烏鷺光一の「囲碁と歴史」

2011年01月 | ARCHIVE-SELECT | 2011年03月

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小塚原回向院(南千住回向院)

 南千住駅のすぐ西側にある寺で両国回向院の別院。江戸時代に小塚原刑場で処刑された人々を供養するために創建された。安政の大獄で処刑された吉田松陰や橋本左内の墓もある。



 また、杉田玄白らが明和8年(1771年)刑死者の解剖に立ち会い、オランダ語医学書「ターヘル・アナトミア」の解剖図の正確さを確認した場所でもある。この本は後に和訳し「解体新書」として刊行される。寺の壁には「観臓記念碑」が設置されている。



 



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 回向院と「観臓記念碑」



 



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吉田松陰の墓(左)と橋本左内の墓(右)



 





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| 江戸時代 | 21:31 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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隅田公園

 墨田区役所で勝海舟の像を見た後、枕橋を渡って隅田公園に行ってみた。枕橋では水面に映る建設中の東京スカイツリーが良く見えた。



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枕橋と橋上から見る東京スカイツリー




 隅田公園は旧水戸藩下屋敷「水戸徳川家小梅邸」で江戸時代から花見の名所として知られている。、明治8年に明治天皇が東京に移られて初めての花宴の会場にも選ばれ、その際に詠まれた歌が残されている。



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隅田公園と明治天皇の歌碑



 隅田公園を歩いていると牛島神社に辿り着いた。体の悪い所と同じ場所を撫でると治るという「撫で牛」で有名だが当日、結婚式の最中だったので近づくのを遠慮して代わりに包丁塚の牛の像を撮影した。このあたりは向島の料亭の近くなのでその関係らしい。



 また、江戸落語中興の祖と言われる烏亭焉馬(うていえんば)が文化7年(1810年)に自ら建てた「いそかすは」の狂歌碑があった。




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牛島神社と包丁塚




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「いそかすは」の狂歌碑

| 歴史あれこれ | 22:13 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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勝海舟の像(墨田区役所・能勢妙見堂)

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勝海舟の銅像

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銅像付近から眺める隅田川と隣接するアサヒビール本社ビルに映る東京スカイツリー

 勝海舟は幕末・明治の激動期において、世界の中の日本という卓越した見識で海国日本の礎を築くとともに坂本竜馬等、多くの人材を育成した。また、西郷隆盛との会見により江戸城無血開城を行ない江戸を戦禍から救った事でも有名である。
 彼の生まれ育った墨田区では、その業績を讃え平成15年に墨田区役所脇(うるおい広場)の隅田川沿いに勝海舟の銅像が設置されました。

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能勢妙見堂の勝海舟翁の銅像 

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能勢妙見堂(別院)

妙見堂(墨田区本所4-6-14) は勝海舟が天保2年(1831年)九歳の時に犬に急所を咬まれた際に全快を祈願し父小吉が水ごりをしたとも伝えられ、勝海舟翁の銅像が建てられています。

| 幕末・明治維新 | 17:25 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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東海寺大山墓地

 品川にある東海寺については「渋川春海の墓」で紹介したが同じ墓地に史跡に指定されている墓があるので紹介したい。なお、改めて言うが墓は東海寺にあるのでは無く200mほど離れた「大山墓地」にあるので現地にある案内図で確認してほしい。

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沢庵和尚の墓

東海寺は沢庵和尚に帰依した徳川家光が和尚を江戸に留まらせるために創建した寺であり「沢庵漬け」の物語の舞台にもなっている。

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賀茂真淵の墓(国指定史跡)

 賀茂真淵(1697~1769)は江戸時代の国学者、歌人であり「万葉集」等の古典を通じて古代の日本人の精神を研究した。門下生に本居宣長がいる。

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鉄道の父「井上勝」の墓(鉄道記念物)

