烏鷺光一の「囲碁と歴史」

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平塚駅 囲碁のまちひらつか記念塔

 神奈川県平塚市へやってきました。近代囲碁に大きな功績を残した木谷實九段は、平塚に居を構え、全国の才能豊かな子どもたちを自宅に預かり育てています。
 「木谷道場」と呼ばれた、その家で暮らした弟子は70人近くにもなり、その多くが現代の囲碁界を代表する棋士になっています。
 そのような縁から、平塚市は囲碁を貴重な文化資源として位置付け、囲碁文化の普及・振興を推進しています。

平塚駅
平塚駅

 平塚駅北口付近にある「囲碁のまちひらつか」記念塔は木谷實九段生誕100年を記念して平成21年(2009)に設置されたもので、詰碁の問題が掲示されています。なお、この問題は定期的に変更されているそうです。

囲碁のまちひらつか記念塔
囲碁のまちひらつか記念塔

平塚市宝町 平塚駅北口
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| 囲碁のある風景 | 07:00 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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方円社の新会館

 明治12年(1879)に設立された方円社は神田区表神保町にありましたが、明治26年(1893)に神田区錦町三丁目へ新築移転し披露会が開催されています。
 明治19年(1986)10月14日に初代社長・本因坊門秀甫が亡くなり、中川亀三郎が二代目社長となっていますが、方円社の経営は実質的に小林鉄次郎が行っていて安定していました。表神保町の住所は寄留となっていて借家のようでしたので、念願の自社ビルを建築したのでしょう。
 場所は現在の学士会館の南側で、神田税務署の西側となります。この場所は学士会館と同じ、東京大学があった場所で、大学が本郷に移転したことにより土地が分譲されたと思われます。

大正元年の地図
大正元年の地図

 秀甫が本因坊門となり新会館が出来るなど、正にこの頃の方円社は絶頂期を迎えますが、移転から数ヶ月後に小林鉄次郎が亡くなると、その繁栄も次第にかげりを見せ始め、数年後には会館を手放すことになります。
 その後、方円社は以前紹介した末廣町へ移転していますが、そこは亀三郎が借りた普通の民家に看板をかけただけの質素なものだったと言われています

方円社跡
方円社跡

神田区錦町三丁目十五番地
 現住所:千代田区神田錦町3丁目5−1、9、7-2あたり

【関連記事】
 明治20年代後半の方円社跡地

| 方円社 | 07:00 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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方円社と村瀬秀甫邸跡

 明治12年(1879)に設立された方円社は「神田区表神保町2番地」にあったと記録されています。その場所についてすでに紹介していたと思っていたらまだのようでしたので今回紹介させていただきます。
 場所は現在の神田神保町1丁目で、靖国通りの「駿河台下交差点」の南側になります。しかし、2番地の範囲が広いため詳しい場所は特定出来ませんでした。

方円社と村瀬秀甫邸
方円社と村瀬秀甫邸

 また、方円社の初代社長であった村瀬秀甫(本因坊秀甫)が当時住んでいた場所は「神田区小川町廿三番地」となっていて、この場所は現在の小川町3丁目、「駿河台下交差点」の北側かどの写真店がある辺りとなります。
 当時、塾生だった本因坊秀哉(田村保寿)は、ここで寝起きしていて、先生の中で唯一方円社に住んでいた高橋杵三郎に夜中に色々教えてもらったと語っています。しかし、終わるのは2時か3時頃になり、杵三郎は昼頃まで寝ているが、自分はそうはいかず、朝早く秀甫がやってきて、それまでに塾生が掃除をしていないとお叱りを受けることになり大変だったそうです。

方円社跡付近
方円社跡付近

村瀬秀甫邸跡
村瀬秀甫邸跡

方円社跡:千代田区神田神保町1丁目
村瀬秀甫邸跡:千代田区神田小川町3丁目10 新駿河台ビル 写真店のあたり

| 方円社 | 07:00 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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小川町と和田静林

 神田小川町にやってきました。小川町は江戸時代、神田の西半分の地域をさした俗称でした。その由来は、このあたりに清らかな小川が流れていたからとか、「小川の清水」と呼ばれた池があったとか諸説あります。江戸城を築いた太田道灌は、その風景を「むさし野の小川の清水たえずして岸の根芹をあらひこそすれ」と詠んでいます。
 もとの正式な町名は鷹狩に使う鷹を飼育していた鷹匠が住んでいたことから「元鷹匠町」と呼ばれていましが、五代将軍綱吉が「生類憐みの令」を施行し鷹狩を禁止したため「小川町」と改称されたそうです。

小川町三丁目の町名由来板
小川町三丁目の町名由来板

 安政3年(1856)の絵図では、この界隈に寄合医師・和田春孝、常陸土浦藩土屋家の上屋敷などが見られます。囲碁史の観点から見ると、この寄合医師・和田春孝の家系に幕末近くに本因坊門3段の和田静林という人物がいました。静林は次男だったそうで和田家は継いでいません。和田家があった場所は現在の「三井住友銀行神保町支店」になります。

安政三年の絵図
安政三年の絵図

和田邸跡
和田邸跡

町名由来板:神田小川町三丁目10番地
三井住友銀行神保町支店:神田小川町3丁目12

| 本因坊家 | 07:00 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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伊藤松和邸跡について

 以前紹介した本因坊の門人で天保四傑の一人、伊藤松和のお玉が池にあった屋敷跡へ行ってみました。以前の調査で岩本町2丁目3の明治鋼業ビルがある区画がその場所だったと判明しましたが、その後の調査により区画の中でも西よりで、首都高にもかかっていることがわかりました。
 明治鋼業ビルには「史蹟 北辰一刀流 千葉周作先生 玄武館道場跡 神田お玉ヶ池畔」というプレートがありました。
 ここに道場があったという意味ではなく、道場があったお玉が池の、ここも周辺だという意味なのでしょう。
 お玉が池の屋敷では松和は多くの人々に囲碁を教え賑っていましたが屋敷は火災により焼失。その後、上野山下に転居し、こちらでも繁盛したため、明治維新後も伊藤は生活に苦労することはなかったといいます。 伊藤松和は明治11年(1878)に亡くなっています。

明治鋼業ビル
明治鋼業ビル

玄武館跡のプレート
玄武館跡のプレート

伊藤松和邸跡
伊藤松和邸跡。明治鋼業ビルの西には新しくマンションが建築されました。

千代田区岩本町2丁目3-11 明治鋼業ビル

【関連記事】 伊藤松和

| 本因坊家 | 08:55 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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