烏鷺光一の「囲碁と歴史」

| PAGE-SELECT | NEXT

≫ EDIT

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

| スポンサー広告 | --:-- | comments(-) | trackbacks(-) | TOP↑

≫ EDIT

九段会館

 神田神保町から九段下まで歩いてきましたが、交差点から九段会館が見えました。
 九段会館は旧軍人会館で、昭和天皇の即位の礼を記念する事業の一環として昭和9年(1934)に竣工。鉄筋コンクリート造で洋風建築の上に和風の大きな瓦屋根を載せた「帝冠様式」の代表作の一つとされています。
 戦前は主に軍の予備役・後備役の訓練、宿泊に使用され、「二・二六事件」勃発時には戒厳司令部が置かれた場所で、終戦後にGHQに接収され進駐軍宿舎として使用された後、国へ返還されると、日本遺族会に対し無償払い下げが行われ、宿泊・結婚式場・貸しホール等として活用されてきました。
 しかし、平成23年(2011)に発生した東日本大震災により、ホールの天井版が崩落し死傷者が出たことから廃業。現在は閉鎖されています。
 今後、高層ビルに建て直されるそうですが、昭和初期の雰囲気を伝える歴史的建造物を、どのように残していくか現在検討されています。

九段会館
九段会館

千代田区九段南1丁目6−5
スポンサーサイト

| 昭和時代 | 07:00 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

≫ EDIT

起雲閣「孔雀の間」

 起雲閣の「孔雀の間」、大正8年(1919)に内田信也の別荘の一部として建てられています。
 当時は、現在の喫茶室を挟み「麒麟」の隣に建っていましたが、昭和28年(1953)に、客室や宴会場が増築された際に、現在の音楽サロン付近に移築。そして、昭和56年(1981)に現在地へ再移築されています。
 「床の間」や「付け書院」など、当時の一般的な座敷で、窓ガラスや障子などは、建築当時の物だそうです。

孔雀の間入口
孔雀の間入口

 小説家の舟橋聖一は、この部屋が好きで、代表作『芸者小夏』『雪夫人絵図』などは、ここで執筆されています。また、三島由紀夫は新婚旅行で「孔雀の間」に滞在したとの記録も残っています。

孔雀の間
孔雀の間

説明板
説明板

静岡県熱海市 昭和町4-2

| 昭和時代 | 07:36 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

≫ EDIT

起雲閣「大鳳」 太宰治宿泊の部屋

 文豪・太宰治は、度々、起雲閣に滞在し、昭和23年(1948)の3月7日から31日にかけて別館にて『人間失格』の「第二の手記」までを執筆しています。その間の3月18日には、愛人の山崎富栄をともない「大鳳の間」に宿泊。 その後、場所を変えながら『人間失格』の執筆を続け、5月12日に完成します。
 それから間もない、6月13日に、太宰治は山崎富栄と玉川上水で心中。その生涯を終えています。

階段
階段

大鳳の間
大鳳の間(麒麟の間の二階)

 窓ガラスの一部には、当時の職人が一枚一枚流し込んで作った「大正ガラス」が残されています。現代のガラスと違い、微妙にゆがんでいますが、それがかえっていい雰囲気を醸し出しています。

二階からの眺め
二階からの眺め

「人間失格」を執筆した別館
「人間失格」を執筆した別館(松和63年に取り壊し)

静岡県熱海市 昭和町4-2

【関連記事】
 むらさき橋と太宰治
 太宰治の墓

| 昭和時代 | 14:00 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

≫ EDIT

伊東東郷記念館

 伊東東郷記念館は、東郷平八郎元帥が昭和4年(1929)に夫人の療養のために建てた別荘です。リュウマチを患っていた夫人のために温泉に入れる屋敷を造ろうとして伊東温泉が選ばれたそうです。別荘は昭和8年まで利用され、東郷元帥が亡くなった後、ブリジストンタイヤ創業者の石橋正二郎氏が引き継ぎますが、海軍の依頼で軍に譲渡、海軍将官のための休養施設として使用されています。戦後は石橋財団が「元帥がお使いになったまま釘1本変えてはならぬ」という方針の下に大切に管理し「東郷記念館」として公開されてきましたが、一時、別の会社へ所有権が移ります。そして平成22年(2010)に東郷神社に寄贈され、平成24年より「伊東東郷記念館」として再び一般公開されています。
 なお、開館日は毎日曜日、祝日、第1・第3土曜日、第3火曜日となっていますので行かれる方は注意して下さい。

入口
入口

外観
外観

座敷
座敷

風呂
風呂

静岡県伊東市渚町3−8

| 昭和時代 | 07:00 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

≫ EDIT

第31代横綱 常の花出(羽海秀光)

 第31代横綱常ノ花寛市(本名:山野辺 寛一)、後の第2代日本相撲協会理事長、7代出羽海秀光の墓も谷中霊園にあります。
 常ノ花寛市は、岡山県出身で出羽ノ海部屋に入門し明治43年(1910 )に初土俵。軽量であり当初はあまり期待されていませんでしたが厳しい稽古を繰り返し、大正9年(1920)に大関に昇進。その後、当時は横綱が複数いたため十分な実績にも関わらず横綱昇進が見送られ苦労しましたが大正13年(1924)に、ついに第31代横綱となり、大関時代も含め幕内最高優勝10回の実績を残しています。なお、前回紹介した同門の先輩横綱栃木山守也が大正14年(1925)に3連覇を果たしながら翌場所直前に突然引退したのは、優勝しながら常の花が正横綱のままで栃木山が張出に据え置かれた事への反発とも言われています。
 昭和5年(1930)に常の花は突然引退を発表し年寄・藤島を襲名。昭和7年(1932)に協会改革を訴え発生した春秋園事件では、協会の使者として力士側との折衝にあたり、事件収拾に尽力。その後、事件の引責辞任で協会幹部が退くと、春日野・立浪・錦島と共に取締に就任しています。
 昭和19年(1944)には元力士としては初の相撲協会理事長に就任。後に出羽海を襲名し部屋を継承しています。
 蔵前国技館建設など、戦後の大相撲復興の基盤を築いた出羽海ですが、昭和32年(1957)に国会で日本相撲協会の在り方が追及され、その対応に神経をすり減らしたのか自殺未遂を起こして理事長を退任します。
 この後も協会で隠然たる影響力を保ちながら部屋の力士の育成に力を注いでいた出羽海でしたが、昭和35年(1960)九州場所(11月場所)千秋楽翌日に滞在していた旅館で胃潰瘍のため急死しています。
 谷中霊園の墓に刻まれた戒名には、「国技院釈常花居士」と刻まれています。

常の花の墓
常の花の墓

出羽海秀光之碑
出羽海秀光之碑

谷中霊園乙13号右4側

| 昭和時代 | 07:00 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

| PAGE-SELECT | NEXT

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。