烏鷺光一の「囲碁と歴史」

2011年12月 | ARCHIVE-SELECT | 2012年02月

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太田道灌追慕之碑

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 皇居東御苑(江戸城)の平川門にかかる橋の近くの公園に「太田道灌追慕之碑」が設置されています。
 太田道灌は、室町中期の武将で歌人としても有名。名は、資長(すけなが)、道灌は法名です。関東官領上杉氏の一族である扇谷上杉家の重臣で1457年に江戸城を築城しました。文武両道に優れ、三十数戦して負け知らずの名将であり主君扇谷上杉家の勢いは増しましたが、道灌の力が増大することを恐れた主君により暗殺されます。道灌の死により関東は上杉家の支配から、その後進出してきた北条早雲の支配へ変わっていきます。



  「太田道灌追慕之碑」は道灌没後450年を記念して昭和11年に当時の東京市長により建立されましたが、その後放置情態となっていたのを江戸城築城550年である平成19年に関係者により再整備しています。碑に使われた石は地下鉄工事中に出土した江戸城で使われていた石垣だそうです。



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| 室町時代 | 23:48 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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平川門

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 平川門は江戸城の北側にある門で、現在は東御苑に通じる門ですが閉じられていて一般の人は出入りする事は出来ません。門は太田道灌が築城した時には、すでにあったそうです。



 門の位置は江戸城の鬼門にあたり、別名「不浄門」とも呼ばれ江戸城で亡くなった方や罪人を出すために使われたそうです。忠臣蔵の浅野内匠頭や「江島生島事件」の大奥御年寄江島も罪人としてこの門から出ていきました。



 また、大奥に近い事もあり、「御局御門(おつぼねごもん)」とも呼ばれ、大奥女中の通用門としても使用されていました。有名なエピソードとして三代将軍家光の乳母春日局が外出した際、門限をわずかに過ぎたため門を閉じられてしまいました。この時、門番をしていた旗本小栗又一郎は例え誰であっても規則であるため門を開ける事は出来ないと言い、結局、春日局は門前で一夜を明かしました。春日局側は立腹しましたが小栗は御役目を守ったという事で加増されたそうです。ちなみに、又一郎は、幕末に勘定奉行等で活躍し徳川埋蔵金伝説でも有名な小栗上野介の先祖です。



| 江戸時代 | 07:16 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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竹橋御門跡

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竹橋御門の碑




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御門跡の石垣




 江戸城北側にある平川門の西側に架かっている橋を「竹橋」といいます。現在の橋は関東大震災復興事業として大正15年に完成していますが、橋は徳川家康が入国した当時からあったそうです。この時、竹を編んで渡されたため「竹橋」と名付けられたという説があります。


 ここには江戸城内曲輪15門の一つ「竹橋御門」がありました。橋の西詰の公園に石垣と碑があります。


 碑のあるあたりに明治に入り駐屯していた陸軍近衛兵部隊が明治11年に反乱を起こした「竹橋事件」が発生しています。西南戦争後の行賞等に不満を持った近衛砲兵大隊の約260名が行賞削減を行ったといわれる大蔵卿大隈重信公邸を砲撃。近隣に火を放ち赤坂仮皇居に進軍しますが、近衛歩兵隊に鎮圧されます。反乱に加わった者のうち、五十数名が銃殺されています。この事件をきっかけとして軍人の思想統一を図るため「軍人勅諭」が発せられ、軍事警察である憲兵が組織されることになりました。


| 江戸時代 | 15:55 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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築土神社

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鳥居と社殿
     



 千代田区九段下駅のすぐ近くに「築土神社」があります。創建は天慶3年(940)で京都から密かに平将門の首が持ち去られ、これを武蔵国豊島郡上平河村津久戸(現・千代田区大手町周辺)の観音堂に祀って津久戸明神と称したのが始まりと伝えられます。



 その後、太田道灌の江戸城築城後、田安郷(現:千代田区九段坂上)へ移転し「田安明神」と呼ばれ江戸の鎮守神となります。元和2年(1616)に家康による江戸城外堀拡張により筑土八幡神社隣地(現:新宿区筑土八幡町)へ移転し、「築土明神」と呼ばれます。



 明治に入り平将門が朝敵であったため天皇家と繋がりの深い天津彦火邇々杵尊(あまつひこほのににぎのみこと)を主祭神とし「築土神社」と改称しましが、第二次世界大戦による空襲のため焼失し、かつての境内であった現在地に移転し再建されました。



