烏鷺光一の「囲碁と歴史」

2011年03月 | ARCHIVE-SELECT | 2011年05月

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お玉が池と千葉周作道場「玄武館」

 千代田区の神田には、かつて「桜が池」という上野の不忍池よりも大きな池があった。池のほとりにあった茶屋のお玉という娘が二人の男に求婚され悩んだ末、身を投げたことから「お玉が池」と呼ばれるようになったとの伝説がある。池は徐々に埋め立てられ現存していないが、その跡には「お玉稲荷大明神」が祀られている。

 「お玉が池」の近くに北辰一刀流の開祖千葉周作によって開かれた道場「玄武館」があった。幕末の江戸三大道場の一つに数えられ門人に清河八郎・山岡鉄舟・新撰組副長山南敬助等がいる。坂本竜馬は周作の弟の定吉による「小千葉道場」の門人であったが玄武館でも稽古していたらしい。



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「お玉稲荷大明神」ビルの間にある小さな神社である。



千代田区岩本町2-5-13



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玄武館跡と碑。  神田東松下町22
  

 元は小学校であったが現在は校門のみ残されている。横門が碑を見学する人のために開けれるようになっている。
 場所は都営新宿線「岩本町駅」A1出口を出て右側に20mほど行った交番の角を右に曲がり同じくらい進んだ所。地下鉄出口前に地図があるので確認すれば分かりやすい。



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| 江戸時代 | 22:23 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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伊藤松和

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日本橋北内神田両国濱町明細絵図(安政6年、1859)

 中央下に碁打ち伊東(伊藤)松和の名が見られる。

 伊藤松和は1801年~1878年の人。本因坊の門人で阪口仙得、太田雄蔵、安井算知らとともに天保四傑といわれる。

 はじめの名は松次郎。名古屋の商家に生まれ、伊東子元に師事した。子元が亡くなった後、同じ子元門下の門人とともに墓碑をつくった。

 本因坊門に入るきっかけは尾張藩士が才能を見込んだことにある。金銭的な援助を受け十二歳のときに十一世本因坊元丈の門に入る。しばらく名古屋にとどまったが、三十九歳で江戸に出てからは坊門の重鎮となった。四十九歳で七段となり名を松次郎から松和とあらため御城碁に出場。

 天保の末ごろ(1840年代)、神田お玉が池に道場を構えた。それが上の古地図の位置です。

 当時のお玉が池には千葉周作も剣術道場を開いており、剣豪千葉周作も碁好きだったといわれる。もしかすると交流があったのかとも考えたくなる。

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 江戸時代の古地図と明治の地図、現代の地図をコンピューターにより照合しわりだした。写真はその場所に行ってきたもの。

場所:千代田区岩本町2丁目3-11 明治鋼業ビル
 (同ビルも含めその区画全体が跡地)

| 本因坊家 | 17:39 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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慶運寺(浦島寺)

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 横浜にある慶運寺は別名浦島寺といわれ、浦島太郎の物語の基になったという縁起書や浦島太郎が竜宮城から持ち帰ったとされる観音像が安置される。



 ちなみにここは横浜開港当初フランス領事館にあてられた。




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 カメのかたちをしたものが多く見られた。

| 幕末・明治維新 | 19:30 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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勝願寺

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 埼玉県鴻巣にある勝願寺は、関東十八壇林の名刹で、江戸初期の関東郡代伊奈忠次・忠治の墓がのこっている。土木技術にすぐれた忠次は徳川家康に重用され、あとを継いだ忠治は利根川の東遷、荒川の西遷をおこなった。このほかに信州松代藩祖真田信之の妻小松姫の墓もある。夫妻の息の墓もとなりにある。そのほかの有名人の墓もあり、松尾芭蕉の千句塚もある。



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芭蕉の千句塚



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真田氏の墓

| 江戸時代 | 14:21 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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箕田氷川八幡神社

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 北鴻巣駅を西側に進むとある。



 この辺りは10世紀はじめ、嵯峨源氏河原左大臣源融の孫が開墾し居館をつくった地とされている。その子孫に渡辺綱らがいる。



 この神社は永延2年(988)に勧請されたという伝承があり、別名綱八幡という。宝暦9年(1759)建立の箕田碑(写真右)があり、この地と箕田源氏の由緒が記されている。

| 平安時代 | 09:06 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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囲碁番付表

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 安政六年のもの。

 本因坊、林、井上とあるが、四家のうち安井の名が見られない。このときの当主は安井算知と思われる。

 勉強不足かもしれないが、なぜ安井家だけないのだろうか。

| 囲碁史あれこれ | 19:06 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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十輪寺

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 十輪寺は埼玉県の秩父に向かう途中にある。



 ここには本堂に囲碁(琴棋書画)の襖絵がある。



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| 囲碁のある風景 | 20:12 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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烈元の碁盤

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十世本因坊烈元の実家に伝わる碁盤。きっと烈元も愛用したのではないかとのことだが事実は不明。

| 本因坊家 | 20:43 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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岩田右一郎

 岩田右一郎は幕末から明治にかけての棋士である。島根県安来の出身で幼いとき本因坊門に入り本因坊門の塾頭をしたことのある岸本左一郎に教えを受けた。地元では画家としても知られている。

 棋譜は数えるほどしか残っていない。

 明治十七年に石谷広策との対局中に倒れ死去した。

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岩田右一郎の墓がある円光寺(島根県安来市荒島)

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岩田右一郎の墓

 墓は本堂に行く前の碑(左上の写真)の横にある細い坂道を上がった高い場所にある。

 岩田右一郎のことは囲碁を打つ人でもほとんどしらないのではないかと思われる。さらに墓がどこにあるかなど知っている人もほとんどいないのでは、いや、知ろうとする人があまりいないのではないか。

 たしかに歴代本因坊やそのほかの家元の当主にくらべ、知名度は格段に落ちる。しかし、こういう人物こそ大切ではないかと思われる。

| 本因坊家 | 10:34 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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