烏鷺光一の「囲碁と歴史」

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扇谷上杉管領屋敷跡

 鎌倉市扇ヶ谷の太田道灌の屋敷跡である英勝寺とJR横須賀線を挟んで反対側にある護国寺の駐車場付近に「扇谷上杉管領屋敷跡」の碑があります。太田道灌の主君である扇谷上杉氏の屋敷があった場所で、「扇ヶ谷」という地名も上杉氏に由来します。
 上杉氏は建長4年(1252)に、後嵯峨天皇の皇子である宗尊親王が鎌倉幕府第六代将軍として鎌倉に下向した際に、公家であった上杉重房が親王に従って下向してきたのがはじまりで、重房は足利氏と婚姻関係を結び、のちに室町幕府を開く足利尊氏もその血を引いています。足利尊氏が幕府を開くと鎌倉には関東を統率するため鎌倉府が置かれその長官として尊氏の四男、足利基氏を鎌倉公方に任命し派遣します。足利一門である上杉憲顕は、それを補佐する関東管領に就任し、以降、鎌倉公方と関東管領は世襲制となります。
 関東管領の上杉家は山内・犬懸・扇谷・宅間の四家がありましたが、実質的には山内上杉家がその地位を独占しています。扇谷上杉氏はそれほど大きな勢力ではありませんでしたが、鎌倉公方と関東管領がやがて対立し関東で長きに渡る争いが繰り返される中、家臣の太田道灌の登場により扇谷上杉氏は勢力を拡大、山内上杉家を凌ぐ勢力となります。
 しかし、扇谷上杉家の当主となった定正は、文明18年(1486)に太田道灌が謀反を起こすのではないかと疑い謀殺。その後、山内上杉家と対立し、戦いを続ける中、北条早雲(後北条氏)が勢力を伸ばし.、天文15年(1546)に北条氏康との戦いに敗れ滅亡しています。ちなみに、山内上杉家は関東管領となった憲政が北条氏に対抗するために越後の長尾景虎を頼り、養子にして家督と関東管領職を譲ります。それが後の上杉謙信です。

護国寺
護国寺

「扇谷上杉管領屋敷跡」石碑
扇谷上杉管領屋敷跡

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| 室町時代 | 07:00 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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太田道灌邸跡 英勝寺

 鎌倉の英勝寺の総門近くに太田道灌邸旧蹟の碑がたっています。江戸城や岩槻城を築城したことで知られる太田道灌(資長)は扇谷上杉定正の重臣で、享徳の乱や長尾景春の乱など数多くの合戦で活躍し、扇谷上杉は勢力を拡大していきますが、余りに優秀であったため下剋上を恐れた主君の定正に暗殺されています。
 英勝寺は江戸城築城まで太田道灌が住んでいた屋敷跡とされ、道灌の子孫で徳川家康の側室であった英勝尼が、三代将軍家光より祖先ゆかりの地を賜り建立した尼寺です。
 英勝尼は初代水戸藩主、徳川頼房の養母を務めたため、英勝寺は頼房の娘小良姫を門主に迎え開山され、以降、歴代の住持は水戸家の姫が務めていたそうです。

英勝寺
英勝寺

太田道灌邸跡の碑
太田道灌邸跡の碑

神奈川県鎌倉市扇ガ谷1-16-3

| 室町時代 | 07:00 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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金鳥居の辻と五重塔 宮島

 「塔の岡」の下あたりの幸町一帯は「金鳥居の辻」と呼ばれているそうです。かつて、長寛年間(1163-1165)に建立されたと言われる鉄製の鳥居があったそうで「鉄鳥居の町」とも呼ばれていました。「金鳥居の辻」からは五重塔を眺めることが出来ます。


金鳥居の辻
金鳥居の辻

金鳥居の辻説明板
金鳥居の辻 現地説明板

 実は五重塔は先日紹介した千畳閣の隣に建っていたのですが、今回紹介させていただきます。
 宮島の五重塔は、応永14年(1407)に建立されたものと言われ、和様と唐様を巧みに調和させた建築様式の美しい塔です。現在国の重要文化財に指定されています。
 
宮島 五重塔
五重塔

「金鳥居の辻」説明板 : 広島県廿日市市宮島町469 「旅別かわぐち」前
五重塔 : 広島県廿日市市宮島町1−1

| 室町時代 | 06:16 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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金閣寺(鹿苑寺)

 京都の有名な観光名所でもある「金閣寺」は正式名称を鹿苑寺といい、相国寺の塔頭寺院の一つです。舎利殿「金閣」が特に有名なため寺院自体が「金閣寺」と呼ばれるようになりました。
 元は鎌倉時代の公卿、西園寺公経の別荘を室町幕府三代将軍の足利義満が譲り受け、山荘北山殿を造ったのが始まりとされています。
 義満の死後、遺言によりお寺となり、夢窓国師を開山とし、義満の法号鹿苑院殿から二字をとって鹿苑寺と名づけられました。
 「金閣」を中心に庭園や建築物が配置され極楽浄土を表していると言われ、「北山文化」を代表する建築物でしたが、昭和25年(1950)に放火により焼失し、昭和30年(1955)に再建されています。
 平成6年(1994)にはユネスコの世界遺産(文化遺産)「古都京都の文化財」の構成資産に登録されています。



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総門



 



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金閣寺



 



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金閣寺



 



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金閣寺



 



 銀河泉は義満がお茶の水に使ったと伝えられていて、今も清冽な清水が湧き出しています。



 



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銀河泉



 



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不動堂



 



京都府京都市北区金閣寺町1











| 室町時代 | 23:51 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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真乗院 山名宗全の墓

 南禅寺三門の南西に塔頭の真乗院があります。永享8年(1436)に室町時代の守護大名・山名宗全(持豊)が香林宗簡の塔所として開いた寺院です。山名宗全(持豊)も文明5年(1473)に亡くなり、ここに葬られています。
 山名宗全は「応仁の乱」で西軍の総大将を務めた人物です。山名氏は新田氏の流れを汲む一族で室町幕府成立時に因幡、伯耆、丹波、丹後、美作5ケ国守護となっています。その後も更に勢力を延ばし一族で日本全国68州のうち11ケ国の守護領国となったために「六分一殿」あるいは「六分一家衆」と呼ばれるまでに栄華を極めます。
 しかし、1371年(建徳2・応安4)に当主の山名時氏が亡くなると、有力大名の力を削ぐことを画策していた第3代将軍義満は、山名家の家督相続に介入して内紛を誘導。最終的に1391年(元中8・明徳2)に「明徳の乱」と呼ばれる幕府の軍事介入により山名一族の領地は、わずか3ヶ国までに衰退します。
 その後、山名一族は徐々に勢力を回復していき、ようやく7ヶ国を所領。そして、宗全は幕府の要職に就き、応仁の乱では西軍を率いることとなったのです。しかし、泥沼化した戦いで山名氏の勢力は再び衰退し再び隆盛を誇ることはありませんでした。



 



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 真乗院の入口に宗全の墓の碑がありましたが、公開はしてなさそうだったので三門のみ撮影しました。




京都市左京区南禅寺福地町86-11



| 室町時代 | 06:25 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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