烏鷺光一の「囲碁と歴史」

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文学のこみち

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 尾道の千光寺の上にロープウェイで上がり歩いておりました。だいたいロープウェイに乗っている時間は五分ぐらいです。

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 歩いて下りる道は文学のこみちとなっており、俳句などが碑に刻まれている。

 正岡子規や松尾芭蕉も囲碁が好きで、囲碁の歌も多く詠んでいるようだ。


 秀策のはなしです。

 嘉永二年十一月十七日、秀策は二十一歳ではじめて御城碁に参加、安井算知を相手に勝利した。

 御城碁は年に一度、江戸城において、将軍御前(将軍が出座するのは稀である)で対局する大変名誉なもので、各家元の当主及び跡目、上手(七段)以上の打ち手しか参加できなかった。

 秀策はこの御城碁で十九戦全勝している。その成績を記しておく。

嘉永二年 安井算知 黒番十一目
       坂口仙得 黒番中押し
嘉永三年 坂口仙得 黒番八目
       伊藤松和 黒番三目
嘉永四年 林 門入 黒番七目
       安井算知 黒番中押し
嘉永五年 井上因碩 白番二目
       伊藤松和 黒番六目
嘉永六年 坂口仙得 黒番中押し
       安井算知 白番一目
安政元年 井上因碩 白番中押し
安政三年 伊藤松和 白番中押し
安政四年 安井算知 黒番中押し
安政五年 坂口仙得 白番三目
安政六年 伊藤松和 黒番九目
       服部正徹 黒番十三目
万延元年 林 有美 白番四目
文久元年 林 門入 白番十一目
       林 有美 白番中押し

以上十九連勝

この十九局中秀策がもっとも苦戦したのが、嘉永三年の伊藤松和戦である。それに嘉永六年の安井算知戦も逆転だった。

 十九連勝というと大記録のようだが、すべて互先の域を出ていない。置碁がないのである。碁聖といわれた道策も丈和も置碁がある。道策は負けたといっても一流の相手に二子置かせて一目負けである。先で勝てる相手がいなかったということもある。しかし秀策は二子でもいいかもしれない相手にも向先で打っている。秀和が置碁をしないように裏から手をまわしたともいわれている

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| 本因坊家 | 08:46 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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てっぱん

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 朝の連続テレビ小説の「てっぱん」で舞台になった地。

 尾道で主人公が飛び込んだ場所。


 秀策のはなしです。

 大阪対局を終えて秀策は一路江戸へ。十月はじめには到着したが、そこで待っていたのは五段昇進の知らせと跡目問題だった。
 この時点で跡目問題が出てきた理由を推定すると、まず、因碩に先を許されて三連勝し本因坊家のために気を吐いたこと。次に大師匠の丈和と当主の丈策が一年後に相次いで没したところをみるとすでに健康を害していたかもしれない。二十七歳の秀和に万一のことがあろうとは思えないが、本因坊家も秀和個人もこれまであまり考えなかった後継者選びに秀策が急浮上したのだろう。

 跡目の話があったとき、秀策はかなりきびしい態度で拒んだと伝えられる。浅野忠敬から扶持をもらう身分(三原浅野家お抱えの碁打ちとして江戸へ囲碁留学に来ているような身)であり、郷里の人々や両親が一日も早く大成して帰国する日を待っている事情を述べたのであろう。そこで本因坊家は寺社奉行脇坂淡路守に仲介を頼み、浅野本家で広島藩主の浅野斎鼎を介して三原浅野家に話を通じる。これだけの手続きがあって忠敬は郷土の人材が公儀の棋員に挙げられるのをこころよく承諾したのだった。

 弘化三年十月から翌四年九月までの一年間、秀策は秀和と集中的に打っている。秀策を後継者と定めた秀和が胸を貸したのであろうか。またこの時期、当主の丈策も隠居の丈和も一局ずつ秀策と対している。ともに打ち掛けになっており、跡目問題と絡んだ儀礼的な対戦だったかもしれない。

 秀策といえば謹厳剛直な打ち振りを想像するが、『坐隠談叢』に次の記述がある。当時本因坊道場で碁盤四面を合わせ一面として碁を打つことが流行していた。この大碁盤では平素の定石は用をなさず、いきおい創造力に頼るよりない。その大碁盤でも秀策は当時の諸名手から一段抜けていた。また連珠でも敵なしだったという。

