烏鷺光一の「囲碁と歴史」

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帝国ホテル中央玄関 日本棋院の設立

 東京都千代田区内幸町にある、日本を代表する高級ホテルのひとつ「帝国ホテル」の中央玄関が明治村へ移築されています。
 帝国ホテルは明治23年(1890)に開業しますが、開業当時の建物は大正8年(1919)に失火により全焼。新館は20世紀建築界の巨匠、アメリカの建築家フランク・ロイド・ライトによる設計で、4年間の歳月をかけて大正12年(1923)に完成しています。
 ライトのホテルは、鉄筋コンクリート造で、10のブロックを繋ぎ合わせた構造になっており、大規模ホテルとして世界初の全館スチーム暖房を採用するなど、耐震防火を大変意識した建物だったそうです。移築された中央玄関は、軒や手摺に使われた白い大谷石の帯が幾段にも重なり華麗な外観を現しています。
 建設にあたり、ライトは使用する石材や、調度品に使う木材の選定などを徹底管理。そのため大幅な予算オーバーと工期の遅れが生じ、完成前に経営陣との対立から日本を離れることになります。しかし、大正12年に建物が完成し、落成記念披露宴の準備が行われる中、「関東大震災」が発生すると、帝国ホテルが、ほとんど無傷であったことから、ライトが心血を注いだホテルの素晴らしさが証明されることとなります。

帝国ホテル中央玄関
帝国ホテル中央玄関

 帝国ホテルは、以前も紹介しましたが、囲碁界においても大きな変革の舞台となった場所です。
 関東大震災を機に、対立状態にあった囲碁界が再び集結しようという気運が高まる中、囲碁界の有力支援者であり、帝国ホテルを経営していた大倉喜七郎らが働きかけ、大正13年3月に帝国ホテルにて「碁界合同問題基礎協議午餐会」を開催。その後、数回の話し合いを経て、ついに「日本棋院」が設立されます。
 明治村に移築された中央玄関は、話し合いに臨む本因坊秀哉ら関係者が行き来した場所でもあるのです。

ロビー
ロビー

明治村:愛知県犬山市字内山1番地
  5丁目67番地

【関連記事】 帝国ホテル 日本棋院設立の舞台
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| 日本棋院 | 07:00 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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第6代日本棋院総裁 稲山嘉寛

 谷中霊園に日本棋院第6代総裁の稲山嘉寛の墓があることが分かり、早速お参りしてきました。日本棋院において総裁とはトップの役職で、初代総裁は大久保利通の息子である牧野伸顕が務めています。
 稲山嘉寛氏については日本棋院総裁という肩書より、本業の肩書である新日本製鉄初代社長、第5代経済団体連合会(経団連)会長という肩書の方が有名でしょう。
 昭和2年(1927)、商工省に入省し官営八幡製鐵所に入所した稲山は販売畑を歩み、昭和37年(1962)には社長に就任します。八幡製鐵所は以前、他の製鉄会社と合併し「日本製鐵」となっていましたが、戦後財閥解体に伴い分割されていたため、稲山は業界強化のため再合併を推進。昭和45年(1970)に富士製鐵と合併し新日本製鐵(現・新日鐵住金)が誕生すると初代社長に就任し、後に二代目会長にも就いています。
 新日鉄誕生の経緯からも分かるように、稲山は競争より協調を重視した人物で「ミスター・カルテル」の異名を取ります。
 昭和55年(1980)に財界トップである第5代経済団体連合会(経団連)会長に就任すると、当時問題となっていた欧米との貿易摩擦解消に尽力。国際協調を重視し自動車・VTR等の輸出自主規制を指導します。
 稲山が日本棋院総裁を務めていたのは昭和57年(1982)から5年間。当然、稲山自身も囲碁が趣味で貿易協定締結のため幾度となく中国を訪れた際も、特に観光に行くでもなく、仲間を探しては囲碁や麻雀を楽しんでいたという逸話も残されています。
ちなみに稲山が総裁に就任していた当時の理事長は坂田栄男(二十三世本因坊栄寿)です。

稲山嘉寛の墓
稲山嘉寛の墓

墓石の側面
墓石の側面

谷中霊園 乙11号14側付近。御台所様墓地裏(JR線路側)

| 日本棋院 | 07:26 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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上村邦夫九段の墓 大円寺

