烏鷺光一の「囲碁と歴史」

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方円社の新会館

 明治12年(1879)に設立された方円社は神田区表神保町にありましたが、明治26年(1893)に神田区錦町三丁目へ新築移転し披露会が開催されています。
 明治19年(1986)10月14日に初代社長・本因坊門秀甫が亡くなり、中川亀三郎が二代目社長となっていますが、方円社の経営は実質的に小林鉄次郎が行っていて安定していました。表神保町の住所は寄留となっていて借家のようでしたので、念願の自社ビルを建築したのでしょう。
 場所は現在の学士会館の南側で、神田税務署の西側となります。この場所は学士会館と同じ、東京大学があった場所で、大学が本郷に移転したことにより土地が分譲されたと思われます。

大正元年の地図
大正元年の地図

 秀甫が本因坊門となり新会館が出来るなど、正にこの頃の方円社は絶頂期を迎えますが、移転から数ヶ月後に小林鉄次郎が亡くなると、その繁栄も次第にかげりを見せ始め、数年後には会館を手放すことになります。
 その後、方円社は以前紹介した末廣町へ移転していますが、そこは亀三郎が借りた普通の民家に看板をかけただけの質素なものだったと言われています

方円社跡
方円社跡

神田区錦町三丁目十五番地
 現住所:千代田区神田錦町3丁目5−1、9、7-2あたり

【関連記事】
 明治20年代後半の方円社跡地
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| 方円社 | 07:00 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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方円社と村瀬秀甫邸跡

 明治12年(1879)に設立された方円社は「神田区表神保町2番地」にあったと記録されています。その場所についてすでに紹介していたと思っていたらまだのようでしたので今回紹介させていただきます。
 場所は現在の神田神保町1丁目で、靖国通りの「駿河台下交差点」の南側になります。しかし、2番地の範囲が広いため詳しい場所は特定出来ませんでした。

方円社と村瀬秀甫邸
方円社と村瀬秀甫邸

 また、方円社の初代社長であった村瀬秀甫(本因坊秀甫)が当時住んでいた場所は「神田区小川町廿三番地」となっていて、この場所は現在の小川町3丁目、「駿河台下交差点」の北側かどの写真店がある辺りとなります。
 当時、塾生だった本因坊秀哉(田村保寿)は、ここで寝起きしていて、先生の中で唯一方円社に住んでいた高橋杵三郎に夜中に色々教えてもらったと語っています。しかし、終わるのは2時か3時頃になり、杵三郎は昼頃まで寝ているが、自分はそうはいかず、朝早く秀甫がやってきて、それまでに塾生が掃除をしていないとお叱りを受けることになり大変だったそうです。

方円社跡付近
方円社跡付近

村瀬秀甫邸跡
村瀬秀甫邸跡

方円社跡:千代田区神田神保町1丁目
村瀬秀甫邸跡:千代田区神田小川町3丁目10 新駿河台ビル 写真店のあたり

| 方円社 | 07:00 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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明治33年の中川亀三郎邸跡について

 以前、明治33年1月に発行された方円社の「囲碁段級人名録」に記載された中川亀三郎の住所について「東京市神田区五軒町2番地」と記載されていて、現在の文化芸術施設「アーツ千代田 3331」(練成中学校)のすぐ南側であることを紹介しましたが、今回改めて訪れて見ると、そこは「練成公園」として整備されていることが分かりました。前回は建物側から眺めていたので気づかなかったようです

練成中学校跡
練成中学校跡

練成公園
練成公園

練成公園
練成公園

練成公園 :  東京都千代田区外神田6-11-19

【関連記事】 明治33年の中川亀三郎邸跡へ行く

| 方円社 | 07:59 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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大沢銀次郎邸の跡