 秀策は後に広島で儒学の頼山陽、茶道の野村余烋とともに当代の三偉人と讃えられることになる。

 秀策が帰府から跡目に定まるまで集中的に打ったのは四人。秀和、雄蔵、井上秀徹(葛野忠左衛門、鶴岡三郎助である。

 三郎助は本因坊丈策の門人で秀策より八歳年長。同段の秀策と数多く打っている。秀策も白番ではけっこう負けており、手強い兄弟子だったようだ。

 弘化五年は二月二十八日に嘉永と改元された。元年九月十六日、十四世本因坊となった秀和は正式に秀策の跡目願を出す。そのとき同時に提出した親類書には父桑原輪三とあり、桑原秀策の名が初めて出てくるのである。父輪三としてはいったん安田家の養子に出した形をとった息子だが予期以上の出世で本因坊家に入ることになり、それならばもう一度桑原家に戻し桑原の名をのこしたいと考えたらしい。

 秀策の跡目願は嘉永元年十一月二十二日に聞き届けられた。十二月十四日には寺社奉行脇坂淡路守に御目見得する。翌十五日に秀和に付き添われ、十二代将軍徳川家慶に御目見えした。跡目弟子として扶持を受けたのは嘉永五年正月からだった。

 秀策が跡目を許されたのは数え二十一歳の暮。そして丈和の娘花と結婚した。翌年六段に進んだ。

| 本因坊家 | 08:50 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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爽籟軒(橋本竹下別荘)

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 因島から尾道に帰ってきました。
 江戸時代の豪商橋本家の別荘である。
 橋本吉兵衛(号・竹下)は秀策の後援者で、幼少の時三原の浅野家への口利きなど秀策のために尽力した人物である。秀策が尾道に来るときはここに泊まっていたという。さらにここには頼山陽など広島を代表する文人、学者などが多く出入りしていた。秀策もそういった人物たちと交わっていたのだろう。
 ここは庭園として見学することができ、茶室も借りることができるが、屋敷の方には入ることはできません。

 弘化元年(天保十五年改元)の十二月、郷里に帰着した秀策は諸方にあいさつを済ませ年が明けてから浅野侯に閲見して昇段の報告し加増された。その後、江戸から同行した真井徳次郎と広島を訪れて二局打った。徳次郎はそのまま遊歴を続け、秀策は三原に戻った。

 郷里での秀策は日を定めて三原城に出仕し、藩主の相手や城内の武士の指導をおこなっていたらしい。また、前回の帰国時と同じく勉学にも取り組んでいたのだろう。

 五月に入って最初の師、竹原宝泉寺葆真和尚と対局する機会があった。安芸国の有段者はこのころわずか四人。葆真はそのトップに位置していた。漢学、書画にも通じ、碁の相手としてばかりではなく浅野忠敬の知遇を受けていたという。だからこそ碁才を秀策の指導を依頼する気にもなったのだろう。

 秀策はこの帰郷のおり、頼聿庵(頼山陽の長子で藩学教授)を訪ねた。聿庵は大いに喜び一詩を贈ったという。

 冷静で慎重な秀策だが、時によっては思いきった行動をとる。この旅の帰途、兄とともに鈴鹿森を通過するときのはなしである。旅宿の女中に早朝出立を告げ、起こされて歩きはじめたが様子がおかしい。女中が月の出を朝とまちがえたのだ。森にさしかかると火が見える。山賊の巣として有名な場所だけに兄は戻ろうとしたが、秀策は引き止めて平然と火にあたり、礼を言って立ち去った。賊も呆然として見送ったという。

 この時代の秀策は、将来本因坊家の跡目になるなどと思っていない。前回と同じく一年半を過ごし、お抱え棋士としての義務を果たし、勉学にいそしんでいたようだ。その間、二人の棋客が訪れて、対局があった。一人は兄弟子の岸本左一郎でもう一人は勝田栄助である。

 四月に芸州を出た秀策は大阪で長期間足を止めることとなった。五月に中川順節と四局打ち、七月に井上因碩(幻庵)と打っている。対局の間が空いたのは因碩に来阪の予定があり、それまで引き留められたものか。

 因碩との第一局は七月二十日。二子で対したが打ち掛けとなり、翌日打ち継ぐことになる。しかし当日、因碩は打ち掛けの碁をそのままにして新しく先で打つようにと指示した。二子局の形勢は明らかに黒よしだし、秀策の打ち振りを見た因碩が一刻も早く実力の底を見極めたいと思ったのであろう。

