烏鷺光一の「囲碁と歴史」

2012年01月 | ARCHIVE-SELECT | 2012年03月

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服部半蔵の墓

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西念寺本堂(左)と服部半蔵の寺(右)

 徳川家康の三河時代からの家臣である服部正成は通称を半蔵といいました。というより「服部半蔵」という方が一般的でしょう。


 服部家は伊賀国出身でしたが、半蔵の父は家康の祖父松平清康に仕えます。家督を継いだ半蔵は戦において戦功を重ね出世していきます。特に槍が得意で「槍の半蔵」という異名を持っていました。


 家康の長男である信康が織田信長の命により切腹する際、介錯を命じられますが涙を流して実施することが出来ませんでした。この出来事により家康の信頼を益々勝ちとっていきます。


 本能寺の変が発生した折は、先祖が伊賀国出身という事もあり、茶屋四郎次郎清延とともに伊賀・甲賀の土豪と交渉し家康の京都脱出の警護を依頼し世に言う「神君伊賀越え」を成功させました。この時協力した土豪(忍者)は伊賀同心、甲賀同心として家康に仕えますが、その指揮を半蔵が任されています。この事から「服部半蔵」は忍者の頭領として知られていますが、実際には本人は忍者ではなかったのです。


 家康が江戸城に入ると正成は大手門と正反対の門の前に屋敷を構え警護します。有事の際、将軍を守って脱出するためで門の名前は「半蔵門」と名付けられました。(名前の由来には異説もあります。)


 墓は服部家の菩提寺である四谷駅近くの「西念寺」にあります。元々紀尾井町の清水谷公園付近にありましたが江戸城の拡張に伴い現在の場所に移転しています。お寺には半蔵の槍も残されています。



              西念寺 住所:新宿区若葉2-9



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| 江戸時代 | 21:36 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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半蔵門

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区立千鳥ヶ淵公園から眺める半蔵門(左)と正面から見た半蔵門(右)




 半蔵門は江戸城の正門である大手門の正反対にある門です。名前の由来ですが家康の家臣で伊賀・甲賀の忍者を指揮していた服部半蔵(正成)の屋敷が門前にあり警護していたためと伝えられています。


 甲州街道へと続くこの門近辺は、半蔵だけでなく伊賀同心の組屋敷や多くの旗本の屋敷が建ち並び、有事の際には将軍を幕府の天領である甲府へ逃がすためであったと考えられています。


 現在の門は、以前の門が太平洋戦争による空襲で焼失したため、和田倉門の高麗門を移築したそうです。


 門は皇居、吹上御所に近く、皇族の出入口として使われているため一般人は近付くことが出来ません。



| 江戸時代 | 16:55 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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国会議事堂

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 国会議事堂の前を通りましたので写真を撮ってきました。



 国会議事堂とは言うまでもなく国会が開催される建物ですが、その歴史についてはあまり知らなかったので、ちょっと調べてみました。


 現在の国会議事堂が現在地である永田町一丁目に建設される事が決まったのは明治20年(1887)の事ですが、同時に計画された官庁の霞ヶ関への集中化計画により本格的な議事堂を建設するには時間も資金も不足したため中止し別の場所に仮議事堂が建てられました。その後、仮議事堂の焼失による第二次仮議事堂の建設。日清戦争勃発による広島大本営に臨時議事堂建設等、色々な経過を経て、ようやく、本格的な議事堂建設に着工したのは大正9年(1920)のことです。


 建築工事中も色々あり、大正12年には関東大震災が発生。建築中の議事堂も仮議事堂もこの時は難を免れましたが、大正14年に仮議事堂が改修工事中の失火のため全焼し、第三次仮議事堂が建設されることになりました。この影響で新議事堂の完成は更に遅れる事となりました。



