烏鷺光一の「囲碁と歴史」

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呉清源と本因坊薫和  十番碁の碁盤

 和館「麒麟・大鳳」は、大正8年(1919)に、最初の持ち主、内田信也が母親の静養の場所として建てた別荘です。
 座敷の周囲を座敷と同じ高さに揃えた畳廊下で囲むバリアフリー構造は入側造と呼ばれ、車椅子で生活していた実母に対する配慮だと言われています。
 建物の特徴である群青色の壁は、旅館となってから塗り替えられたものだそうで、石川県加賀地方の伝統的な技法、「加賀の青漆喰」が採用されています。採用された理由は、旅館を開業した桜井兵五郎が石川県出身であったためといわれています。

麒麟の間入口
麒麟の間入口

 起雲閣の「麒麟の間」には、碁盤と碁石が展示されています。これは、昭和 24 年 2 月呉清源と本因坊薫和が打込み十番碁で使用したものだそうです。
 呉清源といえば木谷實との十番碁が有名ですが、その後も何人かと行っていて、本因坊薫和こと岩本薫とは、昭和23年(1948)7月7日から昭和24年(1949)年2月24日にかけて行われています。当時、岩本薫は本因坊位を連覇して八段になったばかりでしたが、結果は7勝2敗1ジゴと、呉清源が勝ち越しています。

麒麟の間
麒麟の間

碁盤
碁盤

裏書
裏書

棋譜
棋譜

静岡県熱海市 昭和町4-2
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東郷平八郎愛用の碁盤

 現在「伊東東郷記念館」として公開されている東郷平八郎元帥の別荘は、昭和4年(1929)に竣工しますが、昭和7年には離れが増築されています。

離れの外観
離れの外観

 その離れの座敷に、碁盤と碁石が展示されていますが、これは東郷元帥愛用の品だそうです。
 東郷は別荘滞在中は趣味の釣りや囲碁を楽しんでいたと伝えられています。棋力は「ザル碁」と呼ばれるほど弱かったそうですが、同じく軍神として崇められた乃木希典も同等の棋力を持つ囲碁好きだったため、明治44年に天皇の名代として二人がイギリス国王の戴冠式に出席した際には、その船旅の中で毎日対局していたとの逸話も残されています。

離れの間
離れの間

碁盤
碁盤

碁盤
碁盤

 箱の裏書は、犬養木堂(毅)直筆によるもので、碁盤は犬養より贈られたものであることが分かります。
 犬養も、囲碁の愛好家として知られています。

箱の裏書
箱の裏書

静岡県伊東市渚町3番8号

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大中寺の碁盤

 沼津市の大中寺には、臨済宗中興の祖・白隠禅師が使われたと言われる碁盤と、大正天皇が使われたと言われる碁盤が残されています。

 江戸時代、白隠禅師が住職を務める松陰寺と同じ宗派である大中寺に、白隠禅師は度々訪れ、住職とよく囲碁を打っていたと伝えられています。
 大中寺には江戸時代の碁盤が残されて、裏書などはありませんが、おそらく、白隠禅師が使われた碁盤ではないかと考えられています。

白隠禅師が使われた碁盤
白隠禅師が使われた碁盤

 皇室とゆかりの深い大中寺で、昭和10年に照宮成子内親王(当時10歳)がお成りの際、恩香殿に、皇室ゆかりの品々が並べられたそうです。その中に碁盤があり、内親王は碁盤の上にあがり遊ばれたため、それを目撃した当時8歳であった医王寺定信和尚は、なんておてんばな方だと思われたそうです。ただ、天皇家では「着袴の儀」で碁盤から飛び降りる儀式があり、内親王にしてみれば特別な行動ではなかったのかもしれません。
 寺では、この時の碁盤は、大正天皇ゆかりの碁盤と伝わっていたそうですが、箱書きには大正10年に岡田氏寄贈と書かれていたため、ご住職は、その話に信ぴょう性があるのかわからなかったそうです。
 ところが、医王寺定信和尚より内親王お成りの際の話を聞き、確かに碁盤が皇室ゆかりの品であることの確信を持ったそうです。
 おそらく、寺には立派な碁盤が無かったため、天皇お成りの際に檀家から寄進を受けたのではないかとの事でした。

大正天皇が使われた碁盤
大正天皇が使われた碁盤

 どちらの碁盤も一般公開されておらず、今回、ご住職に無理をいって拝見させていただきました。大変ありがとうございました。

静岡県沼津市中沢田457

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白隠禅師の墓 松陰寺

 沼津市原にある「松陰寺」は、鎌倉時代中期の弘安2年(1279)に創建。一時、衰退しますが、江戸時代前期に大瑞宗育により中興されます。松陰寺は、臨済宗中興の祖である白隠禅師が住職を務めた寺として知られています。

松陰寺参道
松陰寺参道

参道脇の石蔵
参道脇の石蔵

 松陰寺に着いたのは夕方で、門前にある仏壇店のご主人が店じまいをしておられましたが、私たちを見かけ、松陰寺について色々説明して下さいました。
 山門の瓦は石で出来ていて、その数は煩悩と同じ108枚あるそうです。