 このときの碁が世にいう「耳赤の一手」の碁である。因碩の門人たちがみな師の勝ちを信じていたとき、観戦していた医師が黒の勝ちと予言した。その理由を、「形勢はわからぬが、黒の一着(耳赤の手)を見て因碩師の耳が赤くなった。その手に動揺し、自信を失った証拠である」と言ったという逸話がある。

 この一手に対して因碩は、「秀策の碁道は秀逸である。十八歳にして既に上手(七段)の域に達する力量をそなえ、そのうえ今後どのように強くなるか計り知ることができない」と言っている。

 秀策はこの碁のあとさらに三局打ち、一打ち掛け二勝となった。

 因碩はこの碁の後、今まで丈和、秀和と争ってきた碁所への野望を断念し、秋に本因坊家に丈和の長子水谷順策(葛野忠左衛門)を乞い、井上家の跡目とした。二年後、因碩は隠居として幻庵と名乗った。

 このとき秀策は四段だが、因碩は「このときの秀策の芸は七段は下らない」と語ったという。

| 本因坊家 | 09:03 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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村上水軍城

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 村上水軍は日本中世の瀬戸内海で活躍した水軍である。


 戦国時代には毛利水軍の一翼を担って厳島の戦いなどで活躍した。


 村上家は三家あり、その一つは豊臣秀吉に属し、あとは毛利、小早川に属していた。


 秀吉が海賊禁止令を出すと、村上家は従来の行動がとれず村上水軍は解体された。


 因島には村上水軍の資料などが展示されている。けっこう階段をのぼることになるが、因島では名所なので因島に行かれたさいは行かれるといいでしょう。

| 戦国時代 | 09:16 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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村上文祥

 因島にはもう一人の本因坊と呼ばれている人物がいる。



 アマチュア本因坊など数多くのアマチュア大会に優勝された村上文祥氏である。その村上氏の功績が因島市民会館に展示されている。



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市民会館



 



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本因坊秀策の幼名虎次郎にちなみ虎ちゃんというキャラクターがいる。

| 囲碁あれこれ | 09:07 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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地蔵院(秀策墓所)

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 記念館、石切神社より徒歩十分ぐらいのところにある地蔵院。そこには本因坊秀策の墓地がある。

 境内に入り、墓地の方に向かい、坂を上がったところに札が建ててある。

 桑原家の墓地の正面に秀策の墓はある。

 再上京から四年、初段から四段に進んだ秀策は、天保十五年の夏過ぎに帰郷の途につく。この度の同行者は江戸生まれの兄弟子真井徳次郎である。徳次郎は二十一歳、御家人の出で丈和門人。二十三歳で没している。

 東海道を下って遠州(静岡県)三沢村。ここは兄弟子伊藤徳兵衛の出身地で、秀策は徳兵衛と集中対局する。徳兵衛は十一世本因坊元丈の内弟子となった時期もあり、天保十年に五段を許されている。ただし秀策とは互先。この年の四月に出京したとき秀策は先々先で四連勝、互先になってさらに連勝しているからだ

 地元の対局とあって徳兵衛は必死であったろう。三沢村では四局打たれているが、互いに先番を勝って打ち分け

 徳兵衛は生涯に四度名を変えたが、この当時はみなしばしば改名している。葛野忠左衛門は七度の改名だ。隠居すれば雅号を用いる。秀策の場合も五度の改名。桑原虎次郎からはじまり、安田栄斎、安田秀策、桑原秀策。むろん本因坊秀策が一番長く、このころの本因坊はまぎれもない姓であって、本因坊姓を名乗るには養子縁組が必要なのである。

 秀策が前回帰郷したときは初段であったが、今回は当時としては稀少な四段に昇り、そのためか行く先々で対局を要請されたようだ。徳兵衛との対局を皮切りに、伊藤松次郎、味田村喜仙、加藤隆和、真井徳次郎、宝泉寺、岸本左一郎、勝田栄助、中川順節、井上因碩(幻庵)などとも打っている。一種の武者修行である。

