烏鷺光一の「囲碁と歴史」

| PAGE-SELECT | NEXT

≫ EDIT

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

| スポンサー広告 | --:-- | comments(-) | trackbacks(-) | TOP↑

≫ EDIT

安国論寺 南面窟

 以前紹介した、日蓮上人の布教活動の拠点「松葉ヶ谷御小庵」跡に建てられた安国論寺に行ってみました。
 前執権北条時頼に建白した「立正安国論」で、念仏教や禅教を邪教とし、そのせいで当時、地震や疫病、飢餓などが発生したと論じたtめ、反発した信者により庵が襲撃されます。
 「松葉ヶ谷の法難」と呼ばれた事件で、日蓮上人は裏山にある「南面窟」に避難して難を逃れたと言われていますが、今回その「南面窟」まで足を延ばしてみました。

南面窟

【関連記事】 日蓮上人ゆかりの安国論寺

安国論寺:神奈川県鎌倉市大町4-4-18
スポンサーサイト

| 鎌倉時代 | 09:35 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

≫ EDIT

北条義時の法華堂跡と三浦泰時一族の墓

 以前、鎌倉の源頼朝の墓の東隣にある、大江広元・毛利季光・島津忠久の墓へ向かう途中に、二代執権、北条義時のものとされる法華堂(墓)跡が発掘されています。
 北条義時は、初代執権、北条時政の次男で、畠山重忠の乱を機に父時政を追放した後は北条宗家による執権政治体制の強化に尽力しています。

大江広元らの墓へ向かう道
大江広元らの墓へ向かう道

法華堂跡の説明板
法華堂跡の説明板

 北条義時の法華堂跡の山裾に、宝治合戦で敗れた三浦泰村一族を葬ったとされる「やぐら」が残されています。
 大江広元や北条政子の死後、執権北条得宗家による政治の独占に不満を募らせた勢力は、北条氏に対抗し得る有力御家人・三浦氏の元に結集し北条得宗家との対立を深めていきます。
 両勢力は和解の道を探り続けていましたが、宝治元年(1247)に執権側の強硬派である安達景盛が三浦氏の屋敷を急襲。「宝治合戦」と呼ばれる内乱が勃発します。
 御家人達が続々と両陣営に駆けつけ混乱する中、三浦氏は頼朝の墓である法華堂へ集結しますが、劣勢にたたされ自刃し三浦氏は滅亡しています。

三浦泰時一族の墓
三浦泰時一族の墓

【関連記事】
大江広元・毛利季光・島津忠久の墓

神奈川県鎌倉市西御門2丁目7−9付近

| 鎌倉時代 | 07:00 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

≫ EDIT

明月院 鎌倉

 臨済宗建長寺派に属する明月院は、永暦元年(1160)に平治の乱で戦死した首藤俊道の供養のため息子の首藤経俊が創建した「明月庵」が始まりであると伝えられています。
 その後、鎌倉幕府五代執権・北条時頼が執権を退いた後、出家してこの場所に「最明寺」を建立し晩年を暮らし、時頼の子・八代執権・北条時宗が禅興寺として再興しています。
 室町時代に入ると、康暦2年(1380)に山内上杉家当主で関東官領の上杉憲方が禅興寺を中興、塔頭の明月院を創建しますが、明治に入り禅興寺は廃寺となり、明月院だけが現在残っています。

明月院
明月院入口

方丈
方丈

庭園
庭園

 「やぐら」は鎌倉時代に、この辺りのみで建造されていた洞窟墳墓です。中でも、明月院やぐらは県内最大級で、祀られているのは中興開基の関東官領・上杉憲方であると言われています。

明月院やぐら
明月院やぐら(上杉憲方の墓)

 江戸時代に水質の良くなかった鎌倉において、特に良質の水が湧いた10ヶ所の井戸を「鎌倉十井」と呼びました。
 「瓶の井」は「鎌倉十井」の中でも現在も使用できる数少ない井戸で、岩盤を垂直に貫いて造られ、その内部が水瓶のようにふくらみがあることから、その名があります。

瓶の井
瓶の井

神奈川県鎌倉市山ノ内189

| 鎌倉時代 | 07:00 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

≫ EDIT

尼将軍北条政子、鎌倉幕府三代将軍源実朝の墓

 鎌倉五山第3位の福寿寺には開基の北条政子と、その息子である鎌倉幕府三代将軍源実朝の墓と伝わる五輪塔があります。
 鎌倉幕府を開いた源頼朝の正室である北条政子は伊豆の豪族、北条時政の長女で、流人として伊豆に流された頼朝と恋仲となり周囲の反対を押し切り結婚。そのため北条氏は頼朝の監視役から有力な支援者へと変わり鎌倉幕府では執権として政権を支えていくこととなります。
 政子は頼朝が存命中は御台所と呼ばれていましたが、夫の死後には出家して尼御台と呼ばれるようになり、頼朝の跡を継ぎ二代征夷大将軍となった嫡男・頼家、そしてその弟の三代将軍実朝が相次いで暗殺され、京から幼い藤原頼経を新将軍として招くとその後見人として幕政の実権を掌握、「尼将軍」と称されています。

北条政子の墓
北条政子の墓

 源頼朝と北条政子の子である源実朝は、兄の二代征夷大将軍源頼家が北条氏を初めとする有力御家人と対立し追放されると、12歳で征夷大将軍に就いています。
 将軍就任当時、実朝は幼く政治的実権は全くありませんでした。そうした中、初代執権で実朝の祖父である北条時政はライバルを排除し支配体制を固めていきますが、後妻の牧の方と組んで実朝を廃し娘婿の平賀朝雅を新将軍としようとしたことから子供の北条政子や義時により伊豆国に幽閉される「牧氏事件」が起きます。
 やがて成長した実朝は徐々に政治的関与を深めていますが、建保7年(1219)、鶴岡八幡宮を参拝中、潜んでいた兄頼家の子、公暁により暗殺されます。公暁は、実朝を親の仇として討ったと言われますが、その背景には不明な点が多く、北条氏による陰謀、北条氏の政敵である三浦氏による北条打倒が目的、後鳥羽上皇による幕府転覆の陰謀などがささやかれています。いずれにしても実朝がいなかったため、源氏による将軍家の血筋は途絶えてしまいます。以降は京の公家から将軍を迎え執権北条氏が政治を行う執権政治が始まっています。

源実朝の墓
源実朝の墓

実朝生誕800年記念碑
実朝生誕800年記念碑。平山郁夫書

神奈川県鎌倉市扇ヶ谷1-17-7

| 鎌倉時代 | 10:43 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

≫ EDIT

鎌倉 寿福寺

 鎌倉市扇ヶ谷にある寿福寺は建長寺は源頼朝が没した翌年の正治2年(1200)に創建、円覚寺に続く鎌倉五山第3位の寺院で、開基は頼朝の夫人である北条政子、開山は臨済宗建仁寺派の開祖、栄西です。

寿福寺山門
寿福寺山門

 寿福寺は先日紹介した、源氏と関わり深い「源氏山」のふもとにあり、かつては頼朝の父・源義朝の屋敷があった場所だそうです。

源氏山の碑
源氏山の碑

 境内の墓地には、北条政子と源実朝の墓と伝わる五輪塔があり、陸奥宗光、高浜虚子などの著名人の墓もあるそうです。

山門
山門

仏殿
仏殿

神奈川県鎌倉市扇ヶ谷1-17-7

| 鎌倉時代 | 07:00 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

| PAGE-SELECT | NEXT

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。