烏鷺光一の「囲碁と歴史」

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吉備大臣産湯の井戸

 吉備真備公園の一画に「吉備大臣産湯の井戸」と伝えられる井戸があります。
 吉備真備公の誕生の前夜、東の空から流れ星がこの井戸に落ちたとの伝説から「星の井」とも呼ばれていたそうです。


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吉備大臣産湯の井戸



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現地説明板



 公園内にある「館祉亭」は、うどん屋さんで、安くて結構おいしいと有名な所だそうです。



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館祉亭





吉備真備公園:岡山県小田郡矢掛町東三成3872−2



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| 奈良時代 | 23:37 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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長岡京跡と藤原種継

 大阪での取材を終え、電車で移動し京都府長岡京市の長岡天神駅へと降り立ちました。ここからはレンタカーでの移動となります。(私は運転せずに同乗するだけでしたが)



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長岡天神駅



 長岡京市とは文字通り、昔、「長岡京」という都があったところです。「長岡京」は延暦3年(784)から延暦13年(794)まで10年間、天皇が政治を行った日本の首都でした。
 天応元年(781)に即位した桓武天皇は70年以上都であった平城京からの遷都を計画します。理由は諸説ありますが、既存仏教勢力や貴族勢力から距離を置くためや、平城京は近くに大きな河川が無くて物資の運搬が不便であったこと。また、数代にわたり天武天皇の皇統が天皇に即位しいたのが、父の光仁天皇の代から天智系に戻った事により人心を一新しようとしたとの説があります。
 そして選ばれたのが平城京から北へ40km離れた長岡の地で、桂川や宇治川など、3本の大きな川が合流し淀川となる地点で水運に恵まれている場所でした。
 都の造営は桓武天皇の側近である藤原種継により進められ、宮殿は難波宮の宮殿が移築されています。これは平城京の宮殿を移築して遷都に反対する勢力や奈良に住む人々を刺激しないようにとの配慮からでした。
 ところが、延暦4年(785)に遷都を指揮し政権の中枢を担っていた藤原種継が暗殺されます。首謀者の中には、平城京の仏教勢力である東大寺に関わる役人も複数いたそうです。また、桓武天皇の皇太弟早良親王も関与していたとして幽閉・配流となり、親王は配流先に向かう途中に亡くなります。親王の死後、日照りによる飢饉や疫病が流行り皇族にも不幸が続いたため親王の祟りとされ、また、都は水運に恵まれていた反面、大雨により川が氾濫したことから和気清麻呂の進言もあって長岡京は僅か10年で廃され、都は平安京へと移っていきました。
 長岡京の大局殿のあった場所は長岡京市に接する向日市にありますが、現在は公園として整備されています。



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長岡京跡大極殿公園



 余談ですが、長岡京造営を指揮し暗殺された藤原種継の曽祖父・弁正は囲碁の達人だったそうです。京都の太秦に名を残す泰一族の出身である僧侶の弁正は大宝2年(702)留学僧として遣唐使に加わり入唐します。唐では、囲碁が好きだった皇子の李隆基に度々呼び出され囲碁の相手をしていたそうです。李隆基とは後の玄宗皇帝のことで開元の治と呼ばれる善政で唐を絶頂期に導きますが、その後、楊貴妃を寵愛したことで政治への関心をなくし反乱により失脚した人物です。弁正はその後、還俗して唐人の女性と結婚し唐で一生をすごします。しかし、唐で生まれた息子の秦朝元は遣唐使に同行して来日。朝廷に仕えます。朝元の娘が藤原家に嫁ぎ種継を生んでいます。



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長岡京跡の碑

 非業の死を遂げた藤原種継ですが、その娘・藤原薬子は桓武天皇の跡を継いだ平城天皇の寵愛を受けることになります。薬子の兄・藤原仲成はこれを利用して勢力を拡大しますが平城天皇は病のため、弟の嵯峨天皇に譲位し上皇として平城京へ移ります。その後、平城上皇は回復したため平安京と平城京に二つに朝廷が並ぶようになります。平城上皇側は復位を目的に平城京への遷都を宣言したため対立が激化していきます。大同5年(810)、嵯峨天皇は仲成を捕らえて、薬子の官位を剥奪。平城上皇は挙兵のため東へ向かいますが、嵯峨天皇は先手をうって坂上田村麻呂を派遣。待ち伏せされ負けを悟った平城上皇は平城京に戻り剃髮。薬子は毒により自殺。仲成も処刑されたそうです。この事件は薬子が平城上皇をそそのかしたとして「薬子の変」と呼ばれていましたが、近年では「平城太上天皇の変」と呼ばれるようになったそうです。



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長岡京跡の碑

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説明板




向日市鶏冠井町大極殿

| 奈良時代 | 10:04 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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不入岡遺跡