 井上勝(1843~1910)は元長州藩士で脱藩の後イギリスへ密航しロンドンに留学。鉱山技術、鉄道技術を学ぶ。帰国後、鉄道庁長官として新橋・横浜間の鉄道や東海道線等、鉄道事業の発展に尽力し「鉄道の父」と呼ばれる。また、岩手県にある日本最大の民間総合農場「小岩井農場」は東北本線が盛岡まで延伸した時に当時の日本鉄道株式会社副社長の小野義眞、三菱社社長の岩崎弥之助と鉄道庁長官の井上が共同創始者となり三名の頭文字をとって名付けられた。墓は1964年に旧国鉄により「鉄道記念物」に指定されている。ちなみに墓の後ろがフェンスになっているが東海道新幹線が隣接している。

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官営品川ガラス製造所跡

 最後に墓地とは直接関係無いが大山墓地の入り口に「近代硝子工業発祥の地」の碑があったので紹介します。当時の工場の一部が愛知県犬山市の明治村に移築されているそうです。

| 歴史あれこれ | 23:41 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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金玉均3

 はじめ金の亡命は秘された。

 朝鮮が金の引渡しを要求してきたが、明治政府は知らぬ存ぜぬで通した。たとえ亡命していても万国公法で政治亡命人は引き渡せぬとした。

 金は福澤諭吉、浅草、横浜と居を替え、明治十八年四月には関西方面にいた。

 九月東京にもどり、一切来客を断って書き物をしていたという。

 十一月、旧自由党の大井憲太郎らの朝鮮侵攻計画が発覚し、金との関連が云々された。

 明治十九年には後藤象二郎の紹介と思われるが、本因坊秀栄と会うことになった。

 このころの囲碁界は、村瀬秀甫を社長とする方円社と旧時代の権威である本因坊家との対立があった。

 秀栄は十四世本因坊秀和の次男で林家に養子になっていたが、十五世、十六世を継いだ長男秀悦、三男秀元が辞め、秀栄が本因坊家にもどり十七世を継いだ。そのため、秀和の一番弟子だった村瀬秀甫との対立が深まった。

 そんなときに金と秀栄は出会った。

| 囲碁が関わった出来事 | 15:45 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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金玉均2

金が中心になり明治十七年十二月、急進的開化派を糾合し、上からの大変革をめざす甲申政変をおこす。守旧派大臣を殺し権力を掌中にした。そして、富国強兵をめざす近代的な改革案を発表した。

この政変のとき、金は公使館付の日本軍を王宮守備につける約束をしていたのだが、圧倒的な清国軍の攻勢を支えきれず敗れた。権力掌握期間はわずか三日間であった。

この年の暮、多くの同士を失った金ら九人は日本に亡命した。

| 囲碁が関わった出来事 | 20:57 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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金玉均1

金玉均は近代朝鮮の政治家である。

明治囲碁史で本因坊秀栄との交流が深かった。

金は封建社会の矛盾を直視し朝鮮の現状に危機感を持った。封建制度を廃し、資本主義としなければ国の発展はないと考えた。

日本をモデルとしようとした。

後に日本に亡命することになるが、それ以前に三度訪日している。明治十五年にはじめて訪日し、福沢諭吉、後藤象二郎、榎本武揚、井上馨などの交流に努めた。特に後藤象二郎との交流は後に本因坊秀栄との交流に結びついた。

金の三度の訪日は、祖国を近代国家に改造するためのものである。しかし、清に礼をとる守旧派との政治的対立も強くなっていった。

| 囲碁が関わった出来事 | 22:11 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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渋川春海の墓

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 品川にある東海寺です。
 ここには有名人の墓がいくつかありました。
 囲碁では天地明察で有名な天文方渋川春海(碁打ちのときの名を安井算哲)の墓がありました。

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墓は寺から少し歩いたところにありました。

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 安井算哲(渋川春海)は本因坊道策の時代で、父は初代本因坊算砂の弟子である。
 父の養子、算哲にとっての義兄には名人になった安井算知がいる。
 算哲は碁打ちの時代、御城碁に出仕、京で上覧碁を打つなどしている。

| 安井家 | 17:01 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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