 ようやく竣工したのが昭和11年(1936)11月で着工から17年経っていました。ちなみに、竣工の数か月前の同年2月26日には陸軍武装青年将校が蜂起し永田町一帯を占拠した「二・二六事件」が発生しています。


 このように、完成までに色々あった国会議事堂ですが、完成後も第二次世界大戦や戦後の日本の激動の歴史を現在も見守り続けています。

| 昭和時代 | 11:12 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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桜田門

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桜田門  高麗門(左)と渡櫓門(右)

 桜田門は寛永13年(1636)に徳川家康が江戸へ入府した際に修築されました。第一の門(高麗門)と第ニの門(渡櫓門)で構成されています。大正12年に関東大震災で破損したため鋼鉄土蔵造りに改修されています。昭和36年、国の重要文化財に指定されました。



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 警視庁(写真左側)と国会議事堂(右側)。国会議事堂手前の木が生えている所が井伊家上屋敷跡。



 桜田門といえば警視庁を指す隠語でもありますが、これは庁舎が桜田門の前にあるからです。テレビの刑事物のドラマに、よく登場する建物です。元は、三河松平家の庶流である能美松平家が治める豊後国杵築藩の屋敷跡だったそうです。



 また、桜田門といえば、、安政7年(1860)に桜田門外において水戸藩、薩摩藩の脱藩浪士が、大老・井伊直弼を暗殺した「桜田門外の変」が有名ですが、彦根藩の上屋敷である現在の国会議事堂前にある国会前庭が門の前から良く見え、近距離の登城時間に襲撃された事が良く分かります。



 江戸時代には武鑑(大名の人名録)を片手に堀沿で登城してくる大名を見学する人々が結構いて、襲撃犯の一部は、そうした人々を装っていたとのことです。

| 江戸時代 | 22:55 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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桜の井

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 現在、国会前庭(北区)となっている、彦根藩井伊家上屋敷跡の桜田濠沿いに「桜の井」と呼ばれる名水が湧き出る井戸がありました。



 場所は藩邸の正門あたりだったそうで、江戸時代には道行く人々に水が振る舞われていました。



 現在の井戸は当時の物で東京都指定旧跡ですが、元々は十メートルほど離れたところの交差点付近にあったのを道路工事のために移転復元したそうです。



 井戸の隣には井伊家屋敷跡の標柱が建っています。



| 江戸時代 | 06:22 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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国会前庭~井伊家上屋敷跡

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 東京都千代田区永田町の国会議事堂の前にある庭園の内、北地区の洋式庭園は江戸時代初期に加藤清正の屋敷がありました。次いで彦根藩井伊家の上屋敷となり幕末まで続きます。



 有名な「桜田門外の変」で殺された井伊直弼も、この上屋敷から登城する途中に襲われています。屋敷から桜田門まで500mくらいのわずかな距離でした。



 



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 庭園内には、日本の標高の基準となる「日本水準原点」がありました。明治24年に設置されたもので「日本水準原点」を保護する「日本水準原点標庫」はローマ神殿風の建物で明治期の数少ない洋風建築物として東京都指定有形文化財に指定されています。



| 江戸時代 | 22:36 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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大岡越前の屋敷跡

 名奉行で知られる大岡越前守忠相は旗本であり6代将軍家宣の時代に伊勢神宮を守護する山田奉行を務め隣接する紀州藩との領地争いを公正に裁いています。

 それが目に留まったのか紀州藩主であった徳川吉宗が将軍となると南町奉行に抜擢され、吉宗の享保の改革を推進するブレインとなっていきます。

 町奉行時代、江戸町火消しの整備や貧しい病人のための養生院である「小石川療養所」の設置等、様々な政策を実施しています。

 町奉行の後は寺社奉行となりましたが、元々寺社奉行は大名の役職であり加増されたとはいえ旗本であった忠相は同役達に虐げられます。しかし吉宗は忠相の功績に応え現在の愛知県岡崎市に西大平藩1万石を創設し忠相を初代藩主とします。西大平藩は幕末まで大岡家が藩主を務めています。

