烏鷺光一の「囲碁と歴史」

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小川町と和田静林

 神田小川町にやってきました。小川町は江戸時代、神田の西半分の地域をさした俗称でした。その由来は、このあたりに清らかな小川が流れていたからとか、「小川の清水」と呼ばれた池があったとか諸説あります。江戸城を築いた太田道灌は、その風景を「むさし野の小川の清水たえずして岸の根芹をあらひこそすれ」と詠んでいます。
 もとの正式な町名は鷹狩に使う鷹を飼育していた鷹匠が住んでいたことから「元鷹匠町」と呼ばれていましが、五代将軍綱吉が「生類憐みの令」を施行し鷹狩を禁止したため「小川町」と改称されたそうです。

小川町三丁目の町名由来板
小川町三丁目の町名由来板

 安政3年(1856)の絵図では、この界隈に寄合医師・和田春孝、常陸土浦藩土屋家の上屋敷などが見られます。囲碁史の観点から見ると、この寄合医師・和田春孝の家系に幕末近くに本因坊門3段の和田静林という人物がいました。静林は次男だったそうで和田家は継いでいません。和田家があった場所は現在の「三井住友銀行神保町支店」になります。

安政三年の絵図
安政三年の絵図

和田邸跡
和田邸跡

町名由来板:神田小川町三丁目10番地
三井住友銀行神保町支店:神田小川町3丁目12
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| 本因坊家 | 07:00 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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伊藤松和邸跡について

 以前紹介した本因坊の門人で天保四傑の一人、伊藤松和のお玉が池にあった屋敷跡へ行ってみました。以前の調査で岩本町2丁目3の明治鋼業ビルがある区画がその場所だったと判明しましたが、その後の調査により区画の中でも西よりで、首都高にもかかっていることがわかりました。
 明治鋼業ビルには「史蹟 北辰一刀流 千葉周作先生 玄武館道場跡 神田お玉ヶ池畔」というプレートがありました。
 ここに道場があったという意味ではなく、道場があったお玉が池の、ここも周辺だという意味なのでしょう。
 お玉が池の屋敷では松和は多くの人々に囲碁を教え賑っていましたが屋敷は火災により焼失。その後、上野山下に転居し、こちらでも繁盛したため、明治維新後も伊藤は生活に苦労することはなかったといいます。 伊藤松和は明治11年(1878)に亡くなっています。

明治鋼業ビル
明治鋼業ビル

玄武館跡のプレート
玄武館跡のプレート

伊藤松和邸跡
伊藤松和邸跡。明治鋼業ビルの西には新しくマンションが建築されました。

千代田区岩本町2丁目3-11 明治鋼業ビル

【関連記事】 伊藤松和

| 本因坊家 | 08:55 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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本因坊秀栄邸跡 西黒門町

 以前紹介した湯島天神の近くにある本因坊秀栄が晩年を過ごした屋敷跡を久しぶりに訪れました。秀栄の支援者であった高田商会の高田槙蔵・民子夫妻より提供されたもので、高田邸もすぐ近くにありました。

高田槙蔵夫妻より提供された秀栄邸跡
高田槙蔵夫妻より提供された秀栄邸跡

 秀栄の支援者であった高田慎蔵の屋敷跡については、すでに紹介したと思っていたらまだのようでした。
 一代で高田財閥を作り上げた高田慎蔵は明治21年(1888)貿易商社「高田商会」を設立。機械輸入販売を手掛けた高田商会は日清・日露戦争で、海軍省御用となり軍需品を納め急成長しています。
 慎蔵の屋敷は、湯島三組町に明治33年に竣工。コンドルの設計で、写真は残っていないものの、設計図面によるとルネサンス様式で鉄骨造のベランダが特徴の洋館で、暖房設備も完備されていたそうです。
 高田慎蔵、民子夫妻は囲碁が趣味で秀栄を支援。高田邸では三段以上を参加資格とした研究会「四象会」が定例的に開かれています。ただ、102回続いた四象会は明治37年(1904)に突然終止符が打たれます。原因は秀栄の弟子の野沢竹朝が高田民子に暴言を吐いたためで、民子は秀栄に抗議しますが、秀栄は竹朝をかばい、以降高田の援助を断ったそうです。
 その高田邸があった場所を調べてみると、現在の東都文京病院敷地内であることが分かりました。2014年に設立された同病院の前身は日立製作所が昭和35年(1960)に創業50周年記念事業として開設された「小平記念東京日立病院」です。この場所は日立製作所創業者の小平浪平の屋敷跡だったそうですが、高田邸跡を買い取ったということなのでしょう。

高田邸跡
高田邸跡

 ところで、本因坊秀栄が高田慎蔵から屋敷を提供される前に住んでいた場所が西黒門町(上野1丁目)にあったことが分かり行ってみました。湯島天神町(湯島3丁目)の屋敷跡から200mほど離れた場所です。
 明治以降、方円社の勢いに押されていた坊門もこの時期、徐々に勢いを取り戻し、やがて秀栄は名人の道へと進むこととなるのです。 

西黒門町の地図
大正元年の西黒門町の地図

秀栄邸跡
秀栄邸跡

本因坊秀栄邸跡1 : 湯島天神町1丁目77( 現住所:湯島3丁目22-5 シルクマンション野口)
高田慎蔵邸跡 : 本郷湯島三組町五八(東京都文京区湯島3丁目5−7 東都文京病院)
本因坊秀栄邸跡2 : 下谷区上野西黒門町19(東京都台東区上野1丁目7)

【関連記事】
 本因坊秀栄の屋敷跡


| 本因坊家 | 09:56 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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棋匠 吉田悦子の墓碑

 谷中霊園には、中川亀三郎を初めとする囲碁関係者の墓がいくつかありますが、その一画に幕末から明治にかけて活躍した本因坊門下の女流棋士、吉田悦子の墓碑がある事が分かり調査しました。
 吉田悦子については詳細は不明ですが、明治13年発行の「囲碁段付」(井上因碩著)において本因坊秀悦門下二段「吉田悦 女(尾張国)」の名を見る事が出来ます。大正6年に亡くなるまでに四段に昇段しているようです。

吉田家の墓所
吉田家の墓所

 吉田悦子は、嘉永五年に尾張国中島郡中島村で生まれ、幼い頃より囲碁が強く、その名が近隣の村々に知れ渡ります。
 大垣藩家老の戸田三彌に出合った際、良い師に就いて学ぶ必要があると説かれ、江戸へ出て、本因坊秀和の門人となると6年で二段に、その後、女性としては数少ない四段まで昇段しています。
 慶応3年、故郷に帰りますが、翌年、戸田三彌に従い大阪へ出ると、大久保利通ら諸公と出合い京都に同行。京では岩倉具視、西郷隆盛、後藤象二郎らとも出会って度々囲碁の対局を行ったそうです。
 吉田が大阪に出向いた慶応4年は、途中から明治に改元した年であり、吉田を見出した戸田三彌は、鳥羽伏見の戦いにおいて幕府軍に属していた大垣藩を、新政府への恭順へと方針転換させています
 戸田は、吉田を同行させて、囲碁を通じて新政府要人と接触を図っていたのかもしれません。目まぐるしく変わる政局の合間に、大久保や西郷らは囲碁の対局をしながら情勢を探っていた事が窺えます。

吉田悦子の墓碑
吉田悦子の墓碑

碑に刻まれた本因坊秀和の名
碑に刻まれた本因坊秀和の名

 吉田は晩年、鎌倉に移り住み建長寺、円覚寺の僧侶と交遊しながら亡くなるまで囲碁や禅に勤しみ、風雅に暮らしていたそうです。
 墓碑は妹の妙子により建立され、当時の前円覚寺管長宮路宗海撰、現建長寺管長菅原時保書。
 碑を建立した妙子の墓が碑の隣りにありましたが、吉田悦子の墓はありませんでした。

囲碁段附(明治13)に2段で掲載
囲碁段附(明治13)に2段で掲載

谷中霊園甲9号15側

| 本因坊家 | 07:00 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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本因坊秀哉終焉の地 ウロコ屋旅館

 熱海の温泉街では「熱海七湯」と呼ばれる源泉が所々にあり湯気が湧き出ています。
 その中の一つ、「小沢の湯」は、もともと沢口弥左衛門、藤井文次郎、米倉三左衛門の庭の湯を「平左衛門の湯」と称していましたが、地元の人々は小沢にあったので「小沢の湯」と称していたそうです。
 「小沢の湯」では、吹き出す蒸気で温泉卵を作って食べることができ、熱海のちょっとした名所となっています。

小沢の湯
小沢の湯

説明板
説明板

 以前も紹介しましたが、最後の本因坊家当主、二十一世本因坊秀哉は昭和15年(1940)1月18日に熱海にあった「うろこ屋旅館」(現存せず)で亡くなっています。
  秀哉は喜代夫人を伴い「うろこ屋旅館」に滞在。1月16日には、作家の川端康成が訪れ、午後から夕方まで将棋に興じるほど元気だったそうです。しかし、翌日に持病の「心臓衰弱症」が悪化し危篤となり、知らせを聞いて駆けつけた、門下の村島五段、高橋・小杉両四段、京都の吉田五段(段位は全て当時のもの)らが看病しています。「こんどばかりはやられたよ…」とニコリと笑い、弟子達の労をねぎらった秀哉は、翌18日午前6時55分、静かに眠るように67歳の波乱の人生を閉じています。
 当時の様子を新聞は、臨終の様子を「うろこ屋旅館」の部屋の窓から見える夜明けの海のように静かだったと伝えています。

 その本因坊秀哉臨終の地である「うろこ屋旅館」が、どこにあったのか熱海市観光協会へ聞いてみるなど調査した結果、 「小沢の湯」の隣りにあったことがわかりました。現在は、ここから海を見ることはできませんが、当時は高い建物もなく海を臨むことができたのでしょう。

明治40年の地図
明治40年の地図

小沢の湯周辺
小沢の湯周辺

 「うろこ屋旅館」は昭和19年春に発生した大火で焼失し現存していません。戦後、別の場所で「ウロコ屋ホテル」として営業を再開しますが、そのホテルも、もうありませんでした。

戦後の移転先
戦後の移転先

小沢の湯 : 静岡県熱海市銀座町14−14
ホテルウロコヤ跡(移転後のウロコ屋) : 業務スーパー熱海店 静岡県熱海市昭和町5-11

| 本因坊家 | 07:00 | comments:1 | trackbacks(-) | TOP↑

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