烏鷺光一の「囲碁と歴史」

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厳島神社2

 厳島神社の沖合200mのところに建つ大鳥居は、丹塗りの木造両部鳥居で、奈良の春日大社・敦賀の気比神宮の大鳥居とともに「日本三大鳥居」に数えられています。
 現在の大鳥居は、清盛の時代から8代目にあたり、明治8年(1875)に再建されました。現在の額は、皇女和宮の婚約者で、戊辰戦争では東征大総督を務めた有栖川宮熾仁親王の染筆です。

厳島神社大鳥居
大鳥居

本殿前の庭にあたる板場を「平舞台」といい、安元2年(1176)、平氏一門が参拝して千僧供養が行われた際に仮廊を設け、それが常設となったと考えられています。
「平舞台」の中央にある、黒漆塗りの基壇に朱塗りの高欄をめぐらした舞台は「高舞台」と呼ばれ、ここで舞楽が演じられます。

高舞台
高舞台

厳島神社狛犬
海上の狛犬

厳島神社のの「能舞台」は国内で唯一の海に浮かぶ舞台です。慶長10年(1605)に福島正則が常設の能舞台を寄進し、現在の舞台等が建立されたのは浅野氏が藩主となった延宝8年(1680)のことです。通常の能舞台は響きを良くするため床下に共鳴用の甕(かめ)が置かれますが、海上にあるため設置できず、舞台の床を一枚の板のようにして響かせているそうです。

厳島神社能舞台
能舞台

 康頼灯籠は境内で最も古い灯籠だそうです。後白河法皇の近習であった平康頼は、安元3年(1177)に平家打倒の密議に加わったとして捕えられ現在の硫黄島に流されます。
 「平家物語」によると、康頼は配流先で京を懐かしみ千本の卒塔婆に望郷の歌を記して海に流します。その一本の卒塔婆が厳島に流れ着き、心を打たれた平清盛が治承2年(1178年)に康頼を赦免します。
 無事戻ってきた康頼は神に感謝し灯籠を寄進したそうです。
 厳島神社を訪れた時は満潮に近かったため、見ることが出来ませんでしたが海水が引くと、康頼の卒塔婆が流れ着いたとされる「卒塔婆石」を見ることができます。また、干潮時にだけ出現する「鏡池」と呼ばれる円い池もあります。

康頼灯籠
康頼灯籠

広島県廿日市市宮島町1-1
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| 平安時代 | 14:27 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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厳島神社1

 厳島神社にたどり着きました。厳島神社は海を利用した独創的な配置構成の神社で、平安時代の寝殿造りの粋を極めた日本屈指の神社です。廻廊で結ばれた朱塗りの社殿は、潮が満ちると海に浮かんでいるように見え、干潮時には地面が見えるという様々な姿を見せてくれます。
 創建は推古天皇元年(593)と伝えられ、平安時代末期に平清盛により現在のような姿に整備されたといいます。
 国宝に指定され、平成8年にはユネスコの「世界文化遺産」にも登録されています。

千畳閣から臨む厳島神社
千畳閣から臨む厳島神社

厳島神社入口
厳島神社入口

 各建物は廻廊で結ばれています。廻廊の床板には目透しという隙間があり、高潮の時に下から押しあがってくる海水の圧力を弱め、海水や雨水を海へ流す役目を果たしています。

厳島神社回廊
廻廊

 切妻両流造りの本殿には、市杵島姫(いちきしまひめ)・湍津姫(たぎつひめ)・田心姫(たごりひめ)の宗像三女神が祭られています。
 現在の本殿は元亀2年(1571年)、毛利元就によって改築されたものだそうです。

厳島神社本殿
本殿

 神社の配置は本殿の前に拝殿があり、さらにその前に祓殿があります。

厳島神社祓殿
祓殿

拝殿の奥に本殿があります。

厳島神社本社
本殿

広島県廿日市市宮島町1-1

| 平安時代 | 09:45 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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花山天皇 紙屋川上陵

 金閣寺の近くに第65代花山天皇(かざんてんのう)の陵である「紙屋川上陵」がありましたのでお参りしてきました。
 冷泉天皇の第一皇子である花山天皇は、永観2年(984)に叔父の円融天皇の譲位を受けて即位。荘園整理令の発布など革新的な政治を行いますが、寛和2年(986)、19歳の時に宮中を出て剃髪、仏門に入り退位します。
 突然の出家の理由は女御藤原忯子が妊娠中に死亡したことにショックをうけたためと言われていますが、その裏で藤原兼家が、外孫の懐仁親王(一条天皇)を即位させるために陰謀を巡らしたとも言われています。
 蔵人として仕えていた兼家の三男道兼は、悲しみにくれる天皇と一緒に出家すると唆し、内裏から元慶寺(花山寺)に連れ出します。天皇が落飾すると、道兼は父に事情を説明してくると寺を抜け出してそのまま逃げてしまい、ここで天皇は自分が欺かれたことを知ったのでした。この事件は「寛和の変」と言われています。
 花山天皇は絵画や和歌などの芸術的才能に恵まれていて「拾遺和歌集」を親撰したともいわれています。



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入口


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現地案内板


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紙屋川上陵



京都府京都市北区衣笠北高橋町


| 平安時代 | 23:32 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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八坂神社

