烏鷺光一の「囲碁と歴史」

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萬福寺(雪舟庭園)

 萬福寺は元は安福寺と言ったが応安7年(1374)益田家城主「益田兼見」により現在の地に移され名を改めるとともに益田氏の菩提寺としている。本堂は当時のまま残り造りは鎌倉時代の様式である。(国指定 重要文化財)
 また、幕末には第二次長州征伐、益田口戦争において幕府軍(福山・浜田藩)の陣地となり本堂の柱にはその時の弾跡が残されている。
 庭園は雪舟が作庭したもので寺院様式須弥山風の庭である。国の史跡および名勝に指定されている。

萬福寺ホームページ

http://www13.ocn.ne.jp/~mannyou/



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門と本堂

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雪舟庭園

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雪舟の像

 また、近くの観光用駐車場に隣接して「染羽天石勝神社」がありお参りしました。

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| 室町時代 | 23:00 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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医光寺(雪舟庭園)

 島根県益田市にある医光寺は元は貞治元年(1363)に創建された天台宗崇観寺(すうかんじ)の塔頭(たっちゅう:寺の敷地内に建てた小院)であった。崇観寺は文明年間(1469~1486)に山口から招かれた雪舟が5代目住職を務めている。その後、戦国時代に入り寺は荒廃していったが益田家17代城主「益田宗兼」によって医光寺が再建され崇観寺を継承している。(現在は臨済宗東福寺派)
 医光寺の裏山に造られた庭園は雪舟により造園されたもので国の史跡および名勝に指定されている。池泉観賞半回遊式の庭園で鶴池に亀島を配置している。
 また、再び益田を訪れた雪舟が東光寺(大喜庵)にて永正3年(1506)に87歳で亡くなると亡骸は嵩観寺に運ばれ、ここで荼毘に付されている。(寺の格式によるものらしい。)灰塚が残されている。
 総門は七尾城(益田城)の大手門を移築したものと伝わっている。毛利家の家臣となった益田氏が関ヶ原の合戦後、長門・長州の2国に減封となった毛利に従って長門須佐に移り廃城となったためらしい。

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総門(左)と本堂(右)

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「雪舟庭園」   鶴の形をした池に亀の形をした島を配置している。

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益田家 第17代城主 益田宗兼の墓

| 室町時代 | 21:51 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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雪舟の郷記念館と大喜庵

 水墨画で有名な画聖雪舟は晩年を益田の東光寺ですごし、ここで亡くなった。(1502か1506)東光寺はその後火災により焼失し荒廃していたが大喜松祝という人が元禄3年(1650)に「大喜庵」として再建している。この時、雪舟の墓も発掘して建立されたが風化により崩壊したため宝暦年間(1751~1764)に墓石を改築した。

 大喜庵の隣にはガイダンス施設として「雪舟の郷記念館」があるので、まずここで情報収集して雪舟ゆかりの地を訪ねてみた方が良い。

雪舟の郷記念館ホームページ

http://www.iwami.or.jp/sessyu3/index.htm



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雪舟の郷記念館(左)と雪舟の像(右)

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大喜庵(左)と「画聖雪舟禅師終焉地碑」(右)

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雪舟の墓(左)と雪舟禅師追褒塔(右)

 ※現在の墓は江戸時代に作り直されたものだが、墓の後ろに安置されていた旧墓石を平成17年(2005)に500回忌を機に追褒塔として再建した。

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雪舟硯水霊厳泉

 ※雪舟が伯耆大山(鳥取県)にある七井戸の一水を水神に供えて設けたと言われ、硯の水や茶の湯として愛用していたと伝えられている。

| 室町時代 | 20:05 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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柿本神社(高津)

 島根県大田市を訪れた翌日、益田市まで足を延ばしてみた。まず訪れたのは高津にある柿木神社で飛鳥時代の歌人で万葉集にも多くの歌を残している柿本人麻呂が祀られている。人麻呂については謎が多いが終焉の地は益田川河口の沖にある鴨島という所で、その死を悼んだ聖武天皇の勅命でそこに人丸社が創られた。しかし鴨島は万寿3年(1026)の大地震で津波により水没し現存していない。この時に流された神像が高津の松崎に漂着したため、ここで再建されている。江戸時代に入り石見銀山奉行の大久保長安も造営を行ったが西風や飛砂による影響を受けやすい場所のため、この地を治める津和野藩主の亀井慈親により高津城のあった現在地に移された。