 湯島、外神田近辺には、明治時代に多くの棋士たちが住んでいました。明治33年に方円社が刊行した「囲碁段級人名録」によると、当時五段の大沢銀次郎と石井千治(二代目中川亀三郎)は「本郷区湯島三組町80番地」に住んでいたと記載があります。石井はもともと茨城県に住んでいましたので、東京に出て大沢邸で同居していたということでしょうか?
 大沢銀次郎は、9歳のときに病のため耳が不自由になり、しゃべる方にも影響にも影響していましたが、そんなハンディに負けず安井算知の門下に入り頭角を現すと、明治20年に安井家、方円社双方から五段の免状を受けています。

囲碁段級人名録(明治33年)
囲碁段級人名録(明治33年)

 大正元年の地図で場所を調べてみると湯島三組町は現在の湯島3丁目。屋敷があった番地は南東の端、五軒町との境界にあったようです。この町の境界は、現在そのまま湯島3丁目と外神田6丁目の境界となっていて場所を特定することが出来ました。

大沢銀次郎邸の住所
大沢銀次郎邸の住所

大沢銀次郎邸跡
大沢銀次郎邸跡

本郷区湯島三組町80番地(現:文京区湯島3丁目8−1、9−3、9−5)

| 方円社 | 09:03 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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方円社発祥の地「相生亭」の場所について

 先日「囲碁史会」のメンバーと、都内で方円社の足跡をたどる機会があり、以前紹介した囲碁研究会「方円社」の発会の地「相生亭」があった神田区花田町の跡地を案内しました。
 村瀬秀甫(本因坊秀甫)や中川亀三郎らが中心となり設立された「方円社」には各家元の当主クラスも参加し、明治12年(1879)4月20日に「相生亭」にて発会式が行われますが、やがて実力第一主義で家元の格式を認めない運営方針に家元側が反発し5ヶ月後に脱退。方円社は秀甫を社長とする組織に再編され、以降、日本棋院設立まで囲碁界の一翼を担っていくこととなるのです。

 「相生亭」の詳細については不明ですが、花田町については以前の調査で、現在の秋葉原駅近くの千代田区外神田「ソフマップ秋葉原本店」から道路を挟んだ愛三ビルにかけてがその区域になることが判明しましたが、今回案内した一部のメンバーから、もっと南側ではという意見もあり、場所について再検証してみました。

 この辺りは時代とともに大きく変貌していますので、方円社の発会式が開かれた時期に近い地図を探し、明治16年の地図を入手しました。
 当時の地図を見ると、「花田町」は「鎮火社」のすぐ北側にあった事が分かります。その東隣りが「相生町」ですので、「相生亭」の名称はここから来ているのかもしれません。
 ちなみに、「鎮火社」は明治2年(1870)の大火を受けて設けられた火除地で、宮城(江戸城)内の紅葉山から鎮火三神を勧請して「鎮火社」が創建されます。その火防の神・秋葉大権現から人々が火除地を「秋葉の原」「秋葉っ原」と呼んだことで、秋葉原の地名が誕生したそうです。
 また、「鎮火社」境内は、「花岡町」という地名でしたが、明治23年に上野駅より鉄道が延伸されて貨物駅として開発されます。この「秋葉原駅」が誕生した際に、「花田町」の南側の一部が「花岡町」に編入され「花田町」の区域は縮小しています。

明治期の花田町
明治16年当時の花田町

 地図を見ると、花田町の西側の道を南下すると「昌平橋」に至りますが、この「昌平橋」は現在の「万世橋」だそうです。
 さらに、花田町から西側に伸びて、湯島聖堂北側に至る道の形は、現在も変わっていないことが、現在の地図と照合してみると分かります。さらに、花田町という地名は残っていませんが、神田相生町という地名があり、花田町の隣りにあった「相生町」であると考えられることから、これらの位置関係を見ると、やはり花田町は千代田区外神田の「ソフマップ秋葉原本店」の辺りと考えるのが妥当と思われます。

花田町周辺
花田町周辺

現在の地図
現在の地図

現在の花田町
現在の花田町跡

旧東京神田・花田町跡(ソフマップ秋葉原本店付近 千代田区外神田4-1-1)

【関連記事】 囲碁界の新しい波「方円社」発祥の地は秋葉原

| 方円社 | 07:00 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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