烏鷺光一の「囲碁と歴史」

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お菊塚 平塚市

 神奈川県平塚市の紅谷町公園にある「お菊塚」は、怪談「番町皿屋敷」のお菊の墓と伝えられています。
 伝承によるとお菊は平塚宿宿役人眞壁源右衛門の娘で、江戸の旗本青山主膳の屋敷へ行儀見習い奉公に出ていたところ、主人が大切にしていた南京絵皿十枚組のうち一枚を無くしてしまったとして怒りを買い、屋敷内の井戸に投げ込まれて殺されてしまったといいます。
 その後、お菊の遺体は引き上げられ、平塚宿まで送り返されますが、実際は、お菊が皿を無くしたのではなく、言い寄って来た家来を突っぱねたために皿を隠されたという無実の罪で亡くなったそうで、青山主膳の屋敷ではお菊が投げ込まれた井戸で、怨みを抱いたお菊の幽霊が現れたという噂が流れたことが物語が出来た経緯だそうです。
 お菊は眞壁家の墓所に葬られますが、罪人として扱われたため墓石が作られず、その代わりに栴檀の木が植えられたと言われ、昭和27年に戦後復興のために墓地が移転た際に、伝承通り焼けた栴檀の木の下から遺骨が発見されたと言われています。
 そして、その跡地は紅谷町公園の一部となり、お菊塚が建立されています。

入口
入口

お菊塚
お菊塚

お菊塚
お菊塚

説明板
説明板

神奈川県平塚市紅谷町15
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| 江戸時代 | 07:00 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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東京大学のルーツ「蕃書調所跡」

 九段下の昭和館の隣りに「蕃書調所跡」の説明板があります。ペリー来航により設立された洋学研究機関で、天文台蛮書和解御用掛を拡充して当初、小川町に「洋学所」として開設されますが、その直後に「安政の大地震」が発生し焼失したため、安政3年(1856)に「蕃書調所」と改称して説明板のある辺りに移転したそうです。
 蕃書調所は古賀謹一郎を頭取とし、先日紹介した箕作阮甫らが教授を務め、幕臣の子を対象に、蘭学や英学などの教育を行う一方、翻訳事業や欧米諸国との外交も担当していましたが、井伊直弼が大老となると洋学が軽視され規模縮小と共に移転。その後政権が変わり護持院原(現神田錦町)に移転し開成学校と改称、これが現在の東京大学のルーツとなっています。

案内図
九段下交差点近くにあった案内図

昭和館と蕃書調所跡
昭和館と蕃書調所跡

説明板
説明板

千代田区九段南1-6

| 江戸時代 | 07:00 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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お玉が池 玄武館跡と種痘所記念碑

 以前紹介した、お玉が池にあった北辰一刀流、千葉周作の道場「玄武館」跡に行ってみました。しかし、現在マンション建築中で碑を確認することは出来ませんでした。以前は小学校の跡地として校門のみ残されていて、横門から入ると碑が見学できたのですがマンション完成後に碑が元に戻されるのかは不明です。

玄武館跡
玄武館跡

 岩本町3丁目の交差点に「お玉が池種痘所記念」と刻まれた碑がありました。安政5年(1858)、お玉が池のほとりに伊藤玄朴や大槻俊斎ら江戸の蘭学者たち82名が資金を出し合い「種痘所」を開設しています。その拠出者の筆頭が先日紹介した箕作阮甫です。
 種痘所は、痘瘡の予防接種の普及を図るための集会所で、勘定奉行の川路聖謨の屋敷にあったそうです。しかし、半年後に焼失し、現在の神田和泉町に移転しています。、種痘所は名前を変えながら存続し、東京大学医学部へと発展しています。ということで碑は東大医学部が設置しています。岩本町3丁目交差点から、もう少し南側に行ったところに「お玉ヶ池種痘所跡」の碑がありますが、今回はそちらには行けませんでした。