 ちなみに石見国に関わりのある歌聖人麻呂、画聖雪舟、碁聖道策は「石見三聖」と呼ばれている。
 益田市の郊外の戸田にも人麻呂が生まれた地とされる柿本神社があるため通称で高津柿本神社とも呼ばれる。

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石段(左)と楼門(右)

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本殿(左)と亀の碑(右)

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人麻呂の像(左)と近年の海底遺跡調査で鴨島と思われる場所から引き揚げられた石(右)

| 飛鳥時代以前 | 08:59 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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石見銀山2

 石見銀山の坑道跡(間歩)へは交通規制のため3kmくらい歩いて行かなければいけないため時間の都合で今回はあきらめ駐車場の近くの大森地区を見て廻った。


 羅漢寺の五百羅漢は世界遺産「石見銀山遺跡」の構成資産の一部であり18世紀中頃に銀山で亡くなった方や先祖の供養のために造られた。岩盤斜面に石窟を堀り、中に五百体もの坐像が安置されていて当時の銀山の石工技術の高さを物語っている。




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五百羅漢




 勝源寺は江戸幕府二代目代官「竹村丹後守」が造った寺院で裏山には東照宮があり家康から11代将軍家斉までの位牌が祀られている。また、竹村丹後守をはじめ5名の代官の墓所もある。その他かくれキリシタン地蔵も拝観できる。




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勝源寺




 最後に世界遺産とは関係無いが代官所跡の隣にテレビでも良く紹介される有名な企業があったので紹介したい。「中村ブレイス株式会社」は義手や義足など事故や病気で体の一部を失った人のための装置「義肢装具」を製造販売している会社で2003年にこの会社がモデルとなったアフガニスタンで地雷により右足を失った少女と義肢装具士とのふれあいを描いた「アイ・ラヴ・ピース」という映画も製作されている。最近では乳がんで失った乳房を本物そっくりに再現させる「メディカルアート」も注目を集めている。会社の入口にはこの地を訪れた作家の松本清張氏が黙々と義肢作りに励む人達に感動して送った言葉が石碑となっている。




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中村ブレイスと松本清張の石碑。



石碑には「空想の翼で駆け現実の山野を征かん」と刻まれている。



| 歴史あれこれ | 13:52 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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石見銀山1

 世界遺産に登録されている島根県大田市の「石見銀山」に行ってみた。残念ながら時間の関係で車で行ける大森地区のみの見学となり銀山跡(間歩)は見る事が出来なかった。


 石見銀山は鎌倉時代末期に発見され、その後、大内、尼子、毛利と有力な戦国大名により激しい争奪戦が繰り広げられた。豊臣時代は毛利・豊臣の共同管理となり朝鮮出兵の軍資金に充てられている。江戸時代には幕府直轄領となり初代銀山奉行の大久保長安により開発が進められ世界に輸出される。当時のヨーロッパの世界地図で日本の地名に記される等、世界的に知られる銀山であった。大森地区は二代目奉行が陣屋を移転したことにより役所や宿が置かれ発展した。


 ちなみに囲碁との関連を考えてみると、本因坊道策の生まれた山崎家の二代目「山崎善右衛門」は大久保氏に仕え銀山開発や物資輸送に関わっているし、本因坊秀策の兄弟子「岸本左一郎」は大森地区の出身である。



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代官所跡(石見銀山資料館)




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観世音寺(左)と観世音寺から見た大森地区の風景(右)

| 歴史あれこれ | 10:48 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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岸本左一郎顕彰碑と満行寺

 島根県大田市仁摩町天河内の国道9号線沿いに仁摩サンドミュージアムがあるが、その付近の交差点を日本海側(北側)にしばらく進むと満行寺というお寺がある。石見(大森)銀山の山城・山吹城主に関わりがあるかなり大きな寺である。そして、この満行寺の近くに江戸時代後期の名棋士、岸本左一郎の顕彰碑があるという事で訪ねてみた。左一郎は本因坊丈和のもとに入門し後に塾頭もつとめている。秀策の兄弟子で石見銀山の代官所があった島根県大田市大森の出身である。大森から離れたこの地になぜ碑が建てられたか定かではないが、現在は国道9号線からかなり離れて閑散としているが、かつての山陰道沿いであり賑わいのある場所として選ばれたのではないかとは益田市在住の囲碁史会会員の大庭氏の意見である。

