烏鷺光一の「囲碁と歴史」

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谷中霊園(中川亀三郎の墓)

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 初代中川亀三郎は十二世本因坊丈和の三男で方円社二代目社長(初代社長はのちに十八世本因坊になる村瀬秀甫)。
 若いころは目立って強いということはなかったようだが、義兄(姉婿)の本因坊秀策が死んだ後、秀策が乗り移ったのではないかというぐらい強くなったという。

 そしてもう一人、方円社四代目社長、二代目中川亀三郎もともに眠る。
 もとの名を石井千治、初代の死去により中川家の養子になる。二十一世本因坊秀哉との対局が多くのこされている。

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| 方円社 | 07:28 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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谷中霊園(徳川慶喜の墓)

 谷中霊園には有名人の墓が多く、そのなかに江戸幕府最後の将軍徳川慶喜の墓がある。

 慶喜はたくさんの趣味を持ち、そのなかに囲碁もあった。慶喜は棋譜ものこっている。

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 谷中霊園を抜けて上野の方に歩いていくと徳川家の菩提寺寛永寺に行けます。けっこう歩くけど・・・

 谷中霊園は日暮里駅が便利です。

| 囲碁が関わった出来事 | 18:08 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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徳川家廟所(増上寺)

 増上寺には徳川家の廟所があり、六人の将軍が眠っています。二代秀忠、六代家宣、七代家継、九代家重、十二代家慶、十四代家茂である。初代家康と三代家光は日光東照宮、十五代慶喜は谷中霊園、のこる六人は上野寛永寺に眠っている。

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 廟所は常に開いているわけだはなく、特別な時にしか公開されません。

 現在は大河ドラマお江にあわせ公開されています。

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 徳川秀忠は家康に劣らずの碁好きで、碁会などもたびたび開き、碁打ちたちを厚遇した。将軍御前の対局御城碁も打たれたりした。

 あるとき碁ばかりしている秀忠を妻のお江は叱り、家康にまで訴えている。しかし家康は囲碁のおもしろさをお江に説き聞かせたというはなしがある。

| 囲碁が関わった出来事 | 09:15 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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増上寺

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 増上寺は、明徳四年(1393)、浄土宗第八祖酉誉聖聰(ゆうよしょうそう)上人によって開かれました。
 場所は武蔵国豊島郷貝塚、現在の千代田区平河町から麹町にかけての土地と伝えられています。
 室町時代の開山から戦国時代にかけて、増上寺は浄土宗の東国の要として発展していきます。

 徳川家康が関東を治めるようになってからまもなく、増上寺が徳川家の菩提寺に選ばれた。慶長三年(1598)には現在の芝に移転しました。

 増上寺には二代将軍秀忠をはじめ六人将軍が眠っています。家康と三代家光は日光東照宮ですが、あとの将軍は上野の寛永寺に眠っています。

| 江戸時代 | 07:21 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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永隆寺(利玄院日義上人のこと)

 徳川家康の囲碁の師利玄院日義上人が開基の寺を見つけた。

 この利玄はあの本因坊算砂のライバルとして名を残す利玄と同一人物だろうか。

 世田谷区の千歳烏山の駅から二十分ばかり歩いたところにある。

 囲碁史会のメンバー四人で調査に行きました。

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 寺町通りとなっているので辺りは寺ばかりである。


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 墓地の正面奥にある利玄院日義上人の墓。


 いままで利玄は算砂の六歳下という記述はあったが、没年も消息もわかっていなかった。もし、利玄と同じ人物ならそれらがわかったことになる。

 没年は元和四年、算砂の五年前ということになる。

 しかし、これ以上のことは関東大震災にのときに焼失してしまい、古文書類その他の物はのこっていないということである。

| 囲碁史あれこれ | 21:10 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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平川天満宮

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 平川天満宮は太田道灌が江戸の守護のために文明10年(1478)建立した。



