烏鷺光一の「囲碁と歴史」

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囲碁家元・三世安井知哲の孫 渋川則休

 品川の東海寺大山墓地にある天文方・渋川家の墓所、その一番奥にあるのが5代目・渋川則休(しぶかわ のりよし)の墓です。
 則休は、第3代天文方渋川敬尹の嫡男で、囲碁家元安井家の三世安井知哲の孫にあたります。
 享保2年(1717)に江戸で生まれ、10歳の時に父が急死、則休はまだ若すぎるとして渋川春海の門人、渋川敬也が渋川家および天文方を継承して則休はその養子となります。ところが養父の敬也も一年後に亡くなり、則休はわずか11歳で天文方に就任します。
 延享3年(1746)、徳川吉宗は貞享暦の改暦のため則休を改暦御用に任じますが、則休は暦学未熟を理由に固辞。
 幕府は則休と共に天文学者の西川正休を天文方に任じて則休の指導に当たらせます。また、天文方の管轄を寺社奉行から若年寄に改め則休を支援する姿勢を整えた上で、改めて則休と西川に正式に改暦命令を出します。
 寛延3年(1750)2月27日に上洛した二人は京都で改暦のための観測事業を行うとともに、陰陽頭土御門泰邦との協議を開始。しかし、桜町上皇崩御のため作業が一時中断され、江戸に戻っていた則休は寛延3年(1750)8月に病のため34歳で急逝しています。
 渋川家は弟の渋川光洪が継承しますが、改暦作業では西川を京都から追放した土御門泰邦に主導権を奪われてしまいます。また、光洪も子供がなく養子を迎えたため、渋川家における安井家の血筋は途絶えています。

渋川則休の墓。法号は真涼院天山紹心居士
渋川則休の墓。法号は真涼院天山紹心居士

側面「天文博士 渋川六蔵墓」の文字。六蔵は則休の通称。
側面「天文博士 渋川六蔵墓」の文字。六蔵は則休の通称。

側面に命日「寛延3年8月21日」と刻まれています。
側面に命日「寛延3年8月21日」と刻まれています。

【関連記事】 天文方・渋川家の墓


東海寺大山墓地(東京都品川区北品川4-11-8)
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| 安井家 | 09:49 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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三世安井知哲の次男 天文方 渋川敬尹

渋川敬尹の墓。戒名は「翠筠軒心空紹光居士」
渋川敬尹の墓。戒名は「翠筠軒心空紹光居士」

裏面に刻まれた「渋川右門源敬尹座」の文字。
裏面に刻まれた「渋川右門源敬尹座」の文字

側面に刻まれた亡くなった享保11年の日付
側面に刻まれた亡くなった享保11年の日付

 江戸幕府天文方の3代目、渋川敬尹(しぶかわ ひろただ)は囲碁の家元安井家の三世安井知哲の次男として元禄9年(1696)に京都に生まれます。安井知哲は初代安井算哲の三男で、兄に初代天文方・渋川春海がいます。
 正徳5年(1715)4月に父・渋川春海の跡を継いだ嫡男、渋川昔尹が子の無いまま急逝し、隠居していた春海も病気となったため、同年6月に敬尹は急遽渋川家の家督と天文方を継承します。同年10月には春海が亡くなっています。
 享保6年(1721)には、それまでの駿河台にあった天文台(拝領屋敷)を築地木挽町に移転させ本格的に活動を開始しますが、5年後に31歳で急死。嫡男の渋川則休は、まだ幼かったため、渋川家は渋川春海の高弟・遠藤盛俊の門人、渋川敬也が継承し、則休は敬也の養子となっています。

東海寺大山墓地(東京都品川区北品川4-11-8)

| 安井家 | 07:00 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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渋川春海の嫡男 渋川昔尹