種痘所跡
種痘所記念碑

碑文
碑文

玄武館跡:千代田区神田東松下町22
種痘所記念碑:千代田区岩本町2丁目5−8付近 岩本町3丁目交差点

【関連記事】
 お玉が池と千葉周作道場「玄武館」
 箕作阮甫の墓所 多磨霊園

| 江戸時代 | 10:33 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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お玉ヶ池跡

 久しぶりに、神田にあったお玉ヶ池跡を訪れました。家康がやってくる以前は上野の不忍池よりも大きな池だったそうですが、江戸時代に入ると徐々に埋めたてが始まり池は姿を消していき、地名だけが残っています。
 前回、「繁栄お玉稲荷大明神」を紹介しましたが、それ以外にも近辺には池があったことを示す碑や説明板があります。

繁栄お玉稲荷大明神
繁栄お玉稲荷大明神

お玉ヶ池跡碑(全宅連会館)
お玉ヶ池跡碑(全宅連会館)

お玉ヶ池跡碑(全宅連会館)
お玉ヶ池跡碑(全宅連会館)

お玉が池児童遊園
お玉が池児童遊園

お玉が池児童遊園
お玉が池児童遊園

お玉が池児童遊園の説明板
お玉が池児童遊園の説明板

繁栄お玉稲荷大明神 : 千代田区岩本町2-5-13
全宅連会館 : 千代田区岩本町2-6
お玉が池児童遊園 : 岩本町2-5-1

【関連記事】 お玉が池と千葉周作道場「玄武館」

| 江戸時代 | 07:58 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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津山藩歴代藩主の墓

 ペリー艦隊来航時に、米大統領国書の翻訳にあたり、「お玉ケ池種痘所」設立にも関わった蘭学者、箕作阮甫の出身である美作国津山藩(津山市)については、以前、谷中霊園にある11代将軍徳川家斉の十四男で、津山藩の第8代藩主となった松平斉民の墓を紹介したことがありますが、松平斉民の墓の脇にある新しい墓石が、歴代藩主のの墓である事が分かり、今回紹介させていただきます。
 墓石が新しかったため、前回気が付きませんでしたが、墓誌によると平成23年に墓域が整理され一つにまとめられたそうです。

松平家先祖代々の墓
松平家先祖代々の墓

 岡山県の山あいにある津山藩が立藩されたのは慶長8年(1603)のことで、最初の藩主は「本能寺の変」で亡くなった森蘭丸の兄である森忠政(森可成の六男)でした。
 元禄11年(1698)に森氏に代わって入ったのが、家康の次男である結城秀康を祖とする越前松平家宗家の松平宣富で、以後廃藩置県まで松平氏が津山藩を治めています。
 墓誌に刻また最初の名は三代・光長となっていますが、光長は初代藩主・松平宣富の養父で、結城秀康の孫にあたり、越後高田藩主でした。宣富は陸奥白河藩主松平直矩の三男で秀康のひ孫にあたり、光長の養子となっています。
 宣富の後を継いだ嫡男・松平浅五郎は僅か11歳で亡くなり嗣子が無かったため本来、御家断絶、改易となるはずでしたが、結城秀康の家系であることが考慮され、従兄弟の松平長煕(白河新田藩主・松平知清の三男)を末期養子として迎えることが特別にゆるされましたが、領地は10万石から5万石に半減、官位も冷遇されることとなります。津山藩が再び10万石に復活するのは、以前紹介した将軍家斉の14男松平斉民を第8代藩主として迎えた時です。
 墓誌には津山藩最後の藩主・松平慶倫の名もありました。慶倫は7代藩主松平斉孝の四男で、松平斉民の養子となっています。

墓誌に刻まれた歴代藩主の名
墓誌に刻まれた歴代藩主の名

東京都台東区谷中 寛永寺谷中墓地

【関連記事】 将軍後継候補だった津山藩主 松平斉民

| 江戸時代 | 07:56 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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