烏鷺光一の「囲碁と歴史」

| PAGE-SELECT | NEXT

≫ EDIT

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

| スポンサー広告 | --:-- | comments(-) | trackbacks(-) | TOP↑

≫ EDIT

桃太郎のモデルを祀る「吉備津神社」

 岡山県岡山市北区にある吉備津神社は、備中国一宮で、主祭神は、吉備を平定した大吉備津彦命です。
 吉備津彦命は第7代孝霊天皇の第三皇子で、崇神天皇10年、四道将軍の一人として山陽道に派遣され吉備を平定します。その話が鬼退治として桃太郎伝説が生まれたと言われています。それが岡山といえば桃太郎と言われている理由です。
 現在の本殿および拝殿は室町幕府3代将軍・足利義満が応永32年(1425)に再建したもので、入母屋造の屋根を前後に2つ並べた比翼入母屋造の形式は「吉備津造」と呼ばれ国宝に指定されています。



Imag4572
駐車場から見上げた本殿・拝殿




Imag4546
入口の石段



 神社正面の参道途中に建つ北随神門は、天文11年(1542)の再建で 国の重要文化財に指定されています。




Imag4550
北随神門



Imag4553
本殿




岡山県岡山市北区吉備津931



スポンサーサイト

| 飛鳥時代以前 | 22:48 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

≫ EDIT

第18代 反正天皇

 堺市の「百舌鳥耳原北陵」は、仁徳天皇陵を中心とする「百舌鳥古墳群」の一つで全長約148mの前方後円墳。「百舌鳥古墳群」の中では7番目の大きさで、第18代・反正天皇の陵として宮内庁が管理しています。仁徳天皇の第三皇子で同母兄の履中天皇と住吉仲皇子が対立た際に履中天皇に味方し住吉仲皇子を誅殺。履中天皇は即位後6年ほどで崩御したために、反正天皇元年(406)に兄の継いで第18代天皇に即位します。在位は5年で60歳で亡くなりますが、その治世は目立った争いもなく平和な時期だったそうです。



Imag3106

反正天皇陵




Imag3104

看板





大阪府堺市堺区北三国ヶ丘町2丁



| 飛鳥時代以前 | 06:08 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

≫ EDIT

履中天皇 百舌鳥耳原南陵

 大阪府堺市の仁徳天皇陵の南西にある「百舌鳥耳原南陵」は全長約365mの日本で3番目に大きな前方後円墳です。被葬者は仁徳天皇の第一皇子で第17代天皇の「履中天皇」であるとされています。ただ、古墳が造られたのは近年の調査により仁徳天皇陵より前であることが分かっています。
 仁徳天皇87年に仁徳天皇が崩御すると、履中天皇の弟・住吉仲皇子が皇位を狙って反乱を起こしますが、もう一人の弟の瑞歯別皇子(後の反正天皇)に命じてこれを誅殺し、履中天皇元年に即位します。蘇我氏、物部氏らを登用して国政にあたりますが、履中天皇6年に病気のために崩御しました。「日本書紀」では70歳、「古事記」では64歳、「神皇正統記」には67歳であったと記されています。時期は西暦でいうと400年代前半になります。




Sany0074
拝所入口


Sany0075
拝所


大阪府堺市西区石津ヶ丘



| 飛鳥時代以前 | 06:16 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

≫ EDIT

仁徳天皇陵(百舌鳥耳原中陵)

 大阪府堺市堺区大仙町にある前方後円墳「百舌鳥耳原中陵(もずのみみはらのなかのみささぎ)」は、面積が世界最大の墓で、宮内庁により第16代仁徳天皇の陵に定められ、一般には「仁徳天皇陵」と呼ばれています。しかし、発掘調査が認められていないため仁徳天皇の陵とは断定できず、学術的には「大仙陵古墳」というのが正しい名称だそうです。「百舌鳥耳原」の陵名の由来は、仁徳天皇により陵墓造営工事が始まる中、工事現場に野から鹿が走り込んできて絶命。その鹿の耳の中からモズが現れたことからこの辺りの地名となったそうです。
 「前方後円墳」の名のとおり墳墓の丸い方ではなく直線の部分が前になり拝所が設けられていますが、そこから眺めた様子はただの大きな山にしか見えず、航空写真でよくみる全景を想像することは出来ません。取材当日は雨で端の方は霞んで見える状態で、その巨大さに唖然とするばかりでした。




                
Imag3063
仁徳天皇陵の説明板




Imag3064
外堀




Imag3066
仁徳天皇陵 拝所




Imag3069
仁徳天皇像(大仙公園)






大阪府堺市堺区大仙町



| 飛鳥時代以前 | 05:39 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

≫ EDIT

難波宮跡公園

 大阪歴史博物館と阪神高速を挟んだ斜め前に難波宮跡を整備した「難波宮跡公園」があります。難波宮は「日本書紀」には記されていましたが場所が特定されたのは昭和28年以降の事です。
 645年に天皇家を凌ぐ勢力となった大豪族・蘇我氏の当主・蘇我入鹿を中大兄皇子と中臣鎌足が暗殺した「乙巳の変」が起きます。「乙巳の変」の事を「大化の改新」と呼びますが正式には変の後の政治改革が「大化の改新」です。そして、政治改革が行われた場所こそ「難波宮」なのです。それまでは飛鳥の地が都でしたが「乙巳の変」により皇極天皇(女帝)から攘夷された孝徳天皇は同年に難波宮へ遷都。日本初の年号を制定し大化元年となります。中大兄皇子らが中心となり様々な改革が行われますが10年後に孝徳天皇が病死すると、皇極天皇が再び即位し斉明天皇を名乗ります。そして飛鳥と難波宮の双方が都とされますが朱鳥元年(686)に難波宮は火災により姿を消してしまいました。
 時は流れ奈良時代の神亀3年(726)に聖武天皇は難波宮の跡に平城京の副都とした難波京の造営を命じます。天平15年(744)には難波京へ遷都が行われますが、翌年には再び平城京へ都は戻されています。その後も難波京は副都の役目を果たしますが延暦3年(784)に桓武天皇による長岡京遷都の際、大極殿などの建物が長岡京に移築され、その歴史に幕を閉じたのです。




Imag3290
公園入口




Imag3292
園内




Imag3295
大極殿跡




Imag3291
現地説明板





大阪府大阪市中央区法円坂1



| 飛鳥時代以前 | 09:23 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

| PAGE-SELECT | NEXT

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。