安田家の墓所
渋川家の墓所

渋川昔尹の墓 戒名は「涼雲軒自肯元性居士」
渋川昔尹の墓 戒名は「涼雲軒自肯元性居士」

墓石の裏側に刻まれた昔尹の名
墓石の裏側に刻まれた昔尹の名

側面には亡くなった年である「正徳5年」の文字が刻まれています。
側面には亡くなった年である「正徳5年」の文字が刻まれています。

 以前、品川区北品川の東海寺大山墓地にある囲碁家元・初代安井算哲の長子で初代天文方の渋川春海の墓を紹介しました。そして、その後の天文方を務めた当主の墓についても少し紹介しましたが、墓所の中には囲碁界と関わり深い人物もいますので改めて紹介します。
 二代目天文方の渋川昔尹(しぶかわ ひさただ)は、春海の長男、つまり囲碁家元安井家初代算哲の孫で、天和3年(1683)に生まれています。幼名は亀之助、通称図書といいました。
 元禄12年(1699)に将軍徳川綱吉に拝謁、同年、「天文成象」を書き著しますが、これは、主に春海が手がけたものだったと言われています。
 春海は昔尹に大変期待をかけ、正徳元年(1711)には天文方の地位を譲っています。しかし、昔尹は4年後の正徳5年(1715)に33歳の若さで急死、ショックを受けたのか父・春海も半年後に後を追うように亡くなっています。
 ちなみに渋川昔尹の夫人は春海の弟である三世安井知哲の長女です。さらに昔尹には跡継ぎがいなかったため、春海は亡くなる直前に安井知哲の次男・敬尹を養子に迎え跡を継がせています。

東海寺大山墓地(東京都品川区北品川4-11-8)

| 安井家 | 20:32 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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渋川春海の墓 ふたたび

 囲碁史の取材で久しぶりに、東京都品川区の東海寺大山墓地にある渋川春海の墓にお参りしてきました。
 渋川春海は、囲碁家元・一世安井算哲の長子で、慶安5年(1652)に父の死によって二世安井算哲となります。しかし、当時13歳であったため、安井家は一世算哲の弟子で養子の算知が継いでいます。
 御城碁で活躍した算哲ですが、一方で数学・暦法、天文暦学、神道などに優れ、紆余曲折を経ながら、日本初の国産暦「貞享暦」を完成させます。そして、この功により貞享元年(1685)に初代幕府天文方に250石をもって任ぜられ、碁方は辞しています。
 ところで、以前お参りした時は気が付かなかったのですが、正徳5年(1715)に春海が亡くなった時に造られた墓石の向かって左隣りに、同じ戒名「本虚院透雲紹徹居士」と掘られた墓石がありました。詳しく見てみると「贈従四位 渋川助左衛門源春海」と側面に刻まれている事から、明治40年(1907)に改暦の功績によって従四位が贈位された際に建立された墓石である事がわかりました。
 「助左衛門」は春海の通称で、源姓を名乗っているのは、安井氏が清和天皇の流れを汲む源氏の河内守護・畠山氏の末裔であるためです。

渋川春海の墓(中央)
渋川春海の墓(中央)

もう一つの渋川春海の墓
もう一つの渋川春海の墓

墓石に刻まれた名前
墓石に刻まれた名前

【関連記事】
 渋川春海の墓
 大阪歴史博物館 安井家のルーツ

東海寺大山墓地(東京都品川区北品川4-11-8)

| 安井家 | 07:00 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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浄心寺 安井家の墓

P1000520.jpg

 久しぶりに浄心寺を訪れました。囲碁家元の安井家の墓があるのですが、ここも知伯の墓と同様にお墓の場所がわかりませんでした。こちらも南氏に案内していただきました。

P1000521.jpg

 普通はわかりにくいので知っていないと行けれません。南氏も何度か訪れたようですし、実際この日も少し迷ってしまいました。
 現在でも安井家は続いており、十三世となっていますが、今では囲碁とは関係がなくなっています。

| 安井家 | 18:30 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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