 八坂神社は、京都を代表する神社の一つで、全国にある八坂神社や素戔嗚尊(スサノオ)を祭神とする約2,300社の総本社です。通称「祇園さん」と呼ばれ、京都三大祭りの一つ「祇園祭」でも知られています。
 八坂神社は慶応4年(1868)に神仏混交禁止で改称するまで、「感神院」または「祇園社」と呼ばれていました。創建については諸説ありますが、斉明天皇2年(656)に高麗より渡来した使節の伊利之(いりし)が釈迦の生誕地「祇園精舎」の守護神「牛頭天王」を山城国愛宕郡八坂郷に祀ったことに始まるといいます。
 八坂神社は「産土神」として時の権力者の庇護を受けています。平安時代には、藤原基経が邸宅を寄進、道長もたびたび参詣したといいます。
 延久4年(1072)には後三条天皇が行幸され、以後、天皇・上皇の行幸がたびたび行われています。
 また、武家の崇敬もあつく、平清盛の田楽奉納・源頼朝の狛犬奉納、足利将軍家の社領の寄進・修造が行われ、豊臣秀吉は母大政所の病気平癒を祈願し、一万石を寄進。戦国期に荒廃した神社の再興を行います。
 また江戸時代には幕府から厚い庇護を受け、徳川家康は社領を寄進、家綱は現存する社殿を造営するなどしています。



 西楼門は本殿の西方、四条通りの突き当たりに建ち八坂神社を象徴する建物です。
現在の建物は明応6年(1497)に再建されたものですが、大正2年に道路拡張のために移設し、この時に翼廊を建てて現在の形となりました。



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西楼門



 一般の神社では本殿と拝殿は別棟で建てられていますが、八坂神社では1つの入母屋屋根で覆われていて「祇園造」と呼ばれています。現在の社殿は、承応3年(1654)に徳川家綱が再建したものです。



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本殿



 舞殿では奉納行事の他、結婚式も行われています。



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舞殿



八坂神社の門といえば西楼門が有名ですが、実は正門は南楼門なのです。慶応2年に火災に逢い、明治12年に再建されたものが現代の南楼門です。



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南楼門



 南楼門の門前脇に井戸があります。この場所には明治初年まで「藤屋」という茶店があり、井戸の清水を沸かして参拝者に提供していました。延長3年(925)に、時の醍醐帝を含む多くの人々が疱瘡にかかり苦しみますが、空也上人が八坂神社へ参拝し病気平癒を祈念した際、井戸の清水を用いた白湯を人々に施し病が癒されたと言われています。



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空也上人ゆかりの井戸




京都府京都市東山区祇園町北側625



| 平安時代 | 05:53 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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桓武天皇陵(柏原陵)

 80年以上続いた奈良時代に終わりを告げ、平安京(京都)へ遷都し300年以上続く平安時代の礎を築いたことで知られる、第50代桓武天皇は、小学生の教科書にも掲載されている知名度の高い天皇です。
 桓武天皇は皇族の傍系の出身であったため当初は皇族としてではなく官僚としての出世を目指していました。
 奈良時代は代々天武天皇の子孫が天皇に即位してきましたが、度重なる政変による粛清で天武天皇系の候補者が途絶えたために、天智天皇系の光仁天皇が即位します。その皇子が桓武天皇なのですが、桓武天皇の生母は出自が低かったため当初、立太子は考えられていませんでした。しかし、政争により、他の候補者が次々と廃されたために、ついに皇太子となり、天応元年(781)に光仁天皇が退位して第50代天皇に即位します。そして、即位後すぐに同母弟の早良親王を皇太子に任命しています。
 当時、平城京では奈良仏教各寺の勢力が増し政治に影響力を及ぼしていました。また天武天皇の皇統から天智天皇の皇統に戻ったこともあり、桓武天皇は人身を一新しようと遷都を思い立ちます。そこで、側近の藤原種継に命じて長岡京を造営しますが、これに反対する勢力により種継が暗殺されてしまいます。
 激怒した桓武天皇は暗殺の関係者を厳しく処分しますが、皇太子早良親王も関与したとして廃太子の上、流罪に処します。無実を訴える親王は抗議のため絶食して亡くなりますが、その後、天災や皇族に不幸が続いたことから早良親王の祟りであるとされ、親王を「崇道天皇」と追尊し祀ったとのことです。そして、造営に関して不幸な事が起きた「長岡京」を僅か10年で廃止し、延暦13年(794)に平安京へ改めて遷都したのです。 
 桓武天皇の治世では東北地方を平定するため、坂上田村麻呂を征夷大将軍に任命し軍を派遣しています。また、既存の仏教が政権に関与して大きな権力を持ちすぎたことから、唐から帰国した最澄と空海を保護し、日本の仏教界に新たな動きをもたらしています。
 在位中の延暦25年3月17日(806年4月9日)に70歳で亡くなっています。




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柏原陵入口




 桓武天皇陵である柏原陵は伏見城の敷地内にあったこともあり中世以降、所在が不明となっていました。幕末に現陵が柏原陵であると定められましたが別の場所に存在するという説もあります。
 また、平安京最初の天皇であることから、明治28年(1895)に平安遷都1100年を記念して設立された「平安神宮」では幕末の孝明天皇とともに祭神として祀られています。




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現地看板




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柏原陵




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柏原陵







京都府京都市伏見区桃山町永井久太郎



| 平安時代 | 06:26 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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