 徳兵衛は秀策の再上府のおり、もう一度袖を捕えて対局を挑んだ。結果は秀策の三連勝となり、闘志を失わせた。これ以後徳兵衛との対局はない。

 遠江国を過ぎ尾張国にさしかかる。ここは碁の盛んな土地だ。待っていたのは伊藤松次郎である。松次郎は後の松和。名古屋に生まれる。加藤隆和とともに伊藤子元(十世本因坊烈元門下、五段)の門に入り、文化九年(一八一二)に上京して本因坊元丈の弟子となる。五段に進み、いったん帰国したが、天保九年、本因坊丈和から六段を許された。松和と名乗り御城碁に出場するのはもう少しあとのことである。

 松次郎は秀策がはじめて対戦した玄人碁打である。天保十一年に再度の出府をはたしているが、郷里の人々の要請に応えて秀策との対局のために戻っていたのかもしれない。

 名古屋にはもう一人の高段者加藤隆和がいる。滞在中に秀策は隆和とも打っている。

 隆和は寛政十二年(一八〇〇)の生まれで尾張藩士の子である。松次郎とともに伊藤子元の門に入り、のち出府して本因坊門に転じたが丈和門人とされているところをみると、松次郎より出府が遅れたらしい。五段に進んで名古屋に戻って多くの門人を育てた。

 当時、大阪の中川順節、京都の川北耕之助など、各地にレッスンプロというべき碁打がいた。隆和もその一人だ。この後も秀策は東海道を往復するのだが、隆和は弟子たちに指導を受けさせている。

| 本因坊家 | 19:01 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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秀策生家

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 本因坊秀策囲碁記念館の裏手に再現された秀策の生家。



 中に入ることもできます。部屋も再現されており、楽しむことができます。



 江戸に着いた栄斎に二つの喜びが待っていた。一つは改名、一つは昇段である。


 天保十二年九月十一日、当主丈策は改名状をもって栄斎を秀策に改めさせた。浅野家からの預り弟子であるためその形式をとったものと推測される。丈策から策、跡目秀和から秀を与えられたかたちだ。


 その五日後の十六日には二段格の証状が与えられた。免状でなく証状なのは碁所不在のときは免状発行にかんして家元四家の同職会議が必要だからである。


 そして、翌十三年の五月から太田雄蔵との連戦がはじまった。雄蔵は安井門だが秀策と数多く打っている。


 雄蔵は江戸の生まれで、はじめ川原卯之助と名乗った。のち七段に進み、御城碁に推挙されるが断った。秀策の打碁中、対雄蔵戦が最も多く後年三十番碁を打った。


 秀策はどちらかといえば雄蔵が苦手だったらしい。天保十三年五月から十月まで二十四連戦のうち、二子番十勝四敗一持碁一打ちかけ、先番三勝五敗。先二で四連勝、先に打ち込んだのも束の間、四連敗でふたたび先二に打ち込み返されている。定先の手合になるのは十四年の九月になる。


 名人碁所の願書を取り下げた十一世井上因碩(幻庵)が、この年の五月機会を作って秀和と再戦するが、秀和の勝ちになった。この年の御城碁で再戦するが、これも秀和が勝った。こうした碁界の緊張の中で秀策は着々と実力をつけていった。


 少年秀策に胸を貸したのは雄蔵ばかりではない。雄蔵との連戦のあと葛野忠左衛門(丈和の長子、のち十二世井上因碩)が集中して対局し、その他にも服部正徹(井上門)や竹川弥三郎や岸本左一郎、真井徳次郎らの兄弟子がこぞって胸を貸した。


 天保十四年十月六日、秀策は四段に進められた。今度は正式の免状で「今般同僚会議を遂げ」の字句が入っている。


 安井家の当主九世算知とは昇段の直前に先で初対局している。算知は八世安井仙知(知得)の実子。さきの太田雄蔵、坂口仙得、伊藤松和(松次郎)と並んで天保四傑と称された高手である。その算知も先で圧倒し、安芸小僧の評価はさらに高まったにちがいない。


 天保十五年、秀策は十六歳を迎えた。元日、秀和が打ち初めに秀策の先で一局試みる。その碁は打ち掛けとなったが、二月に再度先で試みた。秀和はこのころはまだ跡目だが、そのあとを継ぐ者の第一候補として秀策の名が胸中にあったのではないか。


 先の二局目、秀策は俗にいう「秀策流」で立ち向かった。秀策流布石は、これまで葛野忠左衛門、太田雄蔵、鶴岡三郎助、岸本左一郎らに打っている。自信をもって兄弟子の胸を借りたにちがいない。