 ところで忠相は囲碁界を救った人物としても知られています。

 今でこそ囲碁と将棋は同列に扱われていますが江戸時代は囲碁が序列の上位と位置付けられていました。ところが、忠相の時代は囲碁界では「暗雲の時代」とも呼ばれている時期でした。本因坊家では六世知伯、七世秀伯、八世伯元と相次いで二十代で没したため囲碁界全体が勢いを失い衰退していきます。一方、将棋は伊藤宗看が二十代で名人になる等、隆盛を極めていました。幕閣にも将棋派が多く宗看は序列を変えようと申し立てを行います。

 しかし、双方を管轄する寺社奉行の忠相は今までどおりという裁定を下します。別に忠相が囲碁好きという事ではなく初代家康の決定した事を変える必要は無いという判断だったようです。いずれにしても、囲碁界は今までの地位を保つことができ、この後、名人察元が出て再び発展していきます。

 忠相の屋敷は現在の霞ヶ関にありました。


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大岡越前守忠相の屋敷跡には東京メトロ霞ヶ関駅のB1a出口にある弁護士会館が建っている。写真の地下鉄入口後ろに写っている建物が弁護士会館。入口に接した垣根の所に屋敷跡の案内板がある。

| 江戸時代 | 22:34 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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皇居外苑~楠正成公の銅像

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 皇居外苑に、鎌倉時代末期から南北朝時代に活躍した「楠正成」の銅像が建っています。皇居外苑のシンボル的存在となっています。



 楠正成は後醍醐天皇に従い鎌倉幕府倒幕のために挙兵し、足利尊氏や新田義貞の合流により幕府は滅びます。その後、後醍醐天皇による建武の新政が始まりますが、足利尊氏が離反し南北朝時代となると正成は後醍醐天皇の南朝に付き尊氏と戦いますが討ち死にしてしまいました。



 室町幕府、正成は朝敵とされましたが江戸時代は家康が同じ南朝の新田義貞の流れをくむとされたため忠臣とされています。明治時代には南北時代のどちらが正統かという論争があり南朝が正統とされると、正成は忠臣として再評価されました。



 銅像は明治33年に建立され、戦時中の金属供出も免れている。GHQの占領時代に軍国主義につながる銅像は撤去されたが、これも免れている。



| 鎌倉時代 | 16:42 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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皇居外苑~松平家の碁会

 江戸時代は幕府による囲碁の保護により囲碁文化が華々しく発展した時代といえるでしょう。

その中で最大の碁会といえるのが天保6年(1835)7月に開催された「松平家の碁会」です。

 老中首座の浜田藩主・松平周防守康任邸で行われ、対局は、名人碁所の本因坊丈和と赤星因徹。他に井上因碩―安井俊哲戦、安井仙知―林柏栄戦、林元美―服部雄節戦、本因坊丈策―坂口虎次郎戦など囲碁四家の当主、跡目クラスが総出演した大変豪華な碁会でした。しかし、その豪華な対局の裏では各自の様々な思惑が絡みあっていました。

 丈和は「天保の内訌」により争碁を打つ事なく天保2年(1831)に突然、名人碁所に任命されます。碁会を取り仕切った浜田藩の国家老・岡田頼母は安井家門人であり、丈和を参加させて打ち負かし名人の資格はないと公儀に訴えようという家元達の思惑があったのかもしれません。対局者は因碩の弟子で実力八段と言われた七段の赤星因徹でした。対局は赤星の優勢で進みますが、丈和は有名な「丈和の三妙手」を放ち勝利します。この時、赤星は血を吐き二ヶ月後に亡くなるという壮絶な対局でしたが「吐血の局」と呼ばれ古今の名局の一つに挙げられています。

