその返礼として激戦地であり寺の総門であった黒門を円通寺に贈っていて現存しています。



 なお、上野にある墓は彰義隊が陣を張っていたあたりで遺体を火葬した場所に建てられた墓碑で政府を気にして「戦死之墓」とだけ刻まれています。



 本因坊家最後の当主・本因坊秀哉(田村保寿)の父は旗本の家に生まれ彰義隊に参加していたそうです。




  ※以前、紹介した円通寺のブログ。



    http://uro.blog.ocn.ne.jp/blog/2011/05/post_9c16.html

| 幕末・明治維新 | 22:21 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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西郷隆盛の銅像(上野公園)

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 上野公園の西郷隆盛の銅像を見てきました。いつも電車の窓から見ていて、上野公園にも何度も来ているのに、いつでも行けるという思いがあったからなのか何故か行きそびれていたので蜀山人の碑を見に行ったあとに訪れてみました。


西郷隆盛は明治維新の立役者でしたが明治6年の政変で下野し故郷の鹿児島へ帰り私学校を開きます。明治10年に新政府の政策に不満を募らせ各地で士族の反乱が起こる中、私学校の生徒が暴動を起こした西南戦争が勃発し西郷が指導者となり激戦の末、自刃します。


 西郷を大変気に入っていた明治天皇は、彼の死を聞き「西郷を殺せとは言わなかった」と洩らしたと言われています。西郷は朝敵となりましたが、明治天皇のそんな思いもあってか明治22年の大日本帝国憲法発布に伴う恩赦で赦免されています。上野の銅像は高村光雲作で明治31年に建立されましたが、朝敵であった西郷を顕彰するのに反対する人々もいたため軍服ではなく着物で愛犬をつれて狩りをしている姿にしたと言われています。


 西郷は親友であった大久保利通と同じく囲碁を趣味としていたようです。西南戦争時も洞窟の中で囲碁を打っていたと伝わっています。そんな事から明治100年を記念して昭和42年に日本棋院から名誉七段が贈られています。


| 囲碁史あれこれ | 23:05 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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