 天保十二年に帰京して以来、秀策は一年に一段の割で昇段した。勝率は手許の譜で七割ちかい。



| 本因坊家 | 08:31 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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本因坊秀策囲碁記念館

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 本因坊秀策の生家跡のすぐ近くに建つ本因坊秀策囲碁記念館。この記念館には秀策ゆかりの品々が保存、展示されている。平成二十三年に秀策母子愛用の碁盤など数点の展示品が市有形民俗文化財に指定されました。さらに、記念館の裏手には生家を復元している。



 現在、生家は石切神社となっており、秀策の碑が建っている。



 さらに十分ほど歩いたところに、秀策の墓がある地蔵院がある。





本因坊秀策囲碁記念館


          尾道市因島外浦町一二一‐一


          開館時間 午前十時~午後五時


          休館日  火曜日


 





 天保八年の暮、安田栄斎は上野車坂下の本因坊家道場に着いた。当主は本因坊丈和。


 丈和はこれより六年前、天保二年に名人碁所となり、四世本因坊道策が「碁聖」のちに「前聖」、丈和が「後聖」とよばれるほどの力量をもっていた。ただし、内弟子になったからといって直接師匠に打ってもらうことはない。



 栄斎も一般の内弟子と同じく道場の掃除や来客の接待を務めながら、棋譜を並べ、兄弟子たちとの研究手合に明け暮れていたことだろう。ある日、丈和が栄斎の碁に目を止めた。そして、「これは一五〇年来の碁豪である。我が門風はこれより大いに挙がるだろう」といったという。一五〇年来とは碁聖道策以来ということである。数え十一歳にして栄斎の碁はそれほど光るものをもっていた。



 秀策の初段免状を紹介しておく。



 囲碁幼年たりといえども執心所作よろしく、手談も感心いたし候。これによって自今上手に対し三棊子の手合初段を免許しおわんぬ。なおもって勉励肝要たるべきものなり。よって免状くだんのごとし。



 天保十年巳亥十一月廿九日



       官賜碁所 本因坊丈和



 安田栄斎老



 「老」は目下の者に対する軽い敬称である。



 免状の日付に注目したい。丈和はこの年の十一月晦日、免状発行の翌日に碁所を退隠させられるのである。当時の慣例として内弟子に免状を発行することはなかったが、丈和としては本因坊家の未来を託す栄斎に碁所として最後の免状を与えておきたかったのだろうと推測されている。



 丈和が退隠し、十三世本因坊は丈策が継ぐことになった。したがって栄斎は丈策の弟子に変わる。





 天保十一年、栄斎は出府以来二年半ぶりに帰国した。帰国の時期は初夏ではないかと思われる。東海道を通って山陽道へ。付き添いはだれだったか。往路の打碁は発見できていないし、道中の記録もない。


 帰国した栄斎は直ちに浅野忠敬に謁見し、江戸の生活を報告したのだろう。栄斎が頭角をあらわし「安芸小僧」と呼ばれていることなどはすでに故国に届いている。忠敬は五人扶持を与え、広島藩の藩学教授坂井虎山について漢学を学ぶことを命じた。


 一年半後、栄斎はふたたび出府した。復路には大阪の中川順節との打碁がある。中川は井上門の五段で当時三十代の後半。この少し前に大阪に移住し、後進の育成にあたることになったらしい。栄斎と中川はこのとき四局打って、栄斎(二子)の全勝だった。後日、中川は向先でも勝てなかったろうと語ったそうだ。その譜を入手した京都在住の河北耕之助(坊門五段)は、これが十三歳の碁かと感嘆し、碁を愛したと伝えられる仁孝天皇に献上したというのである。


 秀策の甥にあたる桑原寅次郎がまとめ、現在でも基本資料とされている『本因坊秀策小伝』によれば、外之浦に帰着した秀策はまず桑原の本家浜本家にあいさつを済ませ、その後に帰宅するのが常だったという。さらに間を置かず、後援者の橋本竹下父子へのあいさつ、浅野忠敬への伺侯と続けた。こうした礼儀正しさは生涯変わることがなかった。


 栄斎が一年半も在郷したのはなぜか。浅野忠敬ははじめは栄斎を公儀直轄の碁方として育成しようとしたのではなく、あくまでも浅野家の人材として育てようとしたことである。一年余も経て再度出府させたのは、大切な修行期を郷土で無駄に消費させてはならぬという判断に過ぎなかったと推測される。

| 本因坊家 | 09:00 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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石切神社(本因坊秀策生家跡)