 伯耆国分寺跡から北西に1km余り行ったところに「不入岡(ふにおか)遺跡」があります。
 平成5年(1993)に倉吉市不入岡で土地区画整理による発掘調査で見つかった遺跡は奈良から平安時代にかけての大規模建物群で全国的にも例のない発見として話題となりました。
 遺跡は、その時期からⅠ期とⅡ期に分けられ、Ⅰ期は8世紀前半のもので、現在の伯耆国庁の前身的な施設であったと考えられています。つまり、万葉歌人・山上憶良が伯耆守として赴任していたのはここではないかという説があります。Ⅱ期は8世紀後半から10世紀にかけての施設で、巨大な掘立柱建物が軒を接するように10棟並列しており、当時の税にあたる調・庸を集積しておく伯耆国庁直轄下の倉庫群と考えられています。
 不入岡遺跡は、すでに国の史跡として指定されていた国庁跡、国分寺跡、法華寺畑遺跡に追加されて平成12年に国の史跡に指定(名称変更)されました。ただし、現在は遺跡は埋め戻され畑となっていて案内板があるのみです。



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不入岡遺跡



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現地案内板にある発掘当時の写真




 不入岡に隣接した所に「不入岡の石仏」があります。舟形の安山岩に、上に阿弥陀如来像、下に合掌した僧侶が刻まれています。南北朝時代の「永和」の年号が刻まれていますがこの時代の石造物は少なく大変貴重なものだそうです。「願主 道意」と刻まれているため、僧侶像は「道意」という人物であることが分かりますが、「道意」については確証はないものの、後醍醐天皇が流罪となっていた隠岐島を脱出した際に護衛し、建武の新政下で伯耆守として天皇近侍の武将となった「名和長年」の四男・行忠が法名・道意であるから行忠ではないかと考えられています。




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不入岡の石仏




「不入岡遺跡」「不入岡の石仏」  鳥取県倉吉市不入岡



| 奈良時代 | 11:47 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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山上憶良が赴任した伯耆国庁跡と国庁裏神社

 倉吉市の伯耆国分寺跡や法華畑寺遺跡(国分尼寺)の近くには伯耆国庁跡もあります。
 国庁は奈良時代から平安時代にかけて存在した律令制下における国の役所です。
 国庁では中央から派遣された国司が行政や祭祀を司りました。伯耆国庁に派遣された人物の中には「万葉集」にも多くの歌を残している歌人・山上憶良もいます。山上憶良は霊亀2年(716)から数年間、伯耆守として赴任していますが、記録によると現在発見されている場所ではなく、その前にあった別の場所という事ですが場所は特定されていません。
 国庁跡は将来、公園として整備する計画があるそうですが、現在は空地や畑が広がり案内板のみが設置されています。




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伯耆国庁跡




 国庁跡の前にある森の中に「国庁裏神社」があります。伯耆国の総社です。
 総社とは国の祭祀を司る国司が各地にある神社を参拝するのが大変なため祭神を一つに合祀した神社です。




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国庁裏神社




伯耆国庁跡 鳥取県倉吉市国府・国分寺



国庁裏神社 鳥取県倉吉市国分寺



| 奈良時代 | 05:55 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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伯耆国分寺跡と法華寺畑遺跡

 倉吉市郊外にある伯耆国分寺は現在、史跡公園として整備されています。
 国分寺は奈良の大仏建立等、仏教を保護した聖武天皇により天平13年(741)に全国各地に建立された寺院です。
 伯耆国分寺は昭和45年に発掘調査が行われ、南北160mの寺域に金堂・講堂等の跡が確認されています。天暦2年(948)に火災のために焼失したとの記録があり発掘調査からも火災の痕跡が発見されています。




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伯耆国分寺跡。右は塔跡



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金堂跡(左)と近隣から集められた五輪群(右)




 伯耆国分寺跡の北側約50mのところにある「法華寺畑遺跡」は文献や出土品から「国分尼寺」であったと考えられています。しかし、建物配置は官衙跡(国の役所)と共通するものがあるため役所を「国分尼寺」に転用したのではとの説もあります。
 跡地は伯耆国分寺跡と同じく公園として整備されていて、当時の工法により四脚門が復元されています。




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法華寺畑遺跡案内板(左)と復元模型(右)



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法華寺畑遺跡(左)と復元された四脚門(右)




 伯耆国分寺跡の近くにある倉吉市立・社小学校の前庭に「伯耆国分寺石仏」(五体の石仏)と呼ばれる謎の石仏が5体あります。80㎝ほどの角柱状の石材に、顔を大きく薄肉彫りに彫ったもので伯耆国分寺跡から出土したといわれています。石材の形状から国分寺の地覆石を転用したともいわれていますが、制作年代や作者は全く不明の謎の石仏です。




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国分寺跡から発見された「五体石仏」




 伯耆国分寺跡・法華寺畑遺跡  鳥取県倉吉市国府、国分寺



| 奈良時代 | 06:14 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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