 徳川幕府をはじめ、紀州、尾張徳川家、井伊家などの祈願所となった。



 学問の神様菅原道真や江戸幕府初代将軍徳川家康が祭神になっている。



 この平川天満宮にちなみ、このあたりの地名を平河町と呼ぶようになった。




 なお、この平川天満宮の別当で、本因坊秀策・太田雄蔵の対局がおこなわれた。 



| 江戸時代 | 13:41 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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本因坊算砂棋帳文書

Photo




廿七日

於 七条 御門跡 他徳 五目

自負

廿九日

於 因幡法印 御成 自徳番

十二目 自勝

八月二日

於 加賀大納言殿 御前 他徳

十一目 自勝

同日

自徳番   八目 自勝

同四日

於 新城駿河殿  御前 他徳

此一帋(紙)元祖本因坊算砂

法印棋帳之中天正文禄

年間之筆記也附属西村

広良丈尤可為家珍者也

寛延二己巳年(一七四九)

十二月 井田道祐

         書判



 この文書は本因坊算砂棋帳の断簡に、井田道祐(本因坊道知門下)が奥書し、道祐の門人・西村広良に与えたもの
 前半の七十六文字は算砂自筆の対局覚書ともいうべきものです。大変貴重なものである。紙が継がれた後半は井田道祐の筆。

 まず、後半の部分だけ読み下しておこう。

 「この一紙は元祖本因坊算砂法印の棋帳のうち、天正文禄年間の筆記なり。西村広良丈(丈は尊称)に附属し、もっとも家珍(家宝)たるべきものなり。寛延二己巳年(一七九四)十二月 井田道祐」

[対局年]

 奥書に天正文禄年間の筆記也とあるが、断簡の部は文禄五年(慶長元年改元・一五九六)に書かれたものである。加賀大納言は前田利家のことであり、権大納言に就いていた期間が、文禄五年五月十一日から慶長二年一月十六日まで。このため、文書の八月二日は文禄五年と特定する。

[場所と対局者、手合と結果]

・同(閏七月)二十七日

 対局の場所は京都東大路七条の地にある宮門跡寺院の妙法院です。門跡は三十三代常胤法親王です。手合は門跡が徳番(先番)である。算砂は五目自分の負け、と記している。また、自分が徳番のときは自徳番と、相手が徳番のときは他徳と記している。

・二十九日

 この日は下京松原通りの因幡堂(平等寺)に妙法院の常胤法親王が御成りになり対局した。算砂の徳番で十二目自分勝ち、と記している。

・八月二日

 加賀大納言殿は前田利家のことで、利家の徳番で算砂十一目自分勝ち、と記されている。

 同日、二局目を対局。こんどは算砂の徳番で八目勝ち。

・同四日

 この日は徳川家康の徳番で対局したが、後の部分がないので結果が不明。家康をはばかって結果の書かれた部分を切ったのではないかと推測されている。

[駿河殿について]

 算砂が家康と初めて会ったのは、家康が駿河国の駿府に新城を築造した翌年の天正十五年(一五八七)閏十一月十三日といわれている。家康の娘婿の奥平信昌(算砂の弟子、三河国新城城の城主)に伴われ、家康を表敬訪問し新年まで滞在している。算砂はこのときの印象が強くのこり、親愛の気持ちをこめて「駿河殿」の表記を用いたと思われる。

 利家の加賀大納言殿に従えば、家康は江戸内大臣殿もしくは江戸内府殿となるが、これは算砂と家康の関係から馴染めない。算砂にとって家康と利家の親疎の差なのかもしれない。覚書は算砂自身がわかればよい書き方になっている。

[対局は地震見舞いが目的]

 文禄五年閏七月十三日、近畿地方に大地震が発生した。伏見の町は大きな被害があった。

 算砂が対局した京都の妙法院は土塀や回廊は倒壊したが、建物の被害は軽微だった。二十七日と二十九日の常胤法親王との対局は可能。

 八月二日、算砂も碁会の頭領として伏見へ地震見舞いに行き、先ず前田利家邸を訪れ、二局対局した。

 四日、算砂は家康邸を訪れる。

 日記などの記録を見ると、一日には二人とも出仕しているが二日にはなにも記されていない。四日も特別なことは記されていない。

 以上のとおり年と日付に矛盾はないものと思われる。

[異論]