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満行寺

 それにしても碑に辿り着くまでには結構苦労した。というのも満行寺の駐車場付近の小高い丘と聞いていたが、それらしいものが見えない。しばらく歩きまわり、ようやく駐車場に隣接した山(林)に登り見つける事ができた。

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 写真(左)が顕彰碑のある場所。右の石垣が満行寺で左が駐車場。真ん中の道を進み石垣を通り過ぎてすぐ左の山(林)にある。登り口の目印として写真(右)のとおり「岸本橘堂先生之碑」という案内碑がある。駐車場付近から眺めてもだだの山にしか見えないので注意。
 顕彰碑の表の碑文は、本因坊秀和により書かれている。日付は万延元年(1860年)とある。

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顕彰碑

| 本因坊家 | 21:52 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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琴姫伝説と仁摩サンドミュージアム

 「本因坊道策出生の地」で紹介した琴ヶ浜は全国有数の鳴り砂の海岸である。そして鳴り砂にまつわる「琴姫伝説」が残されている。

 源平の合戦で壇ノ浦にて平氏は滅ぼされたが、そこから逃げ延びた美しい平家の姫が小舟にて馬路の浜に流れついた。手には琴を抱えていた。村人達の手厚い看病により一命をとりとめた姫は、せめてものお礼にと毎日琴を奏で村人達の心を癒した。村人は心から姫を敬っていたが一年後に突然亡くなってしまう。悲しんだ村人達が浜一帯が見下ろせる丘に琴とともに葬ったところ翌日から浜を歩くと姫の琴と同じ美しい音が鳴り響くようになった。




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 琴ヶ浜に建てられた「琴姫の碑」




 琴ヶ浜の近くには「仁摩サンドミュージアム」がある。外観はガラス張りのピラミッド群であるが、これは琴ヶ浜の鳴り砂とエジプトのクフ王のピラミッド内にあった鳴り砂がよく似ている事にちなんだそうだ。鳴り砂についてもここで学ぶ事が出来る。そして有名なのが中に設置されている全長5.2m一年計砂時計である。もちろん大きさは世界一である。毎年12月31日から元旦にかけて時計を反転させるイベントが開催されている。




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仁摩サンドミュージアムと一年計砂時計(島根県大田市仁摩町天河内975) 

| 旅行記 | 22:20 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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本因坊道策出生の地

 碁聖本因坊道策の生まれた島根県大田市にある馬路を訪れました。
 道策は本姓を山崎、幼名を三次郎という。次男のとして生まれ、弟には二世井上因碩となる千松がいる。この山崎家からは後にも九世井上因碩が出ている。
 山崎家の祖は毛利元就、輝元の家臣だった松浦但馬守という人物で山崎の地に移り住み、姓を山崎とした。
 今でも山崎家には道策が幼少のころに使っていた碁盤や碁石ものこされている。道策は母ハマから碁の手ほどきを受け、間違いがあったりすると井戸の水をかけられたりしたという。その井戸ものこっている。
 ハマは細川家に乳母として行っていたこともあり、道策と細川家つながりを持っていた。これが後に囲碁界にもいくつかの関わりをもつようになってくる。
 この当時はなかなか碁盤や碁石が買えなかったのか、道策が幼少のころに使っていた碁石は琴ヶ浜からとってきた貝殻や石だという。

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琴ヶ浜は山崎家のすぐ側にある。

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山崎家を見下ろすところにある道策、因碩の墓(碑)。

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二人の墓の隣にあるのが山崎家初代の墓。
下の写真は新しく造られたもの。

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| 本因坊家 | 17:31 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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小塚原刑場跡(延命寺)

 小塚原刑場は江戸時代から明治の初めにあった刑場である。場所は南千住駅のすぐ西にある現在の延命寺境内に位置する。延命寺は元々隣の回向院の敷地の一部だったが常磐線の鉄道敷設にあたり分断され独立した。



 寛保元年(1741年)に高さ3mほどの「首切り地蔵」が建てられた。



 



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延命寺(左)と首切り地蔵(右)



| 江戸時代 | 21:52 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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