大円寺山門
大円寺山門

上村邦夫九段の墓
上村邦夫九段の墓

戒名
戒名

 文京区向丘にある大円寺については、以前、「八百屋お七」ゆかりの「ほうろく地蔵」や、江戸時代末期の砲術家、高島秋帆の墓を紹介させていただきましたが、墓所には平成16年(2004)に58歳で亡くなったプロ棋士、上村邦夫九段のお墓があり今回、お参りしてきました。
 上村邦夫氏は北海道北見市出身で木谷実門下の棋士でした。昭和37年(1962)に入段を果たすと昇段を繰り返し平成3年(1991)には九段に昇段。タイトルには恵まれなかったものの、高木祥一、石田章とともに「無冠の三強」と呼ばれていました。また、昭和61年にはNHK囲碁講座講師を務めておられます。
 上村九段はお酒が大変好きで、著書「囲碁史探偵が行く」で知られる福井正明九段は飲み仲間の一人だったそうです。同期入段でもあった福井九段は現在でもよくお墓参りに行っていると聞いた事があります。
 亡くなる数年前に悪性リンパ腫を宣告され、以来、厳しい闘病生活を送りながら対局戦を続けられていたそうで、「絶局」となったのは亡くなる2ケ月前に行われた52期王座戦の本戦トーナメント一回戦。相手は依田紀基名人でした。
 病身を押して予選を勝ち上がった上村九段は、これが「絶局」となる事を悟っていたそうで、相手が名人であることを心から喜んでいたといいます。対局場には病院から痛み止めを打って駆け付けるという壮絶な対局だったと伝えられています。

【関連記事】 大円寺 「ほうろく地蔵」と「高島秋帆の墓」

大円寺:東京都文京区向丘1-11-3

| 日本棋院 | 09:53 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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四谷木谷道場跡

 木谷実は若くして囲碁の天才と呼ばれ、中国から来た呉清源と「鎌倉十番碁」など数々の激戦を繰り広げると共に、協力して「新布石」を発表するなど囲碁界に大きな影響を与えています。
 木谷は棋士の育成に力を注いでいて、自宅に「木谷道場」を開き多くの門下生を育て上げます。大竹英雄、石田芳夫、趙治勲、小林光一など、後に囲碁界をリードする数多くの棋士が「木谷道場」で育っています。
 その「木谷道場」は、神奈川県平塚市にあった事で知られていますが、晩年、木谷は四谷三栄町の自宅に道場を開設しています。
 その詳細な場所は今回特定できませんでしたが、記録によると、木谷家の前に「日鉄四谷コーポ」というマンションがあって、その会議室が、アマチュア愛好家のための会場として使われていたそうです。
 さっそく、新宿区三栄町にある「日鉄四谷コーポ」へ行ってみました。しかし、マンション前のどこに木谷家があったのかまでは分かりませんでした。今回、一緒に取材の同行をしていただいた囲碁史会の南氏によると、近くに木谷家も買っていた豆腐屋があったそうで、そこで情報収集しようと探してみましたが見つけることが出来ませんでした。廃業されたのかもしれません。

日鉄四谷コーポ
日鉄四谷コーポ

日鉄四谷コーポ前
日鉄四谷コーポ前

日鉄四谷コーポ : 東京都新宿区三栄町10

| 日本棋院 | 07:33 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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円覚寺塔頭 帰源院 「鎌倉十番碁」対局の地

 今年3月のブログで鎌倉を中心に昭和14年から行われた呉清源と木谷実による「鎌倉十番碁」について紹介しましたが、第3・4・6・9局が打たれた円覚寺について、境内のどこで行われたのか調べたところ、国宝の梵鐘があるあたりにある「帰源院」で行われたという資料を見つけ、再度訪問しました。
 「帰源院」は、第三十八世傑翁是英の塔所で、一時衰退しますが、小田原北条家の三代目、北条氏康が中興の開基となって再興します。
 明治27年(1894)の年末から年始にかけて、夏目漱石が禅の修行で滞在し、その時の体験を小説「門」に描いています。また、島崎藤村もここに出入りし、その時の様子を小説「春」に描きました。
 現在は漱石ゆかりの寺院として知られていますが、ここで、囲碁会の歴史に残る勝負が行われていたのです。なお、帰源院は普段非公開です。

帰源院山門
帰源院山門

帰源院境内
帰源院境内

鎌倉市山ノ内 円覚寺境内

| 日本棋院 | 17:45 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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