石瓦の山門
石瓦の山門

 「駿河には過ぎたるものが二つあり、富士のお山と原の白隠」といわれた白隠慧鶴は、元禄12年(1699)に松蔭寺で得度すると諸国を行脚し修行。享保2年(1717)に帰郷して松蔭寺住職となると、富士山宝永大噴火で荒廃した寺の復興を図ります。
 白隠禅師は禅の民衆化・革新に尽力し松蔭寺には多くの門弟が集ったと伝えられています。白隠禅師の活躍で当時衰退していた臨済宗は勢いを取り戻したことから、白隠は「中興の祖」と呼ばれています。
 白隠禅師は、明和5年(1768)に松蔭寺にて亡くなり葬られています。

松陰寺本堂
松陰寺本堂

 白隠禅師は、禅を広く民衆に広めるため、その教えを表した絵や書が多く残されています。その独特の表現法は現在でも高く評価されています。
 白隠禅師は囲碁の愛好家だったそうで、囲碁を打つ自画像も描かれています。「囲碁をする白隠自画像」では碁盤に線がなく、碁石も持っていません。見えない碁石で、見えない線に碁を打つ姿は、禅の教えを表現しているのでしょうか。

白隠禅師の墓
白隠禅師の墓

 白隠禅師の墓の近くに「白隠禅師塔所」と刻まれた巨大な碑が建立されています。本堂から背を向ける形で立っていますが、これは墓所に接している東海道本線の電車の窓から見えるように配置されたもので、白隠禅師の墓がここにある事を広く知らせるために、真珠王として知られる御木本幸吉が寄贈したものと伝えられています。

「白隠禅師塔所」の碑
「白隠禅師塔所」の碑

静岡県沼津市原128番地

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由比正雪の首塚 菩提樹院

 静岡市葵区沓谷にある臨済宗 妙心寺派の「菩提樹院」は、養老5年(721)に北側辺に創建された寺院で、後に駿河国分尼寺国分尼寺の法灯を受け継いだ後継寺院でもあったと伝えられています。
 寺伝によると、菩提樹院は武田氏の駿河侵攻で焼失。そして天正年間(1573~1592)に寺町(現在の常磐公園付近)に再建(駿府城築城のための移転という話も)されますが、昭和15年(1940)の大火で焼失し、現在地に再移転しています。

菩提樹院
菩提樹院

 菩提樹院の境内には「伝駿河国分寺の塔心礎」があります。
 石に刻まれた銘文によれば、明和8年(1771)に、当時の駿府城代武田越前守信村により三ノ丸の城代屋敷内にあった社の手水鉢として転用、奉納されたそうで、その際に、水溜めにするため円形の孔を現在の楕円形の大きさに拡げたそうです。
 昭和5年(1930)に、三ノ丸跡に建てられた日本赤十字社静岡支部の庭(現県総合福祉会館)で発見され、昭和28年に菩提樹院へ寄進されています。

駿河国分寺の塔心礎
駿河国分寺の塔心礎

 菩提樹院の境内に、由比正雪の首塚と伝わる五輪塔があります。
 由比正雪は慶長10年(1605)、駿河国由井(静岡市清水区由比)の紺屋の家に生まれ(諸説あり)、江戸で楠木正成の子孫を称する楠木正虎の子、楠木不伝に軍学を学び、その婿養子となると、軍学塾「張孔堂」を開き、3000人もの門弟に軍学を教えています。
 当時、多くの大名家が幕府により取り潰され、浪人の増大が大きな社会問題となっていましたが、正雪は、幕府の政策を批判し、慶安4年(1651)、第3代将軍徳川家光が亡くなり、11歳の徳川家綱が新将軍となると、浪人の救済を掲げ、宝蔵院流の槍術家丸橋忠弥、金井半兵衛らと共に浪人を集め各地で挙兵し、幕府を転覆する計画を立てます。計画は実行寸前で、密告により露見。正雪は駿府の宿に滞在中、町奉行の捕り方に囲まれ自刃しています。この騒動は「慶安の変」または「由井正雪の乱」と呼ばれています。
 斬首された正雪の首は安倍川の河原で、さらし首とされていましたが、縁者により密かに運び出され菩提樹院に葬ったと言われています。

由比正雪の首塚
由比正雪の首塚

 由比正雪の計画が露見したのは、一味に加わっていた奥村八左衛門の密告によるものと言われていますが、後に描かれた物語では、その理由として奥村が丸橋忠弥と碁を打っていたときに正雪が色々と口を出したことに腹を立てて裏切ったという話もあります。

由比正雪像
由比正雪像

 首塚の脇には、正雪の辞世の句碑が建立されています。

 「秋はただ なれし世にさえもの憂きに 長き門出の 心とどむな 長き門出の 心とどむな」

辞世の句碑
辞世の句碑

静岡県静岡市葵区沓谷1344−4

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