 手合にかんして異論がある。

 徳番を先番と見ると算砂と利家、家康とは互戦のようであるが、これは置碁にも当てはまるのではないかということ。五子か四子の手合だったら、四子なら算砂が徳番、五子なら利家や家康が徳番というもの。

 もう一つの見方もある。「加賀大納言殿」も「新城駿河殿」も利家、家康自身と対局したということではなく、その御前で算砂がほかの碁打ち、たとえば利玄などと対局したのではないかというもの。これなら徳番の意味もわかる。

 現在のところ後者が有力な仮説であると思われる。

| 本因坊家 | 09:17 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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本因坊歴代の墓

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 巣鴨の本妙寺、本因坊歴代の墓の中心にあるのが最後の本因坊秀哉の墓である。最後につくられたので、そのときまでの他の墓石に囲まれるように建てたという。

 それと向かい合いにあるのが小岸壮二の墓である。

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 これらは秀哉の前の秀栄、秀元の墓である。

 明治の人なので、ひとりの墓石だが、その他は二人や三人の名が同じ墓石に刻まれている。

 秀栄などは交流も広く、墓石を建てるのに犬飼木堂の応援もあった。

| 本因坊家 | 08:19 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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本妙寺

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 東京巣鴨にある本妙寺は江戸時代におきた明暦の大火こと振袖火事の出火元としてしられる。出火元に関しては罪をかぶったという説もある。

 振袖火事は、ある娘が大変大事にしていたもので、お寺に供養として渡すと、寺はそれを売ることが習慣になっていたが、何度も同じ振袖が戻ってくるので焼いてしまおうとしたらそれが火元になって江戸中に燃え広がって江戸城の天守閣も焼けてしまったという大火だ。

 現在の場所は移転したところなので、出火元ではない。



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 本妙寺にはいろんな有名人の墓があり、囲碁界でも歴代本因坊の墓がある。これらは江戸時代から大正までの世襲制本因坊の墓である。一世算砂から三世道悦までは京都の寂光寺にあるので、ここには四世道策から二十一世秀哉までの墓がある。

 中心に建つのが秀哉の墓である。それと向かい合うように小岸壮二(家元時代が続けば二十二世本因坊になっていたかも)の墓がある。




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 その他にも遠山の金さんと剣豪千葉周作の墓もある。

| 本因坊家 | 16:54 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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上野車坂下の本因坊道場

 いつの頃か定かではないが、上野の車坂下というところに本因坊門下の道場があった。本因坊丈和の時代は門下の修業はこちらで行われていたと記録に残っている。故郷から上京してきた秀策も、こちらの道場で修業している。18世本因坊秀甫は道場の隣の大工の家に生まれ、幼いときに石音につられて道場に入り見よう見まねで囲碁を覚えたという逸話も残されている。

 道場の詳しい場所を調べようとしたがはっきりとは分からなかった。江戸時代には上野寛永寺近くに車坂町という町名が数か所あるが車坂下町という町名はなかった。車坂下とは文字通り車坂を下ったところという意味である。車坂とはどこにあるかというと現存していないが寛永寺から下谷へ向かって下っていた坂で現在の場所でいうと概ね上野駅の公園口改札からコンコースをまっすぐ進み入谷改札あたりを抜ける坂であった。入谷改札あたりには車坂門という門があった。車坂を出たあたり一帯を車坂下といっていたようだ。
 東上野口付近に車坂町という所があったが他は寺や役人の住宅が多い事からこの近辺なのかもしれない。

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上野駅の東上野口からみる上野車坂下付近(左)と車坂があった公園口(右)

| 本因坊家 | 20:37 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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