 現在は周りをビルに囲まれ社殿もコンクリートで出来た建物です。入口も鳥居の後ろにビルが建っていて、そこを抜けて境内に入ります。なお、参拝時に気付かず写真は撮りませんでしたが鳥居の後ろのビルの屋上に平将門にちなみ5mほどの巨大な剣が建てられていますので参拝された方は見上げてみて下さい。



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狛犬と世継稲荷




 境内にある狛犬は安永9年(1780)に元飯田町の氏子により奉納されもので、一方の頭上には「角」、もう一方には「宝珠」が付けられています。平成8年に千代田区有形文化財に指定されています。



 神社境内に「世継稲荷」が祀られていました。築土神社の現在の場所は元々「世継稲荷」の境内だったところで共に空襲で焼失したため、築土神社と合わせて再建されています。



 世継稲荷は嘉吉元年(1441)に創建され、地名の田安郷から田安稲荷と称されます。その後、天正18年(1590)徳川家康江戸入城の折、二代将軍徳川秀忠が参拝し境内に橙(ダイダイ)の木があるのを見て、「代々」とかけあわせ「代々世を継ぎ栄える宮」と称賛し、「世継稲荷」と呼ばれるようになったそうです。その後も徳川家との繋がりは深く、文久2年(1862)には十四代将軍家茂の正妻 ・和宮が子宝を願い参拝しています。




 住所:東京都千代田区九段北1-14-21
   



| 歴史あれこれ | 22:07 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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囲碁史会~御城碁について

今日の囲碁史会において南雄司氏により、御城碁の対局場所について発表がありました。それによると、碁所将棋所には定員があり、御城に上がる人数が決まっていたことが判明したようである。囲碁役五十石九人とあり、御城には九人が上がっていた。奇数の理由はよくわかりません。将軍は黒書院下段の間に着座して南入側で対局したのではないかということです。

| 囲碁史会 | 21:11 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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大村益次郎の銅像

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大村益次郎の銅像




 九段下にある靖国神社の境内には大村益次郎の銅像が建っています。大村は長州藩出身の医者であり兵法学者でした。靖国神社は元々、戊辰戦争以降、官軍の軍人を慰霊するために創建された神社であり戊辰戦争を指揮し、その後、日本陸軍を創設した大村が中心となって創建されていますので銅像が建っているのもうなづけます。銅像は明治26年の製作で西洋式の像としては日本最古のものだそうです。


 大村は大変、囲碁が好きでしたが、いくさでは天才的な力を発揮した彼も囲碁はとても下手だったとの事です。



| 幕末・明治維新 | 23:05 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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品川弥二郎と大山巌の銅像

 九段下の田安門入口の隣の公園に二体の銅像が建っています。一つは明治期の政治家である品川弥二郎。もう一つは軍人であり政治家であった大山巌の銅像です。



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大山巌の銅像



 大山巌は薩摩藩出身で攘夷派でしたが寺田屋事件発生により帰国し謹慎します。その後、生麦事件を発端とする薩英戦争で西欧列強との軍事力の差に衝撃を受け、幕臣江川太郎左衛門の元で砲術を学びます。戊辰戦争等で活躍し、明治以降、日清戦争では陸軍大将として第二軍司令官を務め、日露戦争では元帥陸軍大将として満州軍総司令官に就任し勝利に大きく貢献しています。ロシアに勝利した事は海外でも大きく報じられナポレオンと並び称される英雄となりました。



 その後、陸軍大臣、内大臣等を歴任し総理に推す声もありましたが政治的野心はなく断り続けています。また、薩摩出身の西郷隆盛とは従兄弟で兄と慕っていましたが西南戦争では政府軍の指揮官として戦ったためか、その後薩摩へ帰郷することはありませんでした。



 銅像は元々別の場所にありましたが第二次世界大戦後、GHQにより軍国主義に繋がるとして廃棄されそうになりました。しかし、最高司令官マッカーサーは大山の肖像画を部屋に飾るほど尊敬していた事から難を免れ各地を転々とした後、現在の場所へ設置されました。




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品川弥二郎の銅像
       



 品川弥二郎は長州藩出身で松下村塾にて吉田松陰に学びました。その後、尊王攘夷運動に加わりイギリス公使館焼き討ちや、禁門の変に参加しました。薩長同盟成立では情報収集や連絡係として活躍しています。



 明治以降、官僚として働き維新の功績として子爵を授けられています。明治24年に第一次松方内閣で内務大臣に就任しますが、翌年の第二回衆議院総選挙での選挙干渉で死者を出した事から引責辞任しています。



 政治以外では獨協大学を創立する等しています。



| 明治・大正時代 | 23:02 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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北の丸公園~田安門

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左写真は北の丸公園内より。右は靖国通りから。




 北の丸公園の北側の出入り口で靖国通りに面した「田安門」は、寛永13年(1636)に建てられた現存する江戸城で最古の建物で国指定重要文化財に指定されています。九段下から日本武道館に行かれる方は必ずくぐる門です。



 古来、このあたりは田安口といって上州に通じる道がありました。太田道灌時代には平将門を祀った田安明神(現:築土神社)が移ってきた事から門の名称の由来となっています。



 江戸時代に入り、このあたりは北の丸と呼ばれ、代官屋敷や大奥の女性の隠居所が建設されています。千姫や春日局の屋敷もあったそうです。




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日本武道館




 江戸時代中期の享保15年(1730)八代将軍徳川吉宗は御三家とは別に将軍となる資格を有する御三卿を興します。次男宗武は,田安門の近くに居を構えたことから田安家を名乗りました。その他、四男宗尹は一ツ橋家。長男で九代将軍家重の次男は清水家を名乗りますが、それぞれ屋敷近くにある門の名称からとっています。



 田安門を入ると西側に田安家があり東側には清水家がありました。日本武道館はその境界付近に建っています。



 なお、御三卿から将軍が出たのは一ツ橋家のみで、11代家斉と15代慶喜が徳川宗家を継ぎ征夷大将軍となりました。田安家では吉宗の孫にあたり北の丸の屋敷で生まれた定信が十代将軍家治の後継と目されていましたが老中田沼意次の政治を批判していたため、陸奥白河藩へ養子に出され継承権を失ってしまいます。(後の老中・松平定信)



 この反動が後の寛政の改革へと繋がったのでしょう。田安家で徳川宗家を継いだのは最後の将軍・徳川慶喜の次の第十六代徳川家達で、すでに幕府は崩壊していました。



| 江戸時代 | 05:59 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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北の丸公園~近衛歩兵第一連隊・第二連隊の碑

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近衛歩兵第一連隊の碑
       



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近衛歩兵第二連隊の碑
     



 北の丸公園内に近衛歩兵第一連隊と第二連隊の碑がありました。どちらも明治7年に創設された日本陸軍最初の歩兵連隊で、創設以来、第二次世界大戦終結までそれぞれの碑がある場所に駐屯していました。西南戦争や日清・日露戦争にも参加しています。特に第一連隊は大正天皇・昭和天皇が皇太子時代に所属していた名誉ある連隊だったそうです。



| 明治・大正時代 | 07:03 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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北の丸公園~吉田茂の像

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 皇居東御苑内から北桔梗門を抜けると北の丸公園の入口がありました。北の丸公園は文字通り江戸城北の丸のあった場所で、現在は環境省の管理する国民公園となっています。



 公園内の一角に吉田茂の像が建っていました。第45・48~51代内閣総理大臣を務めた人物で第二次世界大戦後の日本の基礎を築いた人物といってよいでしょう。戦前は外交官として活躍し戦時中は和平工作を画策しますが、この動きが露見し憲兵隊に拘束されてしまいます。しかし、この事が戦後GHQの信頼を得ることになり終戦直後の東久邇宮内閣・幣原内閣で外務大臣を歴任し貴族院議員に勅選されます。昭和21年(1946)に、衆議院選挙で日本自由党が第一党となりながら総裁鳩山一郎が公職追放となり後任総裁へ就任。大日本帝国憲法下の天皇組閣大命による最後の内閣総理大臣へ就任します。その後、新憲法下での選挙で野党となり首相を辞任しますが再び第一党となり首相へ復帰しています。



 内閣総理大臣在任中、外務大臣も兼務し日本の独立に尽力。昭和26年(1951)サンフランシスコ平和条約を締結します。



 ちなみに吉田茂の妻・雪子は大久保利通の次男で政治家であった牧野伸顕の長女です。牧野伸顕は日本棋院の初代総裁でしたが吉田は囲碁をやらなかったそうです。



| 昭和時代 | 11:27 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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