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 石切神社は本因坊秀策の生家である桑原家の跡に建っている。



秀策生誕の地の札が建つここは本因坊秀策記念館の隣である。



 ここには本因坊秀策の顕彰碑がある。この碑は秀策の甥(兄の子)である桑原寅四郎が中心となって設立し、当時の因島七町村が一丸となって建てたものである。碑の完成は当初、秀策の五十忌祭を記念して計画されたが、十五年遅れて大正十五年の完成となった。



 秀策は文政十二年(一八二九)五月五日、備後国御調郡三浦村大字外之浦、現在の広島県尾道市因島外浦町に生まれた。父の桑原輪三は雑貨商。妻カメとの間に二男一女があり、秀策は次男である。輪三は対岸三原から入婿し、実家の安田家は代々庄屋を勤めて士分に近かった。



 秀策の幼名は虎次郎。母カメは碁を知っており、胎内にあるときしばしば碁を並べていたと伝えられる。また、虎次郎が三、四歳のころ、どんなに泣いても碁石を与えるとすぐ泣き止んだというし、父が叱って押入れに入れたものの泣声が聞こえなくなったので様子を見ると、しまっていた碁盤に碁石を並べて遊んでいたという。母が碁を教えたのは五歳のときだった。



 天保五年(一八三四)九月、虎次郎六歳。商用を兼ねた父に連れられて尾道に相撲見物に向かったが、父が取引先の番頭と話をしている間に、石音に引かれて奥座敷に入り込んだ。碁盤の横に座って動かず、父は一人で相撲を見に行ったという。このときの対局者の一人が、のちに秀策の終世変わらぬ後援者となった橋本吉兵衛(加登灰屋、号竹下)だった。竹下は少年に九子置かせて一局試みたが、とても覚えたてとは思えない。翌年、もう一度対局したときは、初段の竹下も四子で持て余したといわれる。



 虎次郎のうわさを聞いた三原城主浅野甲斐守忠敬は城中に呼んで対局した。忠敬は相当な囲碁好きで当時備後、安芸で有数の打ち手であった竹原の宝泉寺住職葆真を招いてしばしば手合わせしたほどだった。虎次郎との対局は手合も勝負も不明だが、忠敬の長考に退屈した少年が席を外して縁側に出たという話が伝わっている。以後、忠敬は虎次郎を茶坊主として勤務させ、葆真に指導を依頼したらしい。安田栄斎と改名したのはこの時期だ。下城のたびに因島まで帰るのは容易でなく、父の実家に寄留していたものと思われる。栄斎が八歳のときには葆真と互角に戦うまで成長していた。



 天保八年に、坊門五段伊藤松次郎が尾道を訪れた。栄斎と打つことになったとき、九歳の少年を見て松次郎は不快の色をかくさず、初段近く打つと聞いて「初段では座敷ホイトだ」と放言した。ホイトとはこの地方の放言で乞食のこと。少しくらい強いのを鼻にかけ、あちこちの座敷をまわる乞食同然というのである。



 しかし、実際に打ってみて松次郎は驚く。昇段の力を認めざるをえなかった。十数年後、秀策が本因坊跡目に定まり、松次郎も上府して松和と名乗っていた時期、往時の非礼を正式にわびたという。対して秀策は「あのときの言葉を聞いてわたしは自分を督励することができました。むしろお礼を申し上げるのはわたしの方です」と答えたという。



 葆真の力を超える日がきた。天保八年の暮、三原侯の声がかりで栄斎は江戸で修行することになり、家臣に連れられて本因坊家に向かう。家元四家のうち坊門を選んだのは松次郎の推挙があったのかもしれない。



 江戸に着いた栄斎は上野車坂下の本因坊道場に入り十二世本因坊丈和の内弟子となる。こうして栄斎は碁士生活のスタートを切った。正式に初段を許されるのはその二年後のことである。



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尾道から因島へ

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 本因坊秀策のふるさと尾道・因島へやってきました。



 



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 橋をわたって尾道から因島へ向かいます。



 



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 因島は本因坊秀策ゆかりの地ということで、島内のいたるところに囲碁を使ったものがあります。しんいりかわはしもその一つで、欄干に碁盤の足がついています。別名「碁盤橋」ともいわれているそうです。そのほかにも看板に詰碁が書いてあったり、秀策流の布石が並べてあったりします。

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