 一方、主催の松平家にもある事情がありました。

天保5年(1834)に老中首座となった石見浜田藩三代藩主・松平周防守康任は、但馬出石藩の筆頭家老仙石左京の息子へ姪を嫁がせていますが、この出石藩で御家騒動(仙石騒動)が起こり康任は左京に有利な取り計らいをします。この騒動は康任に対抗し政権を掌握しようと考えていた老中水野忠邦の格好の材料となり取り調べの結果天保6年(1835)に左京は処刑されます。

 また、同時期、浜田藩にて竹島(現在の竹島ではなく鬱陵島)で行った密貿易事件が発覚しますが、藩の苦しい財政を救うため頼母も関与し、康任も黙認していたとされています。

 碁会はこうした事態の情報収集や打ち合わせのために、国家老の岡田頼母が上京する口実として使われたようです。

 結局、康任は老中を退き永年蟄居を命じられます。また、岡田頼母は事情聴取のため江戸への上京を命じられますが切腹してしまいました。

 一方、康任の失脚に成功した水野忠邦は、後に老中首座となり、「天保の改革」に取り組んでいきます。

 ところで、「松平家の碁会」はどこで開かれたのでしょうか。当時、上屋敷は西丸下(現・皇居外苑)、中屋敷は木挽町五丁目(現・新橋演舞場)、下屋敷は鉄砲洲(現・聖路加国際病院)・戸越村(品川区戸越)にあったようです

 会場は松平周防守邸となっていますので、ここからは推察ですが当時一般的には単に「~邸」と表記されていた場合、上屋敷を指す場合が多かったようです。碁会は老中退任記念で開かれたという説があり退去間近の上屋敷で開くかという意見もありますが、当時、老中首座に就任したばかりで退任する意思はなかったのではという研究者もいて上屋敷にて老中の権威を見せつけるためにも上屋敷で開催された可能性が高いと考えられます。

 

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「松平家の碁会」が開催された当時の上屋敷の場所。役職に対して幕府より貸与された屋敷で老中退任後、上屋敷は当時の中屋敷に移っています。
松平康任を追い落とした水野忠邦の屋敷が隣にあったのは意外でした。

    
             


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現在の屋敷跡。敷地跡に内堀通りが通っています。



| 囲碁史あれこれ | 23:54 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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保科正之と「天地明察」



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「天地明察」の本と映画のチラシ

 保科正之が囲碁好きで囲碁家元の安井算知に囲碁を習っていた事を紹介しましたが、その繋がりからのお話を紹介します。

 正之が囲碁の手ほどきを受けた安井算知は一世安井算哲の弟子で算哲の養子となります。算哲が亡くなった時、実子の長男が二世安井算哲となりますが13歳と幼少であったため算知が安井家を継ぎます。この兄弟を中心に安井家は御城碁に出仕しますが、その際の宿泊場所が先に紹介した保科正之の屋敷だったそうです。


 二世安井算哲についてですが、囲碁だけでなく算術、天文学にも精通していました。当時使われていた「宣明暦」は800年前に唐から伝わったもので、永年の間の誤差により2日間のずれが生じていた事から中国の新しい暦「授時暦」を基に独自の観測データで修正を加えた日本初の国産暦「貞享暦」を完成させます。これにより算哲は碁方を辞し、幕府初代天文方に就任します。そして、名前を渋川春海と改めました。

 この史実を小説にしたのが第7回本屋大賞(2010)を受賞した冲方 丁の「天地明察」です。今年9月には映画が上映される予定で、主役の渋川春海がV6の岡田准一、保科正之を松本幸四郎が演じるそうで、今から楽しみです。

 いずれにしても、渋川春海は、ずば抜けた天才という訳ではなく、彼より優れた人物がたくさんいた中で「貞享暦」が採用されたのは政治力によるものだという事です。それは、保科正之との繋がりであり、御城碁に出席していた事による人脈の広さによるものです。



| 囲碁が関わった出来事 | 13:20 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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