烏鷺光一の「囲碁と歴史」

2011年11月 | ARCHIVE-SELECT | 2012年01月

| PAGE-SELECT | NEXT

≫ EDIT

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

| スポンサー広告 | --:-- | comments(-) | trackbacks(-) | TOP↑

≫ EDIT

日枝神社

 千代田区永田町にある日枝神社は太田道灌が江戸城築城の際、川越の喜多院から勧請したのが始まりで江戸時代には江戸城の鎮守とされ城の鬼門に遷されている。明治以降も皇城鎮護の神社とされてきた。江戸三大祭りの一つである山王祭が行われることでも有名。



 境内には神の使いとして猿の像がある。猿は古来から魔が去る「まさる」と呼ばれ厄除け、魔除けの信仰の対象となってきた。また、同神社では七五三の時に境内に巨大な碁盤が置かれ子供が上から吉方に向かって飛び降りる「碁盤の儀」が行われている。



 



住所 東京都千代田区永田町2丁目10番5号
  



Dsc_0453  Dsc_0456



 鳥居と山門



 



Dsc_0457



 本殿。撮影当日は正月の準備が行われていた。9月11日から11月30日までは碁盤が設置されている。



 



Dsc_0459_2  Dsc_0458



本殿前にある猿の狛犬?山門の境内側にも猿の像がある。

スポンサーサイト

| 江戸時代 | 16:06 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

≫ EDIT

秀策・雄蔵三十番碁の地、平河天神別当寺

 赤井五郎作が発起人となり本因坊秀策と太田雄蔵の間で行われた三十番碁は雄蔵が17局まで6勝10敗1ジゴとなり先相先に打ち込まれ、さらにここから1勝3敗1ジゴと追い込まれるが二十三局で雄蔵生涯最高の傑作といわれる対局で持碁に持ち込んだ後、旅先で雄蔵が客死して終局した。

 対局は色々な場所で行われたが有名な場所は平川天神別当である。平河天神は江戸時代と変わらず現在の地にあり、赤井五郎作の屋敷ともほど近い場所にあった。別当とは江戸時代に平川天神が管理していた寺院の事であるが江戸時代の地図を見ると平川天神の隣に龍眼寺という寺があり、ここが別当にあたることが分かった。現在の場所だと神社に隣接する平河天神の参集殿のあたりである。

場所 千代田区平河町1-7-5

Dsc_0448 
 平河天神

Dsc_0450
龍眼寺のあった平河天神に隣接する参集殿

| 本因坊家 | 22:43 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

≫ EDIT

秀策・雄蔵三十番碁の発起人・赤井五郎作の屋敷跡

 本因坊秀策と太田雄蔵による、後の世に語り継がれる数々の名局が生まれた三十番碁は次のようないきさつで行われた。

 碁好きの旗本・赤井五郎作は度々、碁会を主催していたが嘉永6年の新春に五郎作の屋敷で碁会が催された。集まったのは、仙得・松和・雄蔵・算知の四傑と服部一で碁会の後に秀策の話になり、現在最も強い碁打ちは秀策であろうと結論が出かかった際、雄蔵のみが異を唱えた。同門ではないが秀策と数多く打ち鍛えてきた雄蔵にしてみれば、まだまだ秀策には負けないという思いがあったのであろう。そこで、五郎作が発起人となって三十番碁が行われることとなったのだ。

 赤井五郎作とはどういう人物だったのだろうか。旗本の赤井氏は元々、丹波地方の戦国武将であった。信長の時代には一族の赤井直正が勇猛さから「丹波の赤鬼」と恐れられ明智光秀の丹波侵攻により織田方と戦っている。直正の末裔にタレントの赤井英和がいる。直正の甥(兄の子)である忠家はその後、豊臣秀吉に仕え、関ヶ原の戦いでは石田三成の密書を家康に献上し東軍に付き徳川の旗本となる。息子の忠泰は家康の小姓を務める等しているが通称を五郎作と名乗っている。

 江戸時代に赤井五郎作という名前がしばしば出てくる。明暦3年に書院番赤井五郎作忠秋が江戸麹町堤防工事の奉行に任命。享保17年(1732)将軍の命により目付赤井五郎作が会津藩に行き藩政を査察。その他、享保10年にも盗賊改として確認できる。赤井氏の当主が代々五郎作の名を継いだのか何代かおきに命名したのかわからないが由緒ある名前として受け継がれてきたのであろう。

 三十番碁の催された時代の五郎作は無役であったが、名門でありかなり裕福であったらしい。場所は御厩谷にあった。江戸時代の地図を見ると三差路にあるが、現在も道の形状は変わっていないのでわかりやすく、跡地は千代田区三番町にある精糖会館が建っている。

 場所 千代田区三番町5-7 精糖会館

Akai_2 

御江戸番町絵図(嘉永2-文久2(1849-1862)刊、尾張屋清七)に

記された赤井五郎作の屋敷


Dsc_0402  Dsc_0400

「赤井五郎作」屋敷跡である精糖会館

| 本因坊家 | 11:13 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

≫ EDIT

佐野善左衛門宅跡(大妻女子大学)

 千代田区三番町の大妻女子大学の辺りには元禄時代より旗本の佐野家の屋敷があった。敷地内に桜の名木があり「佐野の桜」として知られていた。

 天明4年(1784)に当時の当主・佐野善左衛門政言が江戸城中において老中田沼意次の子で若年寄の田沼意知を切り付け殺してしまう。善左衛門は切腹となり佐野家は断絶してしまう。原因は全くの私心であったが田沼意次の政治に不満を持つ人々が増えていたことと、善左衛門の切腹後に米の価格が下がったことで「世直し大明神」として墓参りをする人が絶えなかったという。

 ところで、大妻女子大学の前の大妻通りは「御厩谷坂」(おんまやだにざか)と呼ばれている。これは厩舎がこのあたりに集まっていたためと言われている。



 住所 千代田区三番町12



Dsc_0399  Dsc_0397

 大妻女子大学と案内板



Dsc_0396

御厩谷坂の案内板



| 江戸時代 | 19:12 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

≫ EDIT

吉備真備公園(矢掛町)

 倉敷市真備町の「まきび公園」とは別に、倉敷市の隣の矢掛町には「吉備真備公園」があり、公園内には巨大な真備の銅像と大きな碁盤が設置されている。矢掛町は真備との繋がりが強く祖母の骨蔵器(骨壺)が発掘されているし公館址といわれる場所もある。

 真備の囲碁に関する伝承で有名なのは平安時代に書かれた「江談抄」や「吉備大臣入唐絵巻」に記された話で、唐へやってきた真備の才能に恐れを感じた唐人が様々な難問を突き付け説けなければ処刑すると迫るが、その中で囲碁の名人と対決する話がある。囲碁を知らなかった真備は安倍仲麻呂の化身である鬼から囲碁を教わり対戦する。熱戦となり僅かに分が悪いと感じた真備は相手の目を盗んで相手の石を一つ飲み込んでしまい逆転勝ちした。占いによりそれを知った対戦相手は下剤を使って石を出そうとしたが真備は術を使いそれを防ぎ負けを認めさせたという話だ。

 実際には真備以前に囲碁は日本に伝わっていたようだが、こうして囲碁を学んだ真備が日本に囲碁を持ち込んだと伝えられ、一般には真備が日本での囲碁の開祖とされている。そして、吉備真備公園内には橋本宇太郎氏による「囲碁発祥之地」の碑がある。

Sany0023  Sany0022
「吉備真備公園」と隣接する「吉備大臣宮」

Sany0026  Sany0027
 「吉備真備公像」と碁盤のテーブル

Sany0030  Sany0029
「吉備公入唐絵巻」の碑。囲碁に関する記述もある。

| 本因坊登場以前の囲碁界 | 21:06 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

≫ EDIT

吉備公館址と真備公産湯の井戸

岡山県倉敷市真備町のまきび公園の近くに吉備真備が生まれた場所と伝わる公館址と産湯の井戸がある。吉備真備は吉備地方の有力豪族である吉備氏の分派である下道氏の出身でこのあたりは下道氏の領地であった。霊亀2年(716)に遣唐使となり天平7年(735)に帰国する間、儒学・天文学・音楽・兵学等を学ぶ。帰国後、聖武天皇・光明皇后の寵愛を受け出世していくが,政治の実権を握った藤原仲麻呂により左遷された後、天平勝宝3年に遣唐副使となり翌年に再び唐に渡る。一年後に鑑真とともに帰国するが大宰府等に赴任し70歳の時に東大寺造営の責任者として帰朝した。帰朝まもなくの天平神護2年(766)に起こった藤原仲麻呂の乱では中衛大将として鎮圧にあたり、後に右大臣にまで昇進している。学者でありながらここまで出世したのは真備と菅原道真の二人のみである。



Sany0017  Sany0016

吉備公館址の碑




Sany0018  Sany0019

真備公産湯の井戸


| 奈良時代 | 20:55 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

≫ EDIT

まきび公園(吉備真備の墓)

 岡山県倉敷市真備町は奈良時代の学者で政治家の吉備真備の出身地である。井原鉄道井原線には「吉備真備駅」という駅もある。真備町には吉備氏の菩提寺「吉備寺」があり、そのとなりに記念として「まきび公園」があり真備公のものと伝わる墓も同公園にある。

 真備公は霊亀2年(716)遣唐使として入唐し帰国後、日本に初めて囲碁を伝えたと言われる。これは、江戸時代に徳川吉宗の命令で囲碁の起源が調査された際、そう結論付けされたためであるが実際にはそれ以前から伝わっていたようである。ただ、囲碁は確にやっていたようで伝説として平安時代に製作された「吉備大臣入唐絵巻」には中国の名人と対局する話が出てくる。

住所:岡山県倉敷市真備町箭田3652-1

Sany0007  Sany0001
「まきび公園」(左)と「まきび記念館」(右)

Sany0012  Sany0005
「吉備真備記念碑」(左)と菩提寺「吉備寺」の門(右)

Sany0015
真備公の墓

| 本因坊登場以前の囲碁界 | 19:08 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

≫ EDIT

宮沢賢治旧居跡

Dsc_0306



Dsc_0305


 旧居跡と案内板




 詩人・童話作家の宮沢賢治は大正10年1月から8月まで上京し本郷菊坂町で下宿していた。東京大学赤門前の文信社で謄写版刷りの仕事をし、昼休みには日蓮宗の布教活動を行う一方、童話や詩の創作活動も行っていた。童話集「注文の多い料理店」に収められた「かしわばやしの夜」「どんぐりと山猫」等は、この場所で書かれている。しかし、妹トシの病状悪化の知らせが届き故郷の花巻へ帰郷した。



 当時の建物は平成2年に取り壊されている。



 



場所 文京区本郷4-35-4

| 明治・大正時代 | 17:42 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

≫ EDIT

石川啄木ゆかりの赤心館跡

Dsc_0302



Dsc_0301



 本妙寺跡の接したところに「赤心館跡」という案内板があった。石川啄木が22歳、三度目の上京の時に下宿した場所で明治41年5月から4ヶ月間暮らし執筆活動に励んだ。小説「菊池君」「母」「天鵞絨(ビロウド)」等はここで執筆している。また、歌集「一握の砂」に収録された有名な歌「たはむれに母を背負ひてそのあまり 軽きに泣きて 三歩あゆまず」も赤心館時代の作品である。しかし作品は買い手がつかず下宿代が滞り金田一京助の援助で近くの「蓋平館別荘」へ引っ越していった。



場所 本郷5-5 オルガノ株式会社

| 明治・大正時代 | 19:52 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

≫ EDIT

本妙寺跡(本郷丸山)

Honmyouji 
1850年代の本妙寺

 歴代本因坊が眠る本妙寺が現在の巣鴨へ移転したのは明治43年の事である。元々1572年(元亀2年)に現在の静岡県浜松市で創建されたが徳川家康が江戸に入国した際、共に江戸へ移った。山号の栄徳山とは徳川幕府の繁栄を意味しているといわれ当初は江戸城内にあったが、その後転々とし1636年(寛永13年)に本郷丸山に移転後、明治時代までこの地にあった。

 本妙寺といえば1657年(明暦)3年に発生した「明暦の大火」の火元として有名である。いわゆる「振袖火事」と言われるもので江戸の6割が焼失したという空襲や震災を除くと日本史上最大の火災である。しかし、実際には火元は隣接していた老中阿部忠秋の屋敷という説もある。老中の屋敷が火元となると幕府の威信が失墜するため幕府が本妙寺にたのみ火元という事にしたというのだ。事実、火元には厳罰をもって対処してきたこの時代に三年後には寺が再建され十年後には同寺の所属する日蓮門下勝劣派の触頭(幕府からの伝達を各寺院に伝えたり、各寺院からの要望を幕府に申し出る役)に任じられる等、厚遇されている。また、阿部家からは大正時代まで毎年大火の供養料が奉納されていたという。

 本因坊家の当主が四世道策以降葬られる様になったのは、道策が遺言で自身を本妙寺へ葬るように書き残していたためと言われているが、その理由は定かではない。

 現在、本妙寺跡は住宅地となっているが現在の地図をみると東に隣接していた長泉寺の横の道が南北に長い長方形が二つ並んだ形になって、ここが本妙寺境内であった事がわかる。

 また、本妙寺があった証として近くの坂に「本妙寺坂」という名前が残されている。



Dsc_0304_2
塀の左側が東に隣接していた長泉寺。右が本妙寺境内の跡で道路が南北に長い長方形となっていて区域を確認する事ができる。

Dsc_0297 Dsc_0298
「本妙寺跡の案内板」

同場所は女子美術学校菊坂校舎跡や日本で最初に公立小学校が設置された場所でもある。

Dsc_0295

「本妙寺坂」
春日通りから区立本郷小学校のある路地に入り小学校を通り過ぎたあたりの坂。

坂を降りたあたりの交差点は菊坂と交差している。さらにまっすぐ進むと本妙寺跡がある。


本妙寺跡の住所
 文京区本郷5丁目16あたり

| 本因坊家 | 20:13 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

| PAGE-